刻の静寂(しじま)を切り裂いて
第5話:刻の静寂を切り裂いて
【1】
2100年8月6日。午前8時15分。
広島の街に、長く、鋭いサイレンの音が響き渡った。
小松原拳士は、ジムの窓から見える平和大通りの緑を眺めながら、深く息を吐いた。街は静まり返り、人々は足を止め、目をつむる。かつて一瞬で奪い去られた数多の「寿命」に、祈りを捧げる一分間。
拳士のウォッチには、地下ファイトで男から「譲渡」されたわずかな残滓と合わせ、8年余りの数字が刻まれている。
だが、今の拳士にその数字は意味をなさない。地下の修羅場を経て、彼の指先はわずかに震えていた。武者震いではない。己の命を「通貨」としてではなく、「燃料」として認識し始めた肉体が、爆発の瞬間を待ちわびている音だ。
「拳士、準備はええか。……今日は、お前の『一秒』が試される日じゃ」
背後で竹原が言った。彼もまた、ウォッチを巻いた布を締め直し、北の方角を向いて静かに立っていた。
「相手は畑山じゃ。あいつはレンのような甘ちゃんじゃねえ。お前の『生身』に、真正面から穴を開けに来るぞ」
【2】
夜。広島県立体育館。
メインイベントのゴングが鳴る前、会場は異様な静寂に包まれていた。
青コーナーから入場した畑山隆則は、圧倒的な「熱」を纏っていた。彼の纏うアーマー『バーニング・ソウル』は、防御を一切捨て、内部の熱を拳の推力へと変換する特攻型。機械の継ぎ目からは、寿命が燃焼する際の青白い炎が絶えず噴き出している。
「小松原拳士……竹原さんが見込んだガキか」
畑山がグローブを合わせる。その衝撃だけで、周囲の空気が爆ぜた。
「俺は奪いもしないし、吸いもしない。ただ、お前より速く、お前より重く、俺の時間を燃やす。それだけだ」
畑山のウォッチが高速でカウントダウンを始めた。彼は試合開始と同時に、自らの寿命を「戦闘エネルギー」として豪快に放電し始めている。一戦一戦が、文字通りの命を削る削岩機だ。
【3】
ゴングが鳴った。
「速……っ!」
拳士の動体視力を持ってしても、畑山の踏み込みは閃光だった。
レンの加速が「機械的」だったのに対し、畑山のそれは「肉体的」な爆発だ。一歩ごとに数日分の命を火花に変え、物理限界を超えた踏み込みで懐へ潜り込んでくる。
「どうした、カウンターはどうした! 狙ってこいよ!」
畑山の左フックが拳士の顔面を掠める。
衝撃波だけで肌が裂け、血が飛ぶ。ウォッチが『マイナス2日』を刻むが、拳士はそれを無視した。地下ファイトで男が見せた、自壊をも厭わぬ突撃。あの恐怖を、今、畑山が体現している。
拳士は避けるのをやめた。
竹原の言葉が、耳の奥で蘇る。「ぶつけ合うもんなんじゃ」。
拳士は一歩、前へ出た。畑山の連打の真っ只中、もっとも死に近い距離へ。
【4】
試合は三ラウンドに入り、凄惨を極めていた。
畑山のアーマーは熱で赤く染まり、拳士の肉体は打たれすぎて痣だらけだ。
「……やるじゃねえか。お前、本当に生身でここまで耐えるか!」
畑山が笑う。その顔からは、一秒ごとに「命」が蒸発している。
「これが最後だ! 全部やるよ、お前に!」
畑山が全身のアーマーを強制パージした。
剥き出しの肉体から、青い光が立ち昇る。全寿命をブーストに変えた、最後の特攻。
対する拳士も、ウォッチを左手で握り潰すように構えた。
「……俺も、ケチる気はねえ」
拳士が自ら「1年」の寿命を燃料として供給した。
生身の右腕が、血管を浮き上がらせて膨張する。
畑山のストレートと、拳士のクロスカウンター。
8月6日、21時過ぎ。
一分間の黙祷のような静寂の後、体育館を揺るがす轟音が響き渡った。
【5】
二人の拳が交差した瞬間、光が溢れた。
それは、数字を奪い合う醜い争いではなく、二つの魂が「今、ここにいる」ことを証明するために放った輝きだった。
畑山の拳が拳士の肩を砕き、拳士の拳が畑山の顎を撃ち抜いた。
崩れ落ちたのは——畑山だった。
「……はは、最高だ。……いい一秒だったぜ」
キャンバスに倒れた畑山は、ウォッチの数字が「数時間」まで減っているにもかかわらず、満足げに笑って意識を失った。
拳士は立ち尽くしていた。
勝った。だが、奪った実感はない。
あるのは、自分の内側で「1年」の時間が消滅し、その代わりに「一生忘れられない熱」が残った感覚だけだ。
『寿命移譲を完了しました。+10年』
ウォッチが冷酷に勝利を告げる。
拳士は、天を仰いだ。
広島の夜空には、死者と生者の時間が、区別なく溶け込んでいるように見えた。
「竹原さん……俺、少しだけ分かった気がする」
リングサイドの竹原は、何も言わず、ただ深く頷いた。
小松原拳士。
「寿命を稼ぐ」ことから「命を刻む」ことへ。
その拳に宿る意味が、今、完全に変わった。




