刻の静寂(しじま)を切り裂いて
2100年8月6日。午前8時15分。
広島の街に、長く鋭いサイレンが響き渡った。
街は静まり返り、人々は足を止め、深く目をつむる。かつてこの空の下で、一瞬にして奪い去られた無数の「時間」と「命」に祈りを捧げる一分間。
ジムの窓から夏空を眺めながら、小松原拳士は深く息を吐いた。地下ファイトを経て、指先がわずかに震えている。武者震いではない。己の命を「通貨」として計算するのをやめ、「たった一度きりの燃料」として認識した肉体が、爆発の瞬間を待ちわびて軋む音だ。
「拳士、準備はええか。今日は、お前の一秒が試される日じゃ」
背後で竹原が言った。北の方角を向いたまま、布を巻いた手首を静かに締め直している。
「相手は畑山じゃ。レンのような甘ちゃんでも、ブンシリのような狩人でもねえ。お前の生身に、自分の全人生を叩きつけに来るぞ」
夜。広島県立体育館。
青コーナーから入場した畑山隆則は、圧倒的な「熱」を纏っていた。
彼が纏うアーマー『バーニング・ソウル』は装甲を持たない。内部の炉で寿命を燃やし、その熱量を直接打撃力へと変換する特攻型。機械の継ぎ目から、寿命が摩擦熱となって弾ける青白い炎が絶えず噴き出していた。
「小松原拳士……竹原さんが見込んだガキか」
畑山がグローブを合わせる。その衝撃波だけで、リング上の空気に亀裂が入ったような錯覚を覚える。
「俺は奪いもしないし、吸いもしない。ただ、お前より速く、お前より重く、俺の時間を燃やす。それだけだ」
ゴングが鳴った。
畑山の踏み込みは閃光だった。レンの加速が計算された電子制御だったのに対し、畑山のそれは命の薪をくべた肉体の爆発だ。一歩ごとに数日分の命を火花に変え、物理限界を超えた速度で懐へ潜り込んでくる。
「どうした、カウンターはどうした! 命をケチらず狙ってこいよ!」
左フックが顔面を掠める。衝撃波だけで肌が裂け、血が舞う。ウォッチが『マイナス2日』を刻むが、拳士は意識の外へ追いやった。地下ファイトで味わった、あの自壊の恐怖。だが今の拳士には、怯みはなかった。
避けるのをやめた。一歩、前へ出た。畑山の連打の真っ只中、最も「死」に近い至近距離へ。
三ラウンドに入り、試合は凄惨を極めていた。
畑山のアーマーは過熱で真っ赤に焼け焦げ、拳士の肉体は痣と血に染まっている。
「……やるじゃねえか。本当に生身で、俺の熱量について来やがる!」
畑山が狂おしく笑う。その顔面から、一秒ごとに命が蒸気となって蒸発していく。
「これが最後だ! からくりも計算も全部捨てる!!」
畑山が咆哮し、過熱したアーマーのロックを叩き割った。生身の肉体が剥き出しになる。装甲の補助を捨て、己の筋繊維と心臓の鼓動だけで、残された全寿命をその右拳に集約させる。
対する拳士も、ウォッチを握り潰すように構えた。
熊沢に教わった技術、竹原に叩き込まれた覚悟。そのすべてをひとつの点に絞り出す。
「……俺も、一秒だってケチる気はねえ!」
自ら「1年」の寿命を右腕へ一気に流し込む。血管が浮き上がり、破裂しそうなほど過熱する。
畑山の捨て身の右ストレート。
拳士の覚悟の右クロスカウンター。
時間が凍りついた。
かつてこの街の空を焼き尽くした炎のように、ふたつの「命の熱」が交差する。
畑山の拳が拳士の頬を削り、拳士の拳が畑山の無防備な顎を打ち抜いた。
「ガアッ……!!」
体育館を揺るがす肉弾の交差音。
キャンバスに崩れ落ちたのは、畑山だった。
「……はは、最高だ。命が弾ける、いい一秒だったぜ……」
ウォッチの残りが数時間まで削れながらも、畑山は心底満足そうな笑みを浮かべて意識を失った。
静寂の中、拳士は自分の右拳を見つめて立ち尽くしていた。
奪った実感はない。自分の内側で「1年」という膨大な時間が消え去り、代わりに消えることのない「生きている実感」という熱が残っていた。
『寿命移譲を完了しました。+10年』
ウォッチが冷酷な電子音で勝利を告げる。だが、その文字はもはや拳士を縛る鎖ではなかった。
拳士は深く息を吐き、天井を仰いだ。
「竹原さん……命を燃やすってのが、少しだけ分かった気がする」
リングサイドの竹原は、何も言わず、ただ深く、満足そうに頭を下げた。




