修羅の庭
8月1日。広島の街は、数日後に迫った「あの日」の気配を孕み、どこか重苦しく沈んでいた。平和大通りに並ぶ街灯が、湿った夜気を白く照らしている。
小松原拳士は、竹原に指定された住所を頼りに、東区のさらに奥、山を背負った古い雑居ビルの前に立っていた。かつてはボウリング場だったというその建物は、外壁が剥がれ落ち、窓ガラスの半分がベニヤ板で塞がれている。
看板はない。ただ、地下へと続く階段から、心臓を直接揺さぶるような重低音と、獣のような咆哮が漏れ聞こえていた。
階段を降り、錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、拳士は反射的に腕を交差させて顔を防御した。
「……なんだ、ここは」
熱気と、鉄錆と、そして濃厚な血の匂い。
フロアの中央、即席で組まれた金網の囲いの中で、二人の男が殴り合っていた。からくりアーマーはない。グローブすら嵌めていない。剥き出しの拳が、剥き出しの肉を打ち据える鈍い音が、コンクリートの壁に反響している。
囲いの周りには、数十人の男たちが群がっていた。
ドヤ街でも見かけないような、文字通り「札付き」の不良たちだ。首筋まで刺青を入れた男、片目が潰れた大男、そして——ウォッチの残りが「数時間」しかないにもかかわらず、狂ったように叫び声を上げている若者たち。
ここでは寿命のやり取りが、正規の電子通信ではなく、鈍く光る違法な『寿命チップ(闇カジノの鋳造硬貨)』で直接手渡されていた。相手の端末にかざせばダイレクトに命を吸い上げる、無法者の通貨だ。
「ええ景色じゃろう。ここはのぉ、システムに捨てられた連中の『掃き溜め』じゃ」
金網の奥、特等席に置かれたパイプ椅子に、竹原が深く腰かけていた。
傍らには一升瓶が置かれ、老人は湯呑みで酒を煽っている。その背後には、凶悪な面構えの男たちが、彫像のように静かに控えていた。
「竹原さん、あんたの言ってた場所ってのはこれのことか」
「ジムと言うた覚えはない。ここは『墓場』じゃ。……拳士、お前は昨日、焼き肉を食うて満足しとったのう。あの時の顔、死んだ魚みたいじゃったぞ」
竹原が立ち上がり、雪駄を鳴らして金網へ近づく。
「ここにおる連中を見てみい。どいつもこいつも、あと数日の命じゃ。だがのう、こいつらの拳には、お前がケチっとる『一秒』が全部乗っとる」
金網の中では一人の男が倒れ、勝利した男が血まみれの寿命チップをむんずと掴み取っていた。
「次はお前じゃ、拳士」
竹原が指差したのは、金網の隅に座り込んでいた、影のような男だった。
男が立ち上がる。痩せこけているが、異常に腕が長い。その両手首のウォッチは激しい衝撃で叩き割られ、中身の回路が剥き出しになって火花を散らしていた。
「あいつのウォッチは壊れとる。相手から寿命を吸い取ることも、守ることもできん。今夜ここで命を使い切って死ぬ気で立っとる、ただの自壊兵器じゃ」
「……生身で、あれとやれってのか」
「嫌なら帰れ。牛丼食うて、8年の寿命を大事に抱えて、畳の上で死ぬまで震えとけ」
竹原の言葉が、鋭いナイフのように拳士の喉元を掠めた。
拳士は黙ってシャツを脱ぎ捨てた。
剥き出しのウォッチが、地下室の赤い照明に照らされて不気味に光る。
金網の中に入った瞬間、周囲の温度が跳ね上がったように感じた。
対峙した男の瞳には、感情がなかった。ただ、「今この瞬間」に自分の全存在を叩きつけることだけを目的とした、純粋な虚無の光。
「……やるぜ」
拳士が構えた刹那、男が跳んだ。
速い。ブンシリの加速とは違う。
計算された効率など微塵もない。自分の関節が外れることすら厭わない、捨て身の突撃。
「ガッ!!」
男の拳が、拳士のガードの上から鼻先を叩き割った。
鼻腔に鉄の味が広がる。からくりボクシングの衝撃吸収機能では決して味わえない、ダイレクトな激痛。ウォッチの数字が減るよりも先に、脳が直感的に「死」を感知して警報を鳴らす。
(こいつ……っ。自分の寿命が擦り減るのを、楽しんでやがるのか!?)
男の連打は、拳士の「技術」を嘲笑うように不規則だった。
避けても、避けても、男の皮膚が弾ける音と共に次の拳が飛んでくる。壊れたウォッチから漏れ出す寿命が赤い光の粒子となって散り、男の命が文字通り一秒ごとに削れていく。
「どうした、拳士! 計算しとる暇があるんか!」
金網の外で、竹原の大声が響く。
「お前の『8年』が、こいつの『5分』に押されとるぞ! 恥を知れ!」
拳士の視界が赤く染まる。
恐怖。
初めて、拳士は「残高の数字」ではなく、「死」そのものに直面して戦慄していた。
目の前の男は、明日を信じていない。次の呼吸すら賭けて拳を振るっている。
それに比べて、今の自分はどうだ。8年という「資産」に胡坐をかき、安全な距離から効率よくカウンターを狙う「銀行員」になってはいなかったか!
(ケチるな——命を両替するなッ!)
竹原の怒号が、脳内で爆ぜた。
拳士はガードを下げた。
計算を捨てた。
「……ああ、そうだ。俺も、最初からこっち側の人間だったはずだ!」
男の右拳が、拳士の顎を狙って放たれる。
拳士は、その拳を避けるのではなく、自らそこへ「首を突き出した」。
衝撃が脳を強く揺らす。だが、その激痛をガソリンに変えて、拳士の右ストレートが男の胸元へ一直線に突き出された。
「ガアッ!!」
交差する二つの命。
拳士の拳が男の心臓を捉え、同時に男の体がゆっくりと崩れ落ちた。壊れたウォッチの赤光が最後の一瞬だけ強く輝き、静かに消灯する。
静寂が戻った金網の中で、拳士は自分の両拳を見つめた。
鼻血を拭う手足が、激しく震えている。だが、その瞳には失われていた「飢え」が、恐ろしいほどの密度で蘇っていた。
金網の外で、竹原が小さく口元を緩めたのを、拳士は見逃さなかった。
「……あと、5日じゃ」
老人の低い声が、地下室の冷えた空気に響いた。
8月1日、深夜。広島の暗がりの中で、小松原拳士の「野性」は、完全な覚醒を果たした。




