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『寿命の拳(からくり・ボクシング)』  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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修羅の庭

第4話:修羅の庭


 【1】

 8月1日。広島の街は、数日後に迫った「あの日」の気配を孕み、どこか重苦しく沈んでいた。平和大通りに並ぶ街灯が、湿った夜気を白く照らしている。

 小松原拳士は、竹原に指定された住所を頼りに、東区のさらに奥、山を背負った古い雑居ビルの前に立っていた。かつてはボウリング場だったというその建物は、外壁が剥がれ落ち、窓ガラスの半分がベニヤ板で塞がれている。

 看板はない。ただ、地下へと続く階段から、心臓を直接揺さぶるような重低音と、獣のような咆哮が漏れ聞こえていた。

 階段を降り、錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、拳士は反射的に腕を交差させて顔を防御した。

 「……なんだ、ここは」

 熱気と、鉄錆と、そして濃厚な血の匂い。

 フロアの中央、即席で組まれた金網の囲いの中で、二人の男が殴り合っていた。からくりアーマーはない。グローブすら嵌めていない。剥き出しの拳が、剥き出しの肉を打ち据える鈍い音が、コンクリートの壁に反響している。

 【2】

 囲いの周りには、数十人の男たちが群がっていた。

 ドヤ街でも見かけないような、文字通り「札付き」の不良たちだ。首筋まで刺青を入れた男、片目が潰れた大男、そして——ウォッチの残りが「数時間」しかないにもかかわらず、狂ったように叫び声を上げている若者たち。

 ここでは寿命のやり取りが、スマートウォッチの洗練された通信ではなく、手渡しされる『寿命チップ(非合法の貸付硬貨)』で行われていた。

 「ええ景色じゃろう。ここはのぉ、システムに捨てられた連中の『掃き溜め』じゃ」

 金網の奥、特等席に置かれたパイプ椅子に、竹原が深く腰かけていた。

 傍らには一升瓶が置かれ、老人は湯呑みで酒を煽っている。その背後には、凶悪な面構えの男たちが、彫像のように静かに控えていた。

 「竹原さん、あんたのジムってのはこれのことか」

 「ジム言うた覚えはない。ここは『墓場』じゃ。……拳士、お前は昨日、焼き肉を食うて満足しとったのう。あの時の顔、死んだ魚みたいじゃったぞ」

 竹原が立ち上がり、雪駄を鳴らして金網へ近づく。

 「ここにおる連中を見てみい。どいつもこいつも、あと数日の命じゃ。だがのう、こいつらの拳には、お前がケチっとる『一秒』が全部乗っとる」

 【3】

 金網の中では、一人の男が倒れ、勝利した男が血まみれのチップを掴み取っていた。

 「次はお前じゃ、拳士」

 竹原が指差したのは、金網の隅に座り込んでいた、影のような男だった。

 男が立ち上がる。痩せこけているが、異常に腕が長い。その両手首のウォッチは、激しい衝撃で叩き割られ、中身の回路が剥き出しになっていた。

 「こいつのウォッチは壊れとる。つまり、相手から寿命を吸い取ることも、守ることもできん。ただひたすら、自分の命を削って殴るだけの実戦兵器じゃ」

 「……生身でやれってのか」

 「嫌なら帰れ。牛丼食うて、5年の寿命を大事に抱えて、畳の上で死ぬまで震えとけ」

 竹原の言葉が、鋭いナイフのように拳士の喉元を掠めた。

 拳士は黙ってシャツを脱ぎ捨てた。

 剥き出しのウォッチが、地下室の赤い照明に照らされて不気味に光る。

 【4】

 金網の中に入った瞬間、温度が数度上がったように感じた。

 対峙した男の瞳には、感情がなかった。ただ、「今この瞬間」に自分の全存在を叩きつけることだけを目的とした、虚無の光。

 「……やるぜ」

 拳士が構えた。

 その刹那、男が跳んだ。

 速い。ブンシリの加速とは違う。

 計算された効率など微塵もない。関節が外れても構わないという、自壊を前提とした突撃。

 「ガッ!!」

 男の拳が、拳士のガードの上から鼻先を叩き割った。

 鼻腔に鉄の味が広がる。からくりボクシングでは決して味わえない、ダイレクトな衝撃。ウォッチの数字が減るよりも先に、脳が「死」を意識して警報を鳴らす。

 (こいつ……っ。自分の命が減るのを、楽しんでやがるのか!?)

 男の連打は、拳士の「技術」を嘲笑うように不規則だった。

 避けても、避けても、男の皮膚が弾ける音と共に、次の拳が飛んでくる。男のウォッチから火花が散る。寿命が漏れ出しているのだ。一秒、また一秒と、文字通り煙となって男の命が消えてゆく。

 【5】

 「どうした、拳士! 計算しとる暇があるんか!」

 金網の外で、竹原が怒鳴る。

 「お前の『5年』を、こいつの『5分』が凌駕しようとしとるぞ! 恥を知れ!」

 拳士の視界が赤く染まる。

 恐怖。

 初めて、拳士は「寿命の数字」ではなく、「死」そのものに恐怖した。

 目の前の男は、明日を信じていない。次の呼吸すら賭けている。

 それに比べて、今の自分はどうだ。8年という資産に胡坐をかき、安全な距離からカウンターを狙う「銀行員」になってはいなかったか。

 (ケチるな——)

 竹原の言葉が、耳の奥で爆ぜた。

 拳士はガードを下げた。

 計算を捨てた。

 「……ああ、そうだ。俺もこっち側の人間だったはずだ!」

 男の右拳が、拳士の顎を狙って放たれる。

 拳士は、その拳を避けるのではなく、自らそこへ「首を突き出した」。

 衝撃が脳を揺らす。だが、その痛みをガソリンに変えて、拳士の右が、男の心臓を撃ち抜くために真っ直ぐに突き出された。

 交差する二つの「命」。

 8月1日、深夜。

 広島の地下深くで、小松原拳士の「野性」が、再び真の産声を上げた。

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