魂の計量(ハカリ)
8月3日。午後2時。ジムの中は、蝉の声だけが支配していた。
天井の扇風機は熱を掻き回すだけで涼しさを生まない。砂袋には汗の染みが幾重にも積もり、もはや模様のようになっていた。拳士はその前で腕を組んで立っていた。殴っていない。珍しいことだった。
ブンシリを倒してから12日。ウォッチには『8年4ヶ月』の数字が刻まれている。今日の昼、拳士は初めて焼き肉を食った。「1時間半」の定食。脂の乗ったカルビが鉄板の上でじゅうじゅうと鳴っていた。食いながら、ほんの少し、気が緩んでいる自分に気づいた。生き延びた実感と、残高のある安心感。それが拳士の拳をわずかに重くしていた。
「……気が抜けてのう、拳が重いじゃろ」
背後から雪駄の音がした。振り返ると、小柄な老人が立っていた。七十を超えているだろう。くたばりぞこないのような痩せた体躯だが、背骨だけは真っ直ぐに伸びている。両手首のウォッチには使い古したバンテージが巻かれ、数字は見えない。
「……誰だ」
「竹原じゃ」
奥から出てきた熊沢が、静かに頭を下げた。あの無愛想な熊沢が、一言も発さずに頭を下げている。
「竹原さん……まさか、降りてこられるとは」
「熊沢、お前が育てとる小僧の顔を見に来た。——おい小僧、構えてみぃ。生身でええ。からくりは要らん」
拳士はグローブだけを嵌めてリングに上がった。竹原は何も装備しない。バンデージすら巻かない、文字通りの生身だ。
「来い」
拳士は踏み込んだ。老人が相手だ、様子を見ようと右ストレートを——。
「ガンッ」
視界がぶれた。頬が熱い。気づけばロープに背中を預けていた。竹原の右拳が、すでに元の位置に戻っている。
「ジャブじゃ。お前が『引くか打つか』を計算した瞬間に、もう打っとる」
今度は本気で踏み込んだ。クロスカウンターの軌道。だが竹原の左が、拳士の拳が届くより早く脇腹を撃ち抜いていた。肺から空気が弾け飛ぶ。
「見えたか」と竹原が静かに言った。「お前のカウンターは、相手の寿命と自分のコストを秤にかけておる。『命を削って相打ちにする』計算をしとるんじゃ」
「……コストを考えて何が悪い。ここは寿命を奪い合うリングだ。一秒の無駄だって命取りになる!」
「計算が悪いとは言うとらん」竹原は冷たい目で拳士を見下ろした。「じゃがな、カウンターの瞬間に『この1秒は損か得か』と迷うた拳は、絶対に最速にはならん。熊沢に教わった命の燃やし方を、お前はただの『数値の支払いに過ぎん』と勘違いしとる」
竹原はバンテージを解いた。表示板は割れ、数字は完全に途切れていた。
「ワシのウォッチは昔の試合でぶっ壊れた。それ以来、残り時間なんぞ見えん。だがな、数字が見えなくなって初めて分かった。——ボクシングちゅうのは、寿命の『両替』じゃねえ。命を『乗せる』作業なんじゃ」
竹原の眼光が、昼下がりの暗がりに刺さる。
「損得で打つカウンターは、ただの作業じゃ。相手が10年持って来ようが、お前が数ヶ月しか無かろうが関係ねえ。その一瞬に『自分の全人生』を乗せられるかどうか。それだけが、あの装甲を打ち破る」
「……全人生を乗せる」
「8月6日」と竹原が言った。「次の相手はお前の計算が通らん化け物じゃ。勝ちを拾いに行くな。命を乗せに行け。一秒をケチるなよ」
竹原が立ち上がり、雪駄の音を響かせて去っていく。熊沢は黙ってその背中を見送り、最後に拳士へ言った。
「あのお方は、ライフ・バンク制度ができる前の『本物のボクシング』を知る最後の人だ。……殴ってこい、拳士。計算の先にある拳を」
夜。拳士はひとり、暗いジムで砂袋の前に立った。
残高の数字を忘れた。タイミングを測るのをやめた。ただ、己のすべてを拳に注ぎ込んで——叩きつけた。
砂袋が、激しい爆音とともに跳ね上がった。




