魂の計量(ハカリ)
第3話:魂の計量
【1】
8月3日。午後2時。
ジムの中は、蝉の声だけが支配していた。
熊沢の古びたジム——ドヤ街の路地の奥、元倉庫を改装した細長い空間——は、真夏の午後になると空気が完全に止まる。天井に吊るされた扇風機は、熱を掻き回すだけで涼しさを生まない。砂袋には汗の染みが幾重にも重なり、染みの上にまた染みが積もって、もはや模様のようになっていた。
拳士は、その砂袋の前で腕を組んで立っていた。
殴っていない。珍しいことだ。
ブンシリを倒してから12日が経つ。ウォッチには『8年4ヶ月』の数字が刻まれている。移譲された8年に、手持ちの残りが加算された数字だ。初戦の前、10分を切っていたカウントダウンを思えば、隔世の感がある。
拳士は、今日の昼に牛丼ではなく焼き肉を食った。
「1時間半」の定食だった。脂の乗った厚切りカルビが、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てていた。美味かった。恐ろしく美味かった。食いながら、少しだけ、ほんの少しだけ、気が緩んでいる自分に気づいた。
(まずい、とは思った)
思ったが、カルビを残す理由も見当たらなかった。
砂袋を殴ろうとして——殴れなかった。腹が重い。それだけではない。何か、焦点が定まらない感じがある。レンを倒した後は怒りで動いた。ブンシリを倒した後は、熊沢の「次を考えろ」という一言が鞭になった。だが今日の拳士には、その鞭がない。
扇風機が、ぬるい風を送ってくる。
「……眠いな」
拳士が呟いた、その瞬間だった。
「眠とうなるのう。焼き肉食うたんか」
背後から、雪駄の音がした。
【2】
振り返った拳士の視界に、小柄な老人が立っていた。
年齢は七十を超えているだろう。白い開襟シャツに、くたびれた麻のズボン。足元の雪駄が、コンクリートの床の上で乾いた音を立てている。顔の皺は深いが、姿勢だけは驚くほど真っ直ぐだ。背骨に、何か別の素材が入っているかのように。
両手首のウォッチには、布が巻かれていて数字が見えない。
「……誰だ、あんた」
「竹原じゃ」
それだけ言って、老人はジムの中を見回した。砂袋を一瞥し、リングを一瞥し、最後に拳士を一瞥した。目が、鋭い。年齢に似合わない種類の鋭さだ。
熊沢が奥から出てきて、深く頭を下げた。
拳士が熊沢の顔を見たのは初めてだった。あの無愛想な老人が、頭を下げている。
「来てくれると思わんかったわ」
「嘘をつくな。呼んだから来たんじゃ」
竹原は鼻を鳴らして、リングへ向かった。
「ちょっと待ってくれ、あんたは一体——」
「お前のカウンター、見せてみろ」
振り返りもせず、竹原が言った。
「生身でええ。からくりは要らん」
【3】
拳士はウォッチを起動しようとして——やめた。
何かが違う、と直感した。この老人に、「システム」を見せる気になれなかった。理由は説明できない。ただ、そういう気がした。
リングに上がり、グローブだけを嵌めた。
竹原は何も装備しなかった。バンデージすら巻かない、文字通りの「生身」だ。
「来い」
拳士は踏み込んだ。
右のストレートを打つ。普通の速度だ、老人を相手に全力など出せない——。
「ガン」
音がした。
何が起きたか、拳士には一瞬わからなかった。視界がぶれている。頬が熱い。気づけば、コーナーのロープに背中が当たっていた。
竹原の右拳が、自然に降りていた。
「……いまのは」
「ジャブじゃ。お前のカウンターに、カウンターを返した」
拳士は頬を押さえた。痛い。本気で痛い。からくりは使っていない、純粋な肉体の一撃で、これほどの衝撃があるのか。
「もう一回、来い」
今度は本気で踏み込んだ。
右ストレート——クロスカウンターを意識した、あの軌道で。だが竹原は消えなかった。拳士の拳が届くよりも先に、竹原の左が拳士の脇腹に食い込んでいた。内臓が揺れる。肺から空気が漏れる。
「っ——」
「見えたじゃろ」
竹原が静かに言う。
「お前のカウンターは、相手が来るのを待っとる。『貰うのを怖がっとる』んじゃ。一秒をケチっとる」
【4】
「一秒を、ケチる」
拳士は息を整えながら、その言葉を咀嚼した。
「俺のクロスカウンターは——相手の攻撃に合わせて打つもんだろ。カウンターってのは、そういうもんじゃないのか」
「そうじゃ。じゃが、お前のは『合わせて』じゃなくて、『待ってから』になっとる」
竹原は、リングの中央に立って続けた。
「お前はレンの光に飛び込んだ。ブンシリの膝に拳を叩き込んだ。あれは正しかった。だがのう——」
老人が、拳士の目を真っ直ぐ見た。
「なぜお前は、自分が傷つくことを『コスト』として計算しとるんじゃ」
拳士は何も言えなかった。
「ええか」
竹原の声が、静かに、しかし確かな重さを持って、ジムの空気を揺らした。
「ボクシングいうんはのぉ、命を『やり取り』するんじゃねえ。『ぶつけ合う』もんなんじゃ」
「ぶつけ合う——」
「損得じゃない。両替じゃない。お前が怖がって、一秒計算して、それからようやく打つカウンターは、ただの『反応』じゃ。ボクシングじゃねえ」
拳士は、レンとの戦いを思い出した。ブンシリとの戦いを思い出した。確かに——確かに、自分は「計算」していた。相手のエネルギーを利用し、タイミングを見計らい、最適な角度を選んだ。それは熊沢が叩き込んだ「技術」だったはずだ。
だが竹原は言う。それはボクシングではない、と。
「じゃあ、何が違うんだ」
「お前の拳に、お前自身がおるか」
拳士は黙った。
「からくりも、システムも、寿命の計算も、全部道具じゃ。道具は使えばええ。じゃがのう——道具を持っとる手の、その奥に何があるか。それがなければ、幾ら技術があっても、ただの機械と同じじゃ」
【5】
夜になった。
熊沢は奥に引っ込み、ジムには拳士と竹原だけが残った。消灯したジムの中で、ウォッチの赤い数字だけが光っている。
竹原は砂袋の前の丸椅子に腰かけ、布を巻いた手首をゆっくりと撫でていた。
「あんたのウォッチに、何が入ってる」
拳士は訊いた。失礼な質問だと分かって、それでも訊かずにいられなかった。
竹原は少し間を置いてから、布の端をめくった。
数字はなかった。
ウォッチの表示板が、真っ白に飛んでいた。上限を超えた機械が示す、ある種の沈黙だ。
「……どれだけ持ってんだ」
「知らん。数えるのをやめたのは、ずっと前じゃ」
竹原は布を戻した。
「数えんようになってから、初めてわかった。寿命っていうのは、持っとる量の話じゃない。どう燃やすか、それだけの話じゃ」
拳士は、リングの白いキャンバスを見つめた。
「8月6日」と竹原が言った。
「ん?」
「お前の次の試合、聞いとる。相手は知っとるか」
「まだ名前しか」
「ならええ。ひとつだけ覚えとけ」
竹原が立ち上がる。雪駄が、静かな音を立てた。
「その日、お前は初めて、『貰いに行く』ことを怖がらん自分に会う。その瞬間だけが、本当のボクシングじゃ」
ジムの入口で、竹原は振り返らなかった。
「一秒をケチな。お前の一秒は、お前にしか燃やせん」
雪駄の音が遠ざかり、蝉の声だけが戻ってきた。
拳士はひとり、暗いジムの中で砂袋の前に立った。
グローブを嵌めた。
計算しなかった。タイミングを測らなかった。ただ——打った。
砂袋が、今夜初めて、重い音を立てた。




