南アジアの虎を打て
第2話:南アジアの虎を打て
【1】
7月21日。午後11時。熱帯夜のリングは、蒸し風呂だった。
湿気を含んだ空気が肌に纏わりつき、呼吸するたびに肺の奥まで熱がこもる。観客の体温と、安煙草の煙と、アーマーから漏れる機械油の臭いが混ざり合って、ドヤ街の特設会場をひとつの巨大な鍋のように煮立てていた。
小松原拳士は、コーナーで水を被った。
「残り寿命、4年9ヶ月17日——」
ウォッチの読み上げを、拳士は途中で遮った。知ってる。数えるまでもない。
2ヶ月半前、霧崎レンから奪った5年は、すでにその大半が消えていた。ジムの機材使用料。高タンパクの食料。テープとプロテクター。それから——一日一回だけ許している、「1時間」の牛丼。安い丼だが、ドヤ街の水道水で腹を満たしていた頃とは別物だった。肉の脂が舌に広がるたびに、拳士は次の試合のことを考えた。喰うために戦い、戦うために喰う。それだけだ。
ジムの親父——元ライセンス保持者の老人、熊沢——は、この2ヶ月半で拳士に三つのことを叩き込んだ。
距離の測り方。呼吸の殺し方。そして、「死ぬ前に考えろ」ということ。
レンとの戦いで拳士が見せたクロスカウンターは、天性の反射と狂気の産物だった。だが熊沢は言った。「野性だけじゃ、次は死ぬ」と。
拳士はその言葉を飲み込んで、砂袋を殴り続けた。毎日、夜が明けるまで。
「……来たぞ」
熊沢が低く呟く。
リングの対角、赤コーナー。
ブンシリが、ゆっくりと立ち上がった。
【2】
通称、南アジアの虎。
身長175センチ。拳士とさほど変わらない体躯だが、その印象はまるで違った。無駄な肉がない。鍛え抜かれた筋肉が皮膚の下で静かに蠢いており、佇まいそのものが一頭の獣を思わせる。脛と肘には、鈍い金色の光を放つセラミック製のプロテクター——『真鍮の虎爪』が装着されている。
霧崎レンのアーマーが「浪費」の象徴だったとすれば、ブンシリのそれは「収穫」だ。
派手さはない。余分な機構もない。ただひとつの機能に特化している——触れた瞬間、相手の寿命を「吸い取る」こと。削るのではない。吸い取るのだ。奪った寿命はそのままブンシリの肉体へと還流され、加速と回復に変換される。狩れば狩るほど、速くなる。南アジアの過酷な環境が生み出した、シンプルで残酷なシステムだった。
ゴングが鳴った。
ブンシリは歩いてこない。最初から、疾走した。
最初のミドルキックが、拳士の左脇腹を捉えた瞬間——。
「っ……!」
痛みではなかった。それよりも異質な感覚だ。脇腹の、皮膚の下の、もっと深いところから、何かが抜き取られていく。時間が、文字通り、流れ出ていく。
ウォッチが叫ぶ。『マイナス3ヶ月』。
「……喰われた」
拳士は後退しながら、その感触を反芻した。削られるレンの攻撃とは根本的に違う。あちらは衝撃だ。こちらは、吸引だ。虎爪が皮膚に触れるたびに、寿命が糸のように引き抜かれていく。
そしてブンシリが、一瞬だけ速くなった。
【3】
二分が経過する頃には、拳士には全体像が見えていた。
ブンシリのスタイルはムエタイの教科書通りだ。プレッシャーをかけながら前に出て、肘と膝と蹴りの八方向から刻んでくる。だが、その圧力は試合が進むほど増していく。拳士から吸い上げた寿命で、ブンシリ自身が加速しているからだ。
(奪われるんじゃない。……喰われてる。あいつ、俺の時間でどんどん速くなってやがる)
拳士は距離を取りながら、考えた。
レンの時は、怒りで動いた。腹の底から込み上げてくる何かに任せて、光の中に飛び込んだ。だが今回、それは通じない。ブンシリは感情で崩れるタイプではない。南アジアの路地で何百回と繰り返してきた「狩り」が、彼の骨と筋肉に染み込んでいる。怒鳴っても、睨んでも、揺れない。
ならば、こちらも考える。
熊沢の声が、脳裏に蘇る。「野性だけじゃ、次は死ぬ」。
(……虎爪の弱点は、どこだ)
飛んでくる左ミドルを、拳士はギリギリで身体を捌いてかわした。かわしながら、虎爪を見る。セラミックのプロテクター。継ぎ目は——ある。脛の内側、アーマーの留め具の周囲。加工が難しい曲面部分に、僅かな隙間が走っている。だが、そこを狙うには、ブンシリの蹴りの軌道に自分から入っていかなければならない。
拳士のウォッチが警告する。残り:4年2ヶ月。
吸われるたびに、数字が減っていく。
「……もう少し喰わせてやる」
拳士は、わざと防御を緩めた。
【4】
ブンシリが仕掛けを察知するまでの、三十秒。
その間、拳士は意図的にミドルキックを二発もらった。ウォッチから合計8ヶ月が消えた。だがその代わりに、拳士はブンシリの「飢え」を育てた。吸えば吸うほど速くなる男に、「もっと吸えるぞ」という錯覚を植え付けた。
ブンシリの目が変わった。
獲物を確信した捕食者の目だ。
そしてブンシリは、試合で最も凄惨な得意技を解禁した。
飛び膝蹴り——カウ・ロイ。
地を蹴って宙に浮き、全体重と跳躍の上昇エネルギーを膝の一点に集中させる、ムエタイの頂点に位置する技だ。虎爪が起動し、金色の光を帯びた膝が、拳士の顔面へ向けて弧を描く。当たれば、一撃で数年単位の寿命が消える。
観客が息を呑んだ。
(……見えた)
拳士はその瞬間、自分のウォッチに手を当てた。
「燃やす」
霧崎レンとの戦いで学んだことがある。寿命はエネルギーだ。誰かに吸われるだけではない。自分で火をつけることもできる。一瞬だけ、限界まで。
拳士のウォッチから、自ら「6ヶ月」を引き出した。
それを右の拳に、全部叩き込んだ。
「吸うより速く、先に叩き込む」
ブンシリの膝が上昇する。拳士の右ストレートが、真上から垂直に落ちる。膝の軌道と、拳の軌道が交差する。ブンシリが吸い取るよりも0.3秒早く、拳士の「燃やした寿命」がセラミックのアーマーに激突した。
「バギィィィン!!」
虎爪の継ぎ目が、内側から弾け飛んだ。
砕けたプロテクターの破片が散る中、拳士の拳はそのまま止まらず——カウ・ロイの上昇エネルギーごと地面に向かって押し潰すように——ブンシリの顎を、真下へ叩き落とした。
【5】
キャンバスに、南アジアの虎が沈んだ。
熱帯夜のリングに、しばらく誰も声を出さなかった。
ウォッチが静かに告げる。『寿命移譲を完了しました。 +8年』
拳士は荒い息を吐きながら、砕けた虎爪の残骸を踏んで、ブンシリの傍らにしゃがみ込んだ。
「……お前の狩り方は、正しかった」
誰に聞かせるでもなく、低く言う。
「だがな。俺の時間を喰って速くなったお前を、俺自身の時間で殴り飛ばした。それだけの話だ」
立ち上がる。ウォッチには、新たな数字が刻まれていた。
遠くで熊沢が、腕を組んだまま鼻を鳴らすのが見えた。褒めない男だ。それでいい。
小松原拳士——二度目の勝利。
野性に技術が混ざり始めた男が、今夜初めて「考えて」勝った夜だった。




