表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『寿命の拳(からくり・ボクシング)』  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/40

南アジアの虎を打て

第2話:南アジアの虎を打て


 【1】

 7月21日。午後11時。熱帯夜のリングは、蒸し風呂だった。

 湿気を含んだ空気が肌に纏わりつき、呼吸するたびに肺の奥まで熱がこもる。観客の体温と、安煙草の煙と、アーマーから漏れる機械油の臭いが混ざり合って、ドヤ街の特設会場をひとつの巨大な鍋のように煮立てていた。

 小松原拳士は、コーナーで水を被った。

 「残り寿命、4年9ヶ月17日——」

 ウォッチの読み上げを、拳士は途中で遮った。知ってる。数えるまでもない。

 2ヶ月半前、霧崎レンから奪った5年は、すでにその大半が消えていた。ジムの機材使用料。高タンパクの食料。テープとプロテクター。それから——一日一回だけ許している、「1時間」の牛丼。安い丼だが、ドヤ街の水道水で腹を満たしていた頃とは別物だった。肉の脂が舌に広がるたびに、拳士は次の試合のことを考えた。喰うために戦い、戦うために喰う。それだけだ。

 ジムの親父——元ライセンス保持者の老人、熊沢——は、この2ヶ月半で拳士に三つのことを叩き込んだ。

 距離の測り方。呼吸の殺し方。そして、「死ぬ前に考えろ」ということ。

 レンとの戦いで拳士が見せたクロスカウンターは、天性の反射と狂気の産物だった。だが熊沢は言った。「野性だけじゃ、次は死ぬ」と。

 拳士はその言葉を飲み込んで、砂袋を殴り続けた。毎日、夜が明けるまで。

 「……来たぞ」

 熊沢が低く呟く。

 リングの対角、赤コーナー。

 ブンシリが、ゆっくりと立ち上がった。

 【2】

 通称、南アジアの虎。

 身長175センチ。拳士とさほど変わらない体躯だが、その印象はまるで違った。無駄な肉がない。鍛え抜かれた筋肉が皮膚の下で静かに蠢いており、佇まいそのものが一頭の獣を思わせる。脛と肘には、鈍い金色の光を放つセラミック製のプロテクター——『真鍮の虎爪ブラス・タイガー』が装着されている。

 霧崎レンのアーマーが「浪費」の象徴だったとすれば、ブンシリのそれは「収穫」だ。

 派手さはない。余分な機構もない。ただひとつの機能に特化している——触れた瞬間、相手の寿命を「吸い取る」こと。削るのではない。吸い取るのだ。奪った寿命はそのままブンシリの肉体へと還流され、加速と回復に変換される。狩れば狩るほど、速くなる。南アジアの過酷な環境が生み出した、シンプルで残酷なシステムだった。

 ゴングが鳴った。

 ブンシリは歩いてこない。最初から、疾走した。

 最初のミドルキックが、拳士の左脇腹を捉えた瞬間——。

 「っ……!」

 痛みではなかった。それよりも異質な感覚だ。脇腹の、皮膚の下の、もっと深いところから、何かが抜き取られていく。時間が、文字通り、流れ出ていく。

 ウォッチが叫ぶ。『マイナス3ヶ月』。

 「……喰われた」

 拳士は後退しながら、その感触を反芻した。削られるレンの攻撃とは根本的に違う。あちらは衝撃だ。こちらは、吸引だ。虎爪が皮膚に触れるたびに、寿命が糸のように引き抜かれていく。

 そしてブンシリが、一瞬だけ速くなった。

 【3】

 二分が経過する頃には、拳士には全体像が見えていた。

 ブンシリのスタイルはムエタイの教科書通りだ。プレッシャーをかけながら前に出て、肘と膝と蹴りの八方向から刻んでくる。だが、その圧力は試合が進むほど増していく。拳士から吸い上げた寿命で、ブンシリ自身が加速しているからだ。

 (奪われるんじゃない。……喰われてる。あいつ、俺の時間でどんどん速くなってやがる)

 拳士は距離を取りながら、考えた。

 レンの時は、怒りで動いた。腹の底から込み上げてくる何かに任せて、光の中に飛び込んだ。だが今回、それは通じない。ブンシリは感情で崩れるタイプではない。南アジアの路地で何百回と繰り返してきた「狩り」が、彼の骨と筋肉に染み込んでいる。怒鳴っても、睨んでも、揺れない。

 ならば、こちらも考える。

 熊沢の声が、脳裏に蘇る。「野性だけじゃ、次は死ぬ」。

 (……虎爪の弱点は、どこだ)

 飛んでくる左ミドルを、拳士はギリギリで身体を捌いてかわした。かわしながら、虎爪を見る。セラミックのプロテクター。継ぎ目は——ある。脛の内側、アーマーの留め具の周囲。加工が難しい曲面部分に、僅かな隙間が走っている。だが、そこを狙うには、ブンシリの蹴りの軌道に自分から入っていかなければならない。

 拳士のウォッチが警告する。残り:4年2ヶ月。

 吸われるたびに、数字が減っていく。

 「……もう少し喰わせてやる」

 拳士は、わざと防御を緩めた。

 【4】

 ブンシリが仕掛けを察知するまでの、三十秒。

 その間、拳士は意図的にミドルキックを二発もらった。ウォッチから合計8ヶ月が消えた。だがその代わりに、拳士はブンシリの「飢え」を育てた。吸えば吸うほど速くなる男に、「もっと吸えるぞ」という錯覚を植え付けた。

 ブンシリの目が変わった。

 獲物を確信した捕食者の目だ。

 そしてブンシリは、試合で最も凄惨な得意技を解禁した。

 飛び膝蹴り——カウ・ロイ。

 地を蹴って宙に浮き、全体重と跳躍の上昇エネルギーを膝の一点に集中させる、ムエタイの頂点に位置する技だ。虎爪が起動し、金色の光を帯びた膝が、拳士の顔面へ向けて弧を描く。当たれば、一撃で数年単位の寿命が消える。

 観客が息を呑んだ。

 (……見えた)

 拳士はその瞬間、自分のウォッチに手を当てた。

 「燃やす」

 霧崎レンとの戦いで学んだことがある。寿命はエネルギーだ。誰かに吸われるだけではない。自分で火をつけることもできる。一瞬だけ、限界まで。

 拳士のウォッチから、自ら「6ヶ月」を引き出した。

 それを右の拳に、全部叩き込んだ。

 「吸うより速く、先に叩き込む」

 ブンシリの膝が上昇する。拳士の右ストレートが、真上から垂直に落ちる。膝の軌道と、拳の軌道が交差する。ブンシリが吸い取るよりも0.3秒早く、拳士の「燃やした寿命」がセラミックのアーマーに激突した。

 「バギィィィン!!」

 虎爪の継ぎ目が、内側から弾け飛んだ。

 砕けたプロテクターの破片が散る中、拳士の拳はそのまま止まらず——カウ・ロイの上昇エネルギーごと地面に向かって押し潰すように——ブンシリの顎を、真下へ叩き落とした。

 【5】

 キャンバスに、南アジアの虎が沈んだ。

 熱帯夜のリングに、しばらく誰も声を出さなかった。

 ウォッチが静かに告げる。『寿命移譲を完了しました。 +8年』

 拳士は荒い息を吐きながら、砕けた虎爪の残骸を踏んで、ブンシリの傍らにしゃがみ込んだ。

 「……お前の狩り方は、正しかった」

 誰に聞かせるでもなく、低く言う。

 「だがな。俺の時間を喰って速くなったお前を、俺自身の時間で殴り飛ばした。それだけの話だ」

 立ち上がる。ウォッチには、新たな数字が刻まれていた。

 遠くで熊沢が、腕を組んだまま鼻を鳴らすのが見えた。褒めない男だ。それでいい。

 小松原拳士——二度目の勝利。

 野性に技術が混ざり始めた男が、今夜初めて「考えて」勝った夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ