南アジアの虎を打て
7月21日。午後11時。熱帯夜のリングは、蒸し風呂だった。
観客の体温と安煙草の煙と、アーマーから漏れる機械油の臭いが混ざり合い、ドヤ街の特設会場をひとつの巨大な鍋のように煮立てていた。小松原拳士はコーナーで水を被った。「残り寿命、4年9ヶ月——」。ウォッチの読み上げを途中で遮る。知ってる。
霧崎レンから奪った5年は、すでにその大半が消えていた。ジムの機材料。高タンパクの食料。テープとプロテクター。それから一日一回だけ許している、「1時間」の牛丼。安い丼だが、水道水で腹を満たしていた頃とは別物だった。肉の脂が舌に広がるたびに、拳士は次の試合を考えた。喰うために戦い、戦うために喰う。それだけだ。
ジムの親父の熊沢は、この2ヶ月半で三つのことを叩き込んだ。距離の測り方。呼吸の殺し方。「死ぬ前に考えろ」ということ。レンとの戦いでのクロスカウンターは、天性の反射と狂気の産物だった。だが熊沢は言った。「野性だけじゃ、次は死ぬ」。拳士はその言葉を飲み込んで、夜が明けるまで砂袋を殴り続けた。
「……来たぞ」と熊沢が低く呟く。
リングの対角、赤コーナー。ブンシリがゆっくりと立ち上がった。
通称、南アジアの虎。鍛え抜かれた筋肉が皮膚の下で静かに蠢き、佇まいそのものが一頭の獣を思わせる。脛と肘には鈍い金色のセラミック製プロテクター——『真鍮の虎爪』。霧崎レンのアーマーが「浪費」の象徴だったとすれば、こちらは「収穫」だ。触れた瞬間、相手の寿命を吸い取る。削るのではない、吸い取るのだ。奪った寿命は加速と回復に変換され、狩れば狩るほど速くなる。シンプルで、残酷なシステムだった。
ゴングが鳴った。ブンシリは歩いてこない。最初から、疾走した。
最初のミドルキックが左脇腹を捉えた瞬間、痛みではない異質な感覚が走った。皮膚の下の、もっと深いところから、何かが抜き取られていく。ウォッチが叫ぶ。『マイナス3ヶ月』。
(削られるんじゃない……喰われてる)
レンの攻撃は衝撃だった。こちらは吸引だ。虎爪が触れるたびに寿命が糸のように引き抜かれ、ブンシリが一瞬速くなる。試合が進むほど、圧力が増していく。距離を取りながら、拳士は考えた。怒りで動いたレンの時とは違う。感情で揺さぶっても、この男は崩れない。
ならばこちらも、考える。
(虎爪の弱点は、どこだ)
飛んでくる左ミドルをぎりぎりで捌きながら、拳士は虎爪を見た。セラミックのプロテクター。継ぎ目は——ある。脛の内側、留め具の周囲。加工が難しい曲面部分に、僅かな隙間が走っている。だがそこを狙うには、蹴りの軌道に自分から入っていかなければならない。
ウォッチが警告する。残り:4年2ヶ月。
「……もう少し喰わせてやる」
拳士はわざと、防御を緩めた。意図的にミドルキックを二発もらい、合計8ヶ月を差し出した。その代わりに、ブンシリの「飢え」を育てた。吸えば吸うほど速くなる男に、「もっと吸えるぞ」という錯覚を植え付けた。
ブンシリの目が変わった。獲物を確信した、捕食者の目だ。
飛び膝蹴り——カウ・ロイ。地を蹴って宙に浮き、全体重を膝の一点へ集中させるムエタイの頂点の技。金色の光を帯びた膝が、拳士の顔面へ弧を描いた。
(……見えた)
拳士は自分のウォッチに手を当てた。「燃やす」。レンとの戦いで学んだことがある——寿命は吸われるだけじゃない、自分で火をつけることもできる。「6ヶ月」を引き出し、右の拳に全部叩き込む。
吸うより速く、先に叩き込む。
ブンシリの膝が上昇する。拳士の右ストレートが真上から垂直に落ちる。ブンシリが吸い取るよりも0.3秒早く、燃やした寿命がセラミックに激突した。
「バギィィィン!!」
虎爪の継ぎ目が内側から弾け飛んだ。拳士の拳はそのまま止まらず、カウ・ロイの上昇エネルギーごと押し潰すようにブンシリの顎を真下へ叩き落とした。
キャンバスに、南アジアの虎が沈んだ。
ウォッチが静かに告げる。『寿命移譲を完了しました。+8年』
拳士は荒い息を吐きながら、砕けた虎爪の残骸を踏んでブンシリの傍らにしゃがみ込んだ。
「お前の狩り方は、正しかった。だがな——俺の時間を喰って速くなったお前を、俺自身の時間で殴り飛ばした。それだけの話だ」
遠くで熊沢が、腕を組んだまま鼻を鳴らすのが見えた。褒めない男だ。それでいい。




