小松原拳士対霧崎レン
第1話:小松原拳士 対 霧崎レン
【1】
「残り寿命、3時間42分15秒」
左手首の『ライフ・バンク(寿命時計)』が、無機質な赤光を放ちながら秒を刻んでいた。
ドヤ街の掃き溜め、廃工場の隅に組まれた特設リング。立ち込める安煙草の煙と、熱狂する観客の怒号が混じり合い、澱んだ熱気となって漂っている。金網の外には酒瓶が転がり、捨てられた賭け札が風もないのにひらひらと舞っていた。ここは、寿命を持て余した者と、寿命を使い果たしかけた者だけが集まる場所だ。
「おい、死に損ない! さっさとくたばって、その端数を俺たちに還元しろ!」
飛んでくる罵声を背中で受けながら、小松原拳士は鼻血を親指で拭った。
肉体は18歳のままだ。だがその瞳には、ドヤ街のヘドロを舐め尽くした野犬にしか宿らない種類の光がある。飢えと暴力と、死線を越えてきた者だけが手に入れる、静かな凄みだ。
拳士が身に纏うのは、ジムの親父から渡されたボロい革ベルトと、拳を保護する最低限のプロテクターのみ。上半身は剥き出し。対する霧崎レンは、金色の蒸気を薄く吹く「寿命駆動型アーマー」を全身に纏っていた。機械仕掛けの継ぎ目から漏れる光が、煙草の煙の中でぼんやりと揺れている。上流の人間が特注する、一着あたり「数十年」の維持費がかかる代物だ。
「ねえ、小松原くん」
レンが口の端を持ち上げる。嘲りでも憐れみでもない、もっと純粋な軽蔑の笑みだった。
「君の残り3時間、僕ならシャンパン一杯のチップで使い切るよ」
彼のウォッチには『342年』という、目も眩むような数字が踊っていた。それは生まれながらに与えられた莫大な遺産であり、この世界における絶対的な権力の証でもある。
レンが右腕を掲げる。アーマーのシリンダーが低く唸り声を上げ、莫大な寿命がエネルギーとして変換されてゆく。その一撃の「コスト」だけで、普通の人間の一年分は軽く消える。金持ちの遊びだった。そういう世界だった。
【2】
「行くよ。——『浪費』の時間だ」
レンの姿が消えた。
アーマーのブーストによる超加速——視界が追いつかないほどの速度で、金色の影が弧を描く。
「ガキィン!」
拳士の左肩のプロテクターが弾け飛んだ。掠めただけだ。それでも、ウォッチの数字が「マイナス30分」を叩き出す。
肉体は傷つかない。だが、命が削り取られる。
それがこの競技の本質だった。寿命を賭けて殴り合い、奪い合い、喰い合う。血が出なくとも、確かに死に近づいてゆく。
(……速ぇな。だが、見えるぜ)
拳士は歯を食いしばった。
ボクシングを習ったことなど一度もない。だが、ドヤ街の路地裏で「一秒のパン」を奪い合い、理不尽な暴力を何百回とかわし続けてきた彼には、システムが弾き出す予測を超えた何かがある。死の匂いを嗅ぎ取る、動物としての嗅覚だ。
レンの連打が雨のように降り注ぐ。
一発ごとに、拳士の寿命が削れてゆく。
残り:2時間……1時間……15分。
リングサイドに設置されたスピーカーから「死の警告音」が鳴り始めた。観客がどよめき、賭けの声が飛び交う。誰も拳士に張っていない。当然だ。
「終わりだ」
レンがゆっくりと歩み寄りながら言った。汗ひとつかいていない。
「342年持ってる僕と、あと数分の君。最初から、勝負になってないんだよ」
レンがトドメの右ストレートを放つ。
アーマーの全リミッターが解除され、ウォッチから「10年」の寿命が一気に吸い出された。変換されたエネルギーが拳に収束し、眩い光を帯びる。それは太陽のように眩く、残酷だった。10年。拳士がこれまで生きてきた年数の、半分を超える。
【3】
その瞬間、拳士の脳内で何かが弾けた。
18歳で止まった時間が、怒濤の勢いで逆流してくる。腹の底から、灼けるような何かが込み上げてくる。怒りではない。恐怖でもない。もっと根源的な、生き物としての意地だ。
「……10年分だぁ?」
拳士は呟いた。
「重すぎて、吐き気がすんだよッ!」
拳士は避けなかった。
レンの必殺の光の中に、あえて頭を突っ込んだ。
金色の奔流が左頬を焼く。ウォッチの警告音が悲鳴に変わった。だが、拳士の右拳はすでに動いていた。レンの腕の外側を薙ぐように、最短距離を一直線に走っていた。
「クロスカウンター」
レンが初めて、驚愕に目を見開く。
追ってきた光が頬を灼いたその刹那、拳士の「生身の拳」が、レンのアーマーの継ぎ目——剥き出しになったウォッチへ、真っ向から激突した。
「バキィィィィィィィン!!」
電子音が絶叫に変わる。
レンが攻撃のために注ぎ込んだ「10年分」のエネルギーは、ウォッチを砕かれた瞬間、行き場を失った。巨大な奔流が、拳士の拳を支点にして、そのままレンの顔面へと逆流してゆく。
己の浪費が、己を殴り飛ばした。
【4】
レンの金色のアーマーが粉々に砕け散る。
一秒も無駄にしない。死にかけた男の野生の一撃が、エリートの数十年を貫いた。
沈黙が、リングを支配した。
観客が息を呑んでいる。怒号も賭けの声も消えた。キャンバスに沈んだのは、342年を持つはずの男だった。その輝かしい数字が、今は無惨に「337年」へと書き換えられていた。
審判がゆっくりと、拳士の手を掲げる。
同時に、赤外線通信が自動起動した。
『寿命移譲を完了しました。 +5年』
拳士のウォッチに、レンから剥ぎ取った「5年」が刻まれる。数分を切っていたカウントダウンが、静かに、確かな重さを持って、再び動き始めた。
拳士は、キャンバスに沈んだままのレンを見下ろして、低く吐き捨てた。
「……5年分、確かに受け取ったぜ」
煙草の煙が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。
「こいつで食う飯は、お前のシャンパンよりよっぽど美味いはずだ」
誰も拍手しなかった。誰も祝福しなかった。
それでよかった。
小松原拳士——ドヤ街の死に損ないが、世界のシステムを殴り殺すための、最初の一歩を踏み出した夜だった。




