小松原拳士対霧崎レン
第1話:小松原拳士対霧崎レン
左手首の『ライフ・バンク』が、無機質な赤光を刻んでいた。残り寿命、3時間42分。
ドヤ街の廃工場に設けられた特設リング。寿命の搾取から逃れられず打ち捨てられた工業区の残骸の中で、立ち込める安煙草の煙と、熱狂する観客の怒号が混じり合い、澱んだ熱気となって漂っている。金網の外には酒瓶が転がり、捨てられた賭け札がひらひらと舞っていた。ここは、寿命を持て余した者と、使い果たす寸前の者だけが集まる処刑場だ。
「おい、死に損ない! さっさとくたばって端数を還元しろ!」
罵声を背中で受けながら、小松原拳士は顎の汗を拭った。肉体は18歳で固定されたままだが、その瞳にはドヤ街のヘドロを舐め尽くした野犬にしか宿らない光がある。飢えと暴力、そして死線を越えてきた者だけが纏う、静かな凄みだ。
対する霧崎レンは、金色の蒸気を吹く「寿命駆動型アーマー」を全身に纏っていた。一着の維持費だけで数十年を浪費する代物だ。ウォッチには『342年』という数字が躍っている。生まれながらに与えられた莫大な資産であり、この世界における絶対的な階級の証。
「ねえ、小松原くん。君の残り3時間、僕ならシャンパン一杯のチップで使い切るよ」
レンが右腕を掲げると、シリンダーが低く唸りを上げた。
「行くよ。——浪費の時間だ」
レンの姿が消えた。超加速の一撃がプロテクターをすり抜けて直撃し、拳士のウォッチから無情にも30分が消し飛ぶ。この競技において、肉体の損傷は最小限に抑えられる。代わりに直接「寿命」が削り取られていくのだ。
連打が雨のように降り注ぐ。残り2時間……1時間……15分。死の警報音が鳴り響き、観客がどよめく。誰も拳士に賭けていない。当然だ。
「終わりだよ」
レンが足元を揺らさずに歩み寄る。
「342年を持つ僕と、あと数分の君。最初から勝負になってないんだ」
全リミッターが解除された。アーマーが『10年分』の寿命を炉にくべ、その右拳が眩い死の光を帯びる。10年——拳士がこの街で這いつくばって生き抜いてきた年月の、すべてを上回る膨大な時間。
「……10年分だぁ? 重すぎて、吐き気がすんだよッ!」
直線的な超加速ゆえの「タメ」の数瞬。拳士は命のカウントダウンがゼロに吹き飛ぶリスクを捨て、相手の踏み込みに合わせて懐へ潜り込んだ。死角からのクロスカウンター。生身の拳が、露出した相手のウォッチへ真っ向から激突する。
電子音が絶叫に変わった。砕けた駆動部から行き場を失った10年分のエネルギーが過熱爆発し、拳士の腕を支点にしてレンのアーマー全系へ逆流する。己の過剰な浪費が、強固なはずのシステムを内側から崩壊させたのだ。
沈黙がリングを支配した。
キャンバスに沈んだのは、342年を持つはずの男だった。赤外線通信が自動起動し、無機質な文字が流れる。暴走の爆発で半分の時間が吹き飛び、残った熱量だけが勝者の腕へ雪崩れ込んだ。
『寿命移譲を完了しました。+5年』
3分を切っていたカウントダウンが、静かに、確かな重さを持って「5年と3分」から動き始めた。
拳士は沈んだままのレンを見下ろし、低く吐き捨てた。
「……5年分、確かに受け取ったぜ。こいつで食う飯は、お前のシャンパンよりよっぽど美味いはずだ」
煙草の煙が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。
誰も拍手しなかった。誰も祝福しなかった。
それでよかった。




