霧の中の異形
二一〇一年、三月下旬。三次市、江の川沿い。
三次の早朝は、深い霧に包まれていた。「霧の海」と呼ばれるその幻想的な光景の中、特設リングはおどろおどろしい儀式の祭壇のように佇んでいた。
『もののけ杯』第一回戦。対戦相手の名は、入道。からくりアーマー『伸縮式・アーム』を装備した、三次の闇興行で「見越し入道」と恐れられる男だった。
「……小松原拳士。お前の命、長く引き延ばして喰らってやるよ」
入道の声は、霧の向こうから反響するように不気味に響いた。
ゴングが鳴った。
拳士は慎重に間合いを詰める。通常のバンタム級のリーチは一七〇センチ前後。その外側、二メートルの距離で相手の出方を伺った。
(一気に踏み込んで、パリーの起点を叩く……!)
だが、その計算は一瞬で崩れ去った。
「——伸ッ!!」
入道が放った左ジャブ。肘の関節部分に内蔵された高圧ガスシリンダーが爆音を上げると同時に、腕がクレーンのように「伸びた」。
「なっ……!?」
回避が間に合わない。二メートル以上離れていたはずの拳が、一瞬で鼻先を掠める。
右、左、斜め下からのアッパー。三メートルを超えるリーチから繰り出される連打は、霧に紛れてどこから飛んでくるか判別できない。
『マイナス三ヶ月……六ヶ月……一ヶ月!!』
一度も相手に触れることすらできず、ウォッチが激しく警告音を鳴らし始めた。
「——懐に飛び込む隙がないぞ! あいつの拳、伸びる速度が具志堅に匹敵する!」
リングサイドで伊勢谷が赤外線モニタを凝視しながら叫んだ。
入道は拳を引くと同時に再び突き出す「ピストン打法」で、拳士をリングの端へと追い詰めていった。
(リーチの差なんてレベルじゃねえ……。これじゃ、『起点の微調整』も、届く前に撃ち落とされる!)
拳士は霧の中で、死神の鎌のような「伸びる拳」を必死に回避し続けた。入道の腕が伸びるたびに、周囲の霧が渦を巻き、視界をさらに奪っていく。
「どうした、広島の狼。……届かない絶望の中で、寿命を枯らして死ねッ!!」
入道の巨大な右が、霧を引き裂き、拳士の側頭部へ向かって高速で伸長してきた。
(……力武なら、どうする。あの野郎なら、伸びてきた腕をどう料理する!?)
拳士は、回避を止めた。
あえて、自分からその「異形の腕」の着弾点へと踏み込んだ。




