三次(みよし)への胎動
二一〇一年、三月。
可部での死闘から二ヶ月。広島の街に春の風が吹き始める中、熊沢ジムの空気は張り詰めていた。
「——来い、拳士。三次の『もののけ杯』まで、もう時間がないぞ」
リング中央で待ち構えるのは、坂本博。ライト級仕込みの壁は健在だが、その表情には以前のような余裕がない。この二ヶ月、拳士が繰り返してきた反復練習と、その眼光に宿る「変質」を、肌で感じ取っていたからだ。
拳士は、ゆっくりと構えを解いた。
(……速さじゃない。坂本さんのパリーが動く、その『起点』を叩くんだ)
一歩。踏み込む。坂本の掌が、吸い付くような軌道で拳士のジャブを弾きに動く。
「——今だッ!!」
拳士は放ったジャブを、着弾寸前で「一ミリ」だけ内側に捻じ込んだ。ただそれだけの変化。だが、坂本がこれまで完璧にデザインしてきた防御の計算を、根底から狂わせる「不純物」となった。
「パシィッ!!」
乾いた音が響く。坂本のパリーが初めて空を切り、拳士の拳が坂本のガードの「継ぎ目」を真っ向から貫いた。
「……なっ、捉えただと!?」
坂本の驚愕を置き去りに、拳士の右が、一点を穿つ杭のように突き刺さる。
「ガッ!!」
坂本の巨体が、初めて大きく後退した。
リングサイドで竹原が、短くなった煙草を床に落とした。
「……ほう」
それだけだった。
伊勢谷が端末のデータを確認しながら口を開く。「初動のコンマ数秒を、相手の防御に合わせて微調整する。……坂本の盾も、三次の怪物どもも、これなら怖くはない」
「……はっ、はっ……坂本さん。今の、届きましたよね」
拳士は荒い息を吐きながら、不敵に笑った。
坂本は痺れた腕をさすりながら、静かにグローブを合わせた。
「ああ。……実戦でやられたら、俺の寿命もタダじゃ済まなかったぜ。広島の狼さん、お前、化けやがったな」
「力武、見てろよ。……俺は俺のやり方で、あの頂点まで這い上がってやる」




