弾かれる牙
第39話:弾かれる牙
【1】
スパーリングのゴングが鳴った瞬間、拳士は弾かれたように前に出た。
一ヶ月の沈黙で溜まった鬱憤を吐き出すような、鋭い左ジャブ。だが、坂本博はその一撃を、まるで見えていたかのように掌で軽く叩き落とした。パリー。最小限の動きでパンチの軌道を逸らす、ボクシングにおける最も高度な防御技術の一つ。
(……なんだ、今の感触。壁を殴ったみたいだ……!)
拳士は追撃の右を放つが、坂本はそれを完璧なカバーアップで受け止める。両腕を盾のように顔面に貼り付け、衝撃を分散させるその姿は、佐世保の力武のような「肉体で耐える」のとは違う、計算され尽くした「防御の芸術」だった。
【2】
「どうした、広島。お前の『一秒』は、俺の掌の上で死んでるぜ」
坂本が不敵に笑う。
拳士は焦りから連打を繰り出すが、そのすべてが坂本の巧みなパリーによって外側へと流されてゆく。自分のパンチが虚空を切り、体勢が崩れるたびに、ライト級仕込みの重いジャブが拳士の顔面を正確に捉えた。
「ぐっ……あ……っ!」
ただのジャブではない。腕一本の質量が、バンタム級のそれとは根本的に違う。打たれるたびに脳が揺れ、ウォッチの数字が削られるような錯覚に陥る。
【3】
「……小松原くん、落ち着け! 闇雲に打っても、彼のパリーに吸い込まれるだけだ!」
リングサイドで、伊勢谷が冷静さを失った拳士に叫ぶ。
「彼の手の動きは、君の初動を読み取って『軌道をデザイン』している。まともにぶつかれば、君の腕が壊れるぞ!」
伊勢谷の分析は正しかった。坂本の防御は、ただの守りではない。相手のパンチを弾き、バランスを崩させ、その無防備な隙間にカウンターを叩き込むための「攻撃的な防御」なのだ。
【4】
「畑山、見たか。あいつのパリーは、親父譲りの『坂本の盾』だ」
竹原が、苦々しくも感心したように呟いた。
「親父さんもそうだった。どんなに強打を誇るボクサーも、あの掌の上で踊らされ、スタミナを空費して沈んでいった。……拳士、お前が欲しがっている『速さ』じゃ、あの壁は壊せんぞ」
畑山は拳を握りしめ、自分でも勝てなかった「坂本」の血脈が、今、目の前で拳士を蹂躙している光景を、悔しさを隠さずに見つめていた。
【5】
(……クソっ、当たんねえ……。具志堅は速すぎて届かなかったが、こいつは『そこにいるのに届かねえ』……!)
坂本のパリーによって右拳を外側へ跳ね上げられた瞬間、拳士の視界が大きく開いた。
坂本の、ライト級の力を乗せた右フックが、拳士の顎を目掛けて唸りを上げる。
死線。
具志堅に沈められたあの時と同じ、逃げ場のない「終わり」の予感。
【6】
だが、その瞬間、拳士の脳裏に力武のあの不条理な「頭突き」がフラッシュバックした。
(……綺麗に戦おうとするな。……システムじゃねえ、俺の命をぶつけるんだ!)
拳士は、自分自身の「一秒」を、これまでとは違う、極めて歪な形へ捻じ曲げようとしていた。




