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『寿命の拳(からくり・ボクシング)』  作者: 水前寺鯉太郎
第二章

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39/40

弾かれる牙

第39話:弾かれる牙


 【1】

 スパーリングのゴングが鳴った瞬間、拳士は弾かれたように前に出た。

 一ヶ月の沈黙で溜まった鬱憤を吐き出すような、鋭い左ジャブ。だが、坂本博はその一撃を、まるで見えていたかのように掌で軽く叩き落とした。パリー。最小限の動きでパンチの軌道を逸らす、ボクシングにおける最も高度な防御技術の一つ。

 (……なんだ、今の感触。壁を殴ったみたいだ……!)

 拳士は追撃の右を放つが、坂本はそれを完璧なカバーアップで受け止める。両腕を盾のように顔面に貼り付け、衝撃を分散させるその姿は、佐世保の力武のような「肉体で耐える」のとは違う、計算され尽くした「防御の芸術」だった。

 【2】

 「どうした、広島。お前の『一秒』は、俺の掌の上で死んでるぜ」

 坂本が不敵に笑う。

 拳士は焦りから連打を繰り出すが、そのすべてが坂本の巧みなパリーによって外側へと流されてゆく。自分のパンチが虚空を切り、体勢が崩れるたびに、ライト級仕込みの重いジャブが拳士の顔面を正確に捉えた。

 「ぐっ……あ……っ!」

 ただのジャブではない。腕一本の質量が、バンタム級のそれとは根本的に違う。打たれるたびに脳が揺れ、ウォッチの数字が削られるような錯覚に陥る。

 【3】

 「……小松原くん、落ち着け! 闇雲に打っても、彼のパリーに吸い込まれるだけだ!」

 リングサイドで、伊勢谷が冷静さを失った拳士に叫ぶ。

 「彼の手の動きは、君の初動を読み取って『軌道をデザイン』している。まともにぶつかれば、君の腕が壊れるぞ!」

 伊勢谷の分析は正しかった。坂本の防御は、ただの守りではない。相手のパンチを弾き、バランスを崩させ、その無防備な隙間にカウンターを叩き込むための「攻撃的な防御」なのだ。

 【4】

 「畑山、見たか。あいつのパリーは、親父譲りの『坂本の盾』だ」

 竹原が、苦々しくも感心したように呟いた。

 「親父さんもそうだった。どんなに強打を誇るボクサーも、あの掌の上で踊らされ、スタミナを空費して沈んでいった。……拳士、お前が欲しがっている『速さ』じゃ、あの壁は壊せんぞ」

 畑山は拳を握りしめ、自分でも勝てなかった「坂本」の血脈が、今、目の前で拳士を蹂躙している光景を、悔しさを隠さずに見つめていた。

 【5】

 (……クソっ、当たんねえ……。具志堅は速すぎて届かなかったが、こいつは『そこにいるのに届かねえ』……!)

 坂本のパリーによって右拳を外側へ跳ね上げられた瞬間、拳士の視界が大きく開いた。

 坂本の、ライト級のパワーを乗せた右フックが、拳士の顎を目掛けて唸りを上げる。

 死線。

 具志堅に沈められたあの時と同じ、逃げ場のない「終わり」の予感。

 【6】

 だが、その瞬間、拳士の脳裏に力武のあの不条理な「頭突き」がフラッシュバックした。

 (……綺麗に戦おうとするな。……システムじゃねえ、俺の命をぶつけるんだ!)

 拳士は、自分自身の「一秒」を、これまでとは違う、極めて歪な形へ捻じ曲げようとしていた。

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