宿命の継承者
第38話:宿命の継承者
【1】
二〇三一年一月十五日。
新年の喧騒がようやく収まり、広島の街が本格的な寒波に包まれた朝。熊沢ジムの重い鉄扉が開き、一人の男が足を踏み入れた。
身長は拳士よりもわずかに高く、ライト級特有の厚みのある胸板を、強引に絞り込んだような鋭いシルエット。その男、坂本博は、使い古されたボクシングバッグを床に置くと、真っ直ぐに熊沢のもとへ歩み寄った。
「坂本博です。今日から、このジムでバンタムの頂点を目指させてもらいたい」
その声には、単なる入門者とは思えぬ不遜な自信と、何かに飢えた獣のような響きがあった。
【2】
「……坂本だと?」
スパーリングの手を止めた畑山が、リングの上から眉をひそめてその男を睨みつけた。
畑山の脳裏に、父親から聞かされていた古い記憶が蘇る。からくりボクシングが普及する以前、生身の拳だけで命を削り合っていた時代。ライト級で「鬼」と呼ばれた父親の前に、幾度となく立ちはだかった宿敵の名――それが『坂本』だった。
「親父同士がやり合った決着、ここでつけるつもりか?」
「さあな。だが、お前の親父がうちの親父に削り取られた寿命は、息子である俺が、お前の首ごと回収させてもらうぜ」
坂本が不敵に笑う。そのウォッチには、ライト級で戦い抜いてきた証である、膨大な蓄積時間が不気味に光っていた。
【3】
拳士は、リングの隅で汗を拭いながら、その一連のやり取りを静かに見守っていた。
ライト級からバンタムへの転向。それは肉体的な地獄を意味する。だが、その壁を越えてきた坂本の全身からは、これまでの対戦相手にはなかった「重圧」が溢れ出している。
「伊勢谷、あいつはどう見える」
「……厄介だね。ライト級の筋肉を維持したままバンタムの速度を得れば、理論上の攻撃力は拳士くんの三割増しになる。しかも、彼は『戦い方』を知っている目だ」
伊勢谷が眼鏡を押し上げ、冷徹な分析を口にする。
【4】
「熊沢さん、こいつとスパーをさせてくれ」
畑山がリングロープを激しく叩き、叫んだ。
だが、熊沢はそれを手で制し、視線を拳士に向けた。
「……いや。拳士、お前がやれ」
ジム内に緊張が走る。
「坂本は、具志堅の速さとも力武の質量とも違う、『格上のパワー』を持っとる。お前が具志堅に負けた理由……それを超えるためのヒントは、この男の拳の中に隠れとるかもしれんぞ」
【5】
拳士は、ゆっくりとバンテージを締め直した。
「……いいぜ。ライト級のパンチ、どんなもんか拝ませてもらうよ」
「いい面構えだ、広島の狼さん。……でも、俺の『一秒』は重いぞ。お前の細い首が折れなきゃいいがな」
坂本がリングに上がり、グローブを合わせた。
二一〇〇年、新春。
親たちの因縁、そして拳士の再起を懸けた、新たな火花がリング中央で激しく散ろうとしていた。




