零秒の彼方
第34話:零秒の彼方
【1】
音が、消えた。
二人の拳が互いの顔面で交差した瞬間、アリーナを揺らしていた怒号も、アーマーが放つ駆動音も、すべてが真空に吸い込まれたかのように沈黙した。
崩れ落ちる二つの巨躯。
ドサリ、という重い音が二重に重なり、キャンバスからは砂埃と、砕けたセラミック装甲の破片が舞い上がった。力武はうつ伏せに、具志堅は仰向けに。ピクリとも動かないその姿は、まるで戦場に遺された鉄の残骸のようだった。
【2】
「……ダブル・ダウン」
審判の声が、震えている。
「ワン! ツー! スリー!……」
カウントが刻まれるたび、会場の大型モニターには、二人のウォッチの残量が映し出された。どちらも「数年」という危険域。このまま立ち上がれなければ、引き分けによる両者からの寿命徴収――すなわち、二人ともがこの場で「死」を迎える可能性さえあった。
観客は、自分たちの呼吸音さえ憚られるような緊張感の中で、その数字を見守っていた。
【3】
観客席の拳士は、フェンスを握りしめる指に血が滲むほど力を込めていた。
「……立て。立てよ、二人とも。こんなところで、システムの藻屑になって終わんじゃねえぞ」
顎を砕かれ、敗北した自分がここにいる。その自分を絶望の底へ突き落とした「絶対的な強者」たちが、今、無様に泥を舐めている。その事実が、拳士の胸を激しく締め付けた。
「——命の重さは、ここからが決めるんじゃ」
隣で竹原が、酒の瓶を握りしめたまま、かつてないほどに鋭い眼光でリングを見つめていた。
【4】
意識の深淵。
力武は、佐世保の冷たいドックの底にいた。
叩いても、叩いても、終わらない鉄の響き。
(……俺の命は、鉄板たい。……熱ば入れて、叩いて、鍛えて……。こんなところで、冷えてたまるかっ!!)
指先が、キャンバスを掴む。
一方、具志堅は、沖縄の蒼い空を飛ぶ鷲の夢を見ていた。
(……零コンマ一秒の先へ……。俺は、誰よりも速く……光の速さで、あの空へ戻らなきゃいけないんだ……!)
ひび割れたアーマーから、最後の一滴まで寿命を搾り出すような排熱音が漏れる。
【5】
「……セブン! エイト!……」
審判の声が裏返る。
その時、力武の右肩が大きく跳ね上がった。
続いて、具志堅の左足がキャンバスを強く蹴った。
死んでいたはずの鉄塊に、再び命の火が灯る。二人は、折れた骨の痛みも、削り取られた寿命の恐怖も、すべてを無意識の彼方へ放り投げ、ただ「立ち上がる」という一点のためだけに、全細胞を奮い立たせた。
【6】
「カチリ」
二人のウォッチが、同期したように赤く激しく明滅する。
先に膝を突くのは誰か。
先に視線を上げ、相手を射抜くのはどちらの意志か。
二一〇〇年十一月末。広島のリングに、今、人類の歴史で最も長い「十秒間」が流れていた。




