孤狼の戦域
第32話:孤狼の戦域
【1】
キャンバスに沈んだ菊池を見下ろす余裕など、今の力武には一秒たりとも残されていなかった。
「——相棒ば気遣う暇のあったら、一発でも多く殴るだけばい」
力武の低い呟きは、肺に溜まった血を吐き出すような重苦しさを含んでいた。
菊池を沈めた我那覇の横面に、力武は返礼の「頭突き」を叩き込んだ。アーマーの防護壁ごと我那覇の鼻を砕き、たじろいだその胸元へ、寿命を三年分上乗せした渾身の右を突き刺す。
「ガッシャァァァァン!!」
轟音と共に、我那覇の巨体がリングの支柱まで吹き飛び、機能を停止した。
【2】
「……ようやく一人か」
具志堅が、静かに一歩前へ出た。
我那覇が沈んでも、その瞳に動揺はない。むしろ、邪魔者が消えたことを喜ぶかのような、不気味なまでの「静寂」が彼を包んでいる。
「長崎。君は確かに強い。だが、一対一になったからといって、俺の『左』が届かなくなるわけじゃない」
「抜かしとけ、ワシ野郎。……俺のステゴロは、相手の数が多かろうが少なかろうが、相手の息の止まるまで変わらんばい」
力武は、ボロボロになった左腕をダラリと下げ、右拳一つで具志堅を見据えた。
【3】
「——死ねッ!!」
力武が地を這うような突進を見せる。
具志堅は、拳士を沈めたあの「双位・カウンター」を再び放つべく、零コンマ一秒の計算を開始した。
具志堅の左が閃く。最短距離を貫く、見えない光の刺突。
だが、力武はその「線」を、あえて自分の「左肩」で受け止めた。
バキ、と骨が砕ける音がアリーナに響く。
「なっ……!? 避けることさえ捨てたのか!」
「——当たらんのなら、刺させればよかとたい!!」
【4】
左肩を貫通させ、具志堅の腕を肉で挟んで固定する。
狂気。それ以外に言葉がない。力武は自らの肉体を「罠」として使い、具志堅の絶対的な自由を奪い取ったのだ。
「捕まえたばい……。これで、お前の『零コンマ一秒』も、俺の『喧嘩』も同じ距離たい」
力武の右拳が、具志堅の顎を目掛けて下から突き上げられる。
逃げ場のないゼロ距離での、鉄板を叩く衝撃。
【5】
「……っ、この、野蛮人がぁッ!!」
具志堅の瞳に、初めて「恐怖」の色が混じった。
観客席の拳士は、その光景に震えが止まらなかった。
「……あいつ、自分の命を『餌』にしやがった。……一秒をケチらねえどころか、一秒の中に自分の死をぶち込んでやがる」
「——あれが『不条理』の真骨頂じゃ」
竹原が、冷たく、しかしどこか嬉しそうに目を細める。
「システムに殺されるくらいなら、システムごと心中する。……力武という男、つくづくボクシングには向いとらんのう」
【6】
力武の右拳が、具志堅のガードを力任せに跳ね上げる。
二人のウォッチが激しく共鳴し、アリーナの照明が電圧異常で明滅を繰り返した。
長崎の熱が、沖縄の冷徹を焼き切るか。
決勝戦は、格闘技の皮を脱ぎ捨て、ただの「命の削り合い」へと変貌を遂げていた。




