動かぬ指先
「……エイト、ナイン……!」
審判のカウントが、非情なリズムで鼓膜を叩く。
キャンバスに頬を押し付けたまま、拳士は立ち上がれ、と脳が叫んでいるのを聞いていた。だが、具志堅の「左」が脊髄を駆け抜けた衝撃が、神経系を一時的にシャットダウンさせていた。
(……動け。動け、動けッ!)
指先に力を込めようとするたび、ウォッチから漏れ出す寿命の残滓が、虚しく空気に溶けてゆく。
「——伊勢谷くん、一人で二人を相手にするのは、流石に無理があるんじゃないかな」
具志堅は倒れた拳士には目もくれず、伊勢谷へと向き直った。
我那覇の鉄壁のガードに対し、伊勢谷は一秒に十発近い刺突を叩き込み、わずかな隙を抉ろうとしていた。だがそこに具志堅が加わった瞬間、均衡は崩れ去った。
「ぐっ……、あ……っ!」
我那覇が動きを封じ、具志堅がその隙間を正確に撃ち抜く。伊勢谷のウォッチが悲鳴を上げる。『マイナス三ヶ月……半年……一年!』。計算を捨て、ただ生存するためだけに腕を振り回すが、二人の波状攻撃の前に、その顔は血と汗に塗れてゆく。
「拳士……立て……! 僕の計算では、あと十秒も持たないぞ……!」
伊勢谷が、血の混じった唾を吐き出しながら叫ぶ。
(……クソっ、なんで動かねえんだよ、この身体……!)
いつも冷静で、自分を「不合理だ」と笑っていた相棒が、今、命を削って盾になっている。
「無駄だよ。彼の神経は、俺の拳で焼き切られた」
具志堅が伊勢谷の喉元へトドメの左を放とうとした、その時だった。
「……何ばしよるか、広島ァ!!」
観客席から、地響きのような怒声が響いた。力武だった。椅子を蹴り飛ばし、フェンスを掴んで身を乗り出している。
「そんな情けなかツラば見せるために、俺たちの前でアリを沈めたとか!? 立たんか! 立って、その綺麗なワシの羽ば毟り取らんばいッ!!」
力武の咆哮。伊勢谷の苦悶。セコンドで拳を血が滲むほど握りしめている畑山の視線。
拳士の腹の底で、何かが爆ぜた。
(一秒を、ケチるな)
竹原の声が、脳内ではなく、骨の芯から響いてきた。
(一秒どころか……俺は今、自分の『命』そのものをケチってんじゃねえのか?)
動かないのなら、壊してでも動かす。
拳士は残された寿命を、回復のためではなく、神経系を強制再起動させるための「電気ショック」として体内に逆流させた。
「……ア、アガガガァァァァッ!!」
絶叫と共に、拳士の肉体から青白い火花が散った。




