静寂のフィナーレ
第21話:静寂のフィナーレ
【1】
拳士は、ゆっくりと両腕を下ろした。
「……なっ、何を考えとるんや、広島ッ!」
田上が動揺に声を荒らげる。観客席からも悲鳴のようなどよめきが上がった。無防備に晒された顔面。だが、拳士の瞳だけは、血の海に沈むことなく、田上の拳の軌道を冷徹に、蛇のような執念で見据えていた。
「死にたいんやな! 望み通り、一瞬で終わらせたるわッ!」
田上の猛攻が再開される。ガードのない拳士の肉体に、一秒に十発のジャブが突き刺さる。打たれるたびに、ウォッチからは残りの「年」が砂時計の砂のようにこぼれ落ちてゆく。
『マイナス二ヶ月……マイナス半年……残り寿命、10年を切りました』
警告音が鳴り響く。だが、拳士は一歩も引かない。彼は打たれながら「待って」いた。田上の連打が、わずかに、本当にわずかに、その鋭さを失う瞬間を。
【2】
田上の動きに、変化が生じた。
一秒に十発だったジャブが、九発、八発へと落ちてゆく。寿命を過剰に燃やし、最高出力を維持し続けた反動。アーマーの隙間から噴き出す紫色の蒸気が、どす黒く変色し始めた。
「はっ……はっ……なんや、このガキ……。なんで、倒れへんのや……!」
田上の瞳に、初めて「死」への恐怖が浮かぶ。自分の命を切り売りして放つ連打が、目の前の男の「野性」を沈められない。その事実が、田上のリズムを根底から狂わせた。
【3】
「——そこだ」
拳士が呟いた。
田上の放った、この試合で何千発目かの左ジャブ。それが、疲労によってわずかに外側へ流れた。
拳士はその隙間に、自らの頭を滑り込ませた。ノーガードでいたのは、この一瞬の「最短距離」を確保するため。
「歌い疲れたろ、大阪。……これが、幕引き(カーテンコール)だッ!」
【4】
拳士の右拳が、田上の下顎を真っ向から撃ち抜いた。
自らのスピードを制御できなくなった田上の身体に、拳士の全体重と、ドヤ街で培った怨念のすべてが乗ったクロスカウンターが炸裂する。
「バギィィィィィィィィン!!」
衝撃は、田上のアーマーの防護機能を完全に貫通した。
下顎から脳へと突き抜ける振動。田上のウォッチが激しく明滅し、最後には、ぷつりと糸が切れたようにその赤い光を失った。
宙を舞ったのは田上だった。彼はマイクを離した歌手のように、無様に、しかし静かにキャンバスへと沈んでいった。
【5】
「……テン! 勝者、小松原拳士、伊勢谷タッグ!!」
審判の宣告と同時に、会場には耳を刺すような静寂が訪れた。大阪側の狂ったような歓声は消え、ただ、崩れ落ちたアーマーの金属音だけが冷たく響く。
『寿命移譲を完了しました。 +6年』
拳士のウォッチに、新たな時間が刻まれる。
激闘の果て、10年を切っていた寿命は再び息を吹き返したが、拳士に立ち上がる余力は残っていなかった。彼は膝をついたまま、隣で肩を貸してくれた伊勢谷を見た。
「……伊勢谷、ライブは……中止だ」
「ああ。最高の静寂だったよ、小松原くん」
【6】
セコンドの畑山が、リングに駆け上がり、拳士の頭を乱暴に撫でた。
「よくやったッ! あんな博打、二度とすんじゃねえぞ、この大馬鹿野郎がッ!」
畑山の瞳には、熱い涙が滲んでいた。
一方、観客席。力武は冷めた目で、しかしその拳を固く握りしめながら席を立った。
「……見苦しか。でもあのガキの『一秒』、確かに受け取ったばい」
「力武、次はいよいよ俺たちたい。秋田のドブネズミを、佐世保の海に沈めてやろうや」
菊池の不敵な笑みが、暗闇の中で白く光る。
二回戦、突破。
だが、手に入れた6年の寿命と引き換えに、拳士の肉体は限界を超えていた。




