空振りの代償
空気が裂ける音がした。
田上の連打の「合間」を完璧に捉えたはずの右ストレート。当たれば、アーマーごと心臓を粉砕していたであろう一撃。だが、その拳は田上の髪筋をわずかに揺らしただけで、むなしく虚空を突き抜けた。
(……避けた!?)
冷たい戦慄が走った。田上は、亀田を沈めたあの一撃を死線で見切っていたのだ。あえて「隙」を見せ、拳士の必殺を誘い出した。一度放たれた質量は、すぐには引き戻せない。
「……見切っとるわ。お前の一撃、重すぎるねん」
踏み込みすぎた拳士の姿勢は完全に崩れ、無防備な側頭部が田上の前に曝け出された。
田上の右腕が、からくりの加速を受けて不気味に震える。選んだのは大振りではない。拳士を「削り殺す」ための最速・最短の高速ジャブだった。
「一秒に一発? 甘いわ。一秒に、十回死ねッ!!」
拳が、マシンのような速度で顔面、頸動脈、こめかみに叩き込まれる。「ガガガガガガッ!!」。打撃音が一つの連続した轟音と化す。一発一発は数日単位の「小さな傷」に過ぎない。だが、その数が異常だった。
ウォッチが絶叫を上げる。
『マイナス三日……マイナス一週間……マイナス一ヶ月!』
わずか一秒間のうちに、視界から数ヶ月分の命が火花となって消し飛んでゆく。脳が揺れ、膝の力が抜ける。立て直そうとするたびに、田上の高速ジャブが打ち砕く。
「どうした広島! 一撃が出せなきゃ、ただのサンドバッグやなッ!」
「拳士ッ! ガードを捨てるな! 伊勢谷、助けに入れッ!!」
畑山の怒声がリングに響く。だが伊勢谷は動けなかった。田上の放つ紫色の寿命エネルギーの奔流が、接近を物理的に拒んでいた。田上は自らの命を、防御など一切考えない「攻撃の防壁」として展開していた。
「……計算不能だ!」
伊勢谷の瞳に、初めて狼狽の色が浮かんだ。
赤く染まった視界の中で、拳士はわざと、さらに深く前へ倒れ込んだ。田上のジャブを浴びながら、その拳の隙間に自分の頭を突っ込む。
一秒に十発のジャブ。そのすべてを顔面で受け止めながら、拳士は残った左腕で田上の胴体を力任せに抱え込んだ。
「……捕まえたぜ、大阪」
鼻血と寿命の燃えカスを撒き散らしながら、拳士が笑う。
「なっ……死に損ないが、まだ……!」
田上の顔から余裕が消えた。至近距離。高速ジャブを打つための間合いが消失した、ゼロ距離。
『寿命残量:14年……13年……12年……』
ウォッチが猛烈な勢いでカウントダウンを続ける中、二人の命が火花を散らして衝突しようとしていた。




