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『寿命の拳(からくり・ボクシング)』  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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空振りの代償

第20話:空振りの代償


 【1】

 空気が裂ける音がした。

 拳士の右ストレート――それは、田上の連打の「合間」を完璧に捉えたはずの一撃だった。当たれば、田上のアーマーごと心臓を粉砕していたであろう、純然たる暴力の塊。

 だが、その拳は、田上の髪筋をわずかに揺らしただけで、むなしく虚空を突き抜けた。

 (……避けた!?)

 拳士の脳裏に、冷たい戦慄が走った。

 田上は、相棒の亀田を沈めたあの一撃を、死線で見切っていたのだ。彼はあえて「隙」を見せることで、拳士の必殺の一撃を誘い出した。一撃必殺ゆえの、あまりに巨大な慣性。一度放たれたその質量は、すぐには引き戻せない。

 【2】

 「……見切っとるわ。お前の一撃、重すぎるねん」

 田上の冷酷な声が、拳士の耳元で響く。

 踏み込みすぎた拳士の姿勢は完全に崩れ、無防備な側頭部が田上の前に曝け出された。

 田上の右腕が、からくりの加速を受けて不気味に震える。彼が選んだのは、大振りな一撃ではない。拳士を「削り殺す」ための、最速・最短の高速ジャブだった。

 「一秒に一発? 甘いわ。一秒に、十回死ねッ!!」

 田上の拳が、マシンのような速度で拳士の顔面、頸動脈、こめかみに叩き込まれる。

 「ガガガガガガッ!!」

 打撃音が一つの連続した轟音と化す。一発一発は、拳士の寿命を数日単位で削る「小さな傷」に過ぎない。だが、その数が異常だった。

 【3】

 ウォッチが絶叫を上げる。

 『マイナス三日……マイナス一週間……マイナス一ヶ月!』

 わずか一秒間のうちに、拳士の視界から「数ヶ月分」の命が、火花となって消し飛んでゆく。

 脳が揺れ、膝の力が抜ける。姿勢を立て直そうとする拳士の努力を、田上の高速ジャブが無慈悲に打ち砕く。それは、亀田という「主役」を失った男の、泥臭くも完璧な報復だった。

 「どうした、広島! 一撃が出せなきゃ、ただのサンドバッグやなッ!」

 田上の猛攻は止まらない。

 セコンドの畑山が、フェンスを乗り越えんばかりに叫ぶ。

 「拳士ッ! ガードを捨てるな! 伊勢谷、何をしてる、助けに入れッ!!」

 【4】

 伊勢谷は動けなかった。

 いや、田上の放つ「紫色の寿命エネルギー」の奔流が、伊勢谷の接近を物理的に拒んでいたのだ。田上は自らの命を、防御など一切考えない「攻撃の防壁」として展開していた。

 「……くっ、これほどまでの『自壊』を前提とした攻撃……計算不能だ!」

 伊勢谷の瞳に、初めて狼狽の色が浮かぶ。

 拳士は、赤く染まった視界の中で、竹原の言葉を思い出していた。

 『一秒を、ケチるな』

 (……ケチってねえ。俺は、いつだって全部賭けてる……!)

 意識が遠のく中、拳士はわざと、さらに深く前へ倒れ込んだ。田上のジャブを「浴びながら」、その拳の隙間に自分の頭を突っ込むという、狂気の選択。

 【5】

 一秒間に十発のジャブ。

 そのすべてを顔面で受け止めながら、拳士は残った左腕で田上の胴体を、力任せに抱え込んだ。

 「……捕まえたぜ、大阪」

 鼻血と寿命の燃えカスを撒き散らしながら、拳士が不気味に笑う。

 「なっ……死に損ないが、まだ……!」

 田上の顔から余裕が消える。至近距離。高速ジャブを打つための「間合い」が消失した、泥沼のゼロ距離。

 『寿命残量:14年……13年……12年……』

 拳士のウォッチが猛烈な勢いでカウントダウンを続ける中、二人の命が、火花を散らして衝突しようとしていた。

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