■ 第3話 「選択の歪み」
第3話です。
ここから少しずつ、この物語の“違和感”が形になっていきます。
石造りの回廊を抜けた先で、空気の質がわずかに変わった。
天井は高く、外へと通じる開口から淡い光が差し込んでいる。人の往来は多く、先ほどまでの儀式の張り詰めた空気とは違い、現実に近いざわめきが広がっていた。足音と話し声が重なり、それぞれがそれぞれの目的に従って流れていく。
その中を、カインが歩いている。
勇者として選ばれた直後とは思えないほど、目立った変化はない。だが、その足取りにはわずかな硬さが残っていた。視線は周囲をなぞり、無意識のうちに警戒を続けているのが分かる。
その動きの奥に、やはり“揺れ”がある。
踏み出す位置、わずかな体の傾き、視線の向き。それらが微妙に異なる形で重なり合い、どれもが「そうなり得たはずの動き」として残っている。
選ばれた動きと、選ばれなかった動き。
どちらも消えずに、そこにある。
「……見える」
意識を向けるほどに、それは鮮明になる。
だが、その意味を掴みきる前に、流れの中に異質なものが混ざった。
カインの進行方向、やや右側。
人波に紛れているはずのひとりの男の動きだけが、わずかに噛み合っていない。歩調が遅れ、視線が定まらず、それでいて明確な目的だけがそこにある。
その奥にある“揺れ”は、これまでとは比べものにならないほど濃かった。
踏み込む流れがある。
腕が振り抜かれる軌道がある。
そして、その先に刃の光がはっきりと浮かんでいる。
「……狙ってるのか」
思考が冷える。
このままカインが進めば、その軌道と重なる。
だが、それだけではなかった。
その男の動きの奥にある“揺れ”は、ひとつではない。
カインへとまっすぐ伸びる、最も濃い流れ。
そしてもうひとつ――その少し外側、儀式に立ち会っていた神官のひとりへと向かう、わずかに弱い軌道。
どちらも成立する。
どちらも、まだ選ばれていない。
「……二択、かよ」
喉の奥で、乾いた声がこぼれる。
どちらを選んでも、結果は変わらない。
ただ、倒れる人間が入れ替わるだけだ。
回避ではない。
置き換えだ。
「……それでも」
迷っている時間はない。
カインの足運びに意識を重ねる。踏み出されようとしている一歩、その分岐へと手を伸ばした。
触れた瞬間、これまでとは比べものにならない重さが頭の奥に落ちてくる。
鈍く、深い痛みだった。
思考の芯を押し潰されるような感覚に、意識が揺らぐ。それでも手を離すことはできなかった。
押す。
カインへと伸びる流れではなく、もうひとつの軌道へと傾けるように。
現実に選ばれなかった可能性を、無理やり引き寄せる。
その瞬間、カインの足が不自然に止まった。
理由の分からないまま動きを止めたその一瞬で、男の動きが変わる。
迷いはなかった。
最初から用意されていたもうひとつの流れへ、滑るように切り替わる。
刃が振り抜かれる。
そして――
少し離れた位置にいた神官のひとりが、息を詰めるように崩れ落ちた。
時間が、一拍遅れて動き出す。
何が起きたのか理解できないまま、ざわめきだけが広がる。誰かの悲鳴が遅れて響き、空気が一気に乱れる。
「……違うだろ」
思わず漏れた言葉は、驚くほど低かった。
避けたはずだった。
そう思った。
だが実際には、選ばれた対象が入れ替わっただけだ。
結果は、変わっていない。
「そんなの……ありかよ」
胸の奥に残る感覚は、さっきまでとは明らかに違っていた。
助けた、とは言えない。
ただ、自分で選んだだけだ。
その混乱の中で、ひとりの少女が前に出る。
人の流れに逆らうことなく、それでいて迷いもなく、倒れた神官のもとへ膝をつく。その動きは落ち着いており、周囲の混乱とは切り離されているようだった。
「動かさないで。押さえるから、布を貸して」
静かな声だったが、不思議とよく通る。
慌てる様子はない。状況を把握し、必要なことだけを選び取っているような、無駄のない声音だった。
戸惑っていた人々が、その言葉に引かれるように動き出す。
カインもまた、その中にいた。
一瞬だけ立ち尽くしたあと、すぐに状況を理解し、少女の隣に膝をつく。血に触れることへのためらいが表情に浮かぶが、それでも視線を逸らさず、言われた通りに手を当てる。
「そこ、強く。離さないで」
「……はい」
声はわずかに硬い。
それでも、手に込める力は揺るがなかった。
血が指の隙間から滲み出る。それを見つめながらも、カインは手を緩めない。
その様子を見ながら、胸の奥に残るものが、ゆっくりと形を変えていく。
「……選んだ、のか」
思考の奥で、言葉が沈む。
回避ではなかった。
どちらかを残して、どちらかを切り捨てただけだ。
その選択を、自分がした。
「……これが、俺のやってることか」
頭の奥に残る痛みが、じわりと広がる。
ただの負担ではない。
選んだことの重さが、そのまま残っているような感覚だった。
そのときだった。
少女が、ふと顔を上げる。
周囲の様子を確認するように視線を巡らせ、その流れの中で、ほんのわずかに動きが止まる。
カインの方ではない。
その外側。
何もないはずの場所へと、視線がかすめる。
――その一瞬だけ、空気が変わる。
ほんのわずかな違和感。
言葉にするほどでもない、だが見過ごすには引っかかる何かが、確かにそこにあった。
「……今の」
少女の唇がわずかに動く。
だが、その言葉は続かない。
確かめるように視線を戻し、再び目の前の傷へと意識を集中させる。
手の動きに迷いはない。
先ほどと同じように、正確に、淡々と処置を続けている。
それでも。
「……気づいたのか?」
思わず、そう考える。
見えているはずがない。
触れられるはずもない。
それでも、完全に無関係ではいられない何かが、確かに残っている。
少女は何も言わない。
だが、一度生まれた違和感は消えていない。
「……なんなんだよ」
静かに呟く。
答えは出ない。
ただひとつ確かなのは、この場で何かが変わったということだった。
カインだけではない。
この少女もまた、無視できない存在としてそこにいる。
そして――
「……もう、見てるだけじゃ済まないな」
その実感だけが、やけにはっきりと残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
このあたりから、主人公にできることが少しずつ見えてきます。
よければ続きも読んでいただけると嬉しいです。




