■ 第4話 「触れられないはずのもの」
第4話です。
ここから新しい人物が関わってきます。
騒ぎは、すぐには収まらなかった。
負傷した神官が運び出されたあとも、人の流れは元の形に戻らず、広間のあちこちで足が止まり、途切れた動きがそのまま残っている。何かを見落としていないか確かめるように、視線だけが落ち着きなく巡り続けていた。
低く交わされる声は断片的で、言葉として結びきる前に消えていく。誰もが状況を把握しきれていないまま、それでも何かが起きたという事実だけは共有している。
空気は張り詰めているわけではない。
だが、どこにも緩んでいない。
その中心から少し離れた場所で、カインは足を止めていた。
人の流れに取り残されたように立ち尽くし、視線だけが曖昧に揺れている。何かを見ているはずなのに、焦点は定まらない。
気づけば、手を開いていた。
指先をわずかに動かすと、遅れて感覚が返ってくる。だがそれは現実の手触りではなく、さっき触れていたものの“残り”のようだった。
押さえ続けたときの重み。
滲み出てくる温度。
それらが、まだ離れずに残っている。
息を吐こうとして、うまくいかない。
胸の奥に引っかかるものがあって、呼吸がどこか浅い。
そのまま立ち尽くしていると、不意に声が落ちてきた。
「初めて?」
近い位置からの声に、カインはわずかに肩を揺らした。
顔を上げると、あの少女が立っている。先ほどと変わらない落ち着いた表情のまま、だが距離の取り方だけが微妙に違っていた。踏み込みすぎず、かといって離れすぎてもいない、ちょうど境目の位置。
視線が、自然にカインの手元へと落ちる。
「血、触ったの」
問いかけというより、確認だった。
カインは答える前に、自分の手を見る。拭ったはずの指先に、まだ何かが残っている気がして、無意識に親指でなぞった。
「……はい。こういうのは、初めてで」
声に出すと、自分でも分かるくらい頼りない響きになった。
少女はその反応を見て、わずかに顎を引く。
「力、抜けてる」
短く言いながら、自分の手を軽く握って見せる。その動きは小さいが、妙に視界に残った。
「一回、ちゃんと握って」
促されるまま、カインは指を曲げる。関節の一つひとつに意識を向けながら、ゆっくりと力を込める。
最初は頼りなかった感覚が、少しずつ形を取り戻していく。
「……あ」
思わず息が漏れる。
ようやく、自分の手が自分のものとして戻ってきた感覚があった。
少女はそれを見届けると、特に何も言わず視線を外した。
「それでいい」
短い言葉だったが、それ以上確かめる必要はないと自然に思えた。
カインは手を下ろしながら、改めて少女の方を見る。
「あの、さっきは……ありがとうございました」
言葉を選びながら、少しずつ形にしていく。
「あのままだったら、俺……いや、あの人も」
そこで言葉が止まる。
続きは、言わなくても分かる気がしてしまった。
少女はそれを追わない。
ほんの一瞬だけ視線を伏せると、静かに答える。
「助かったかどうかは、まだ分からない」
声は落ち着いたままだ。
「でも、やれることはやった。それだけ」
言い切ったあと、わずかな間が生まれる。
その隙間に、遠くのざわめきや足音が入り込んでくる。
カインは小さく頷くことしかできなかった。
何か言おうとしても、言葉が浮かばない。
その沈黙の中で、少女の視線がふと動いた。
カインを見ていた目が、そのまま外へと滑っていく。
人の流れ、その向こう側――何もないはずの空間へ。
ほんの一瞬だけ、動きが止まる。
「……?」
カインがつられて視線を向けかけたときには、少女はすでにこちらを見ていた。
「さっきのこと」
何事もなかったかのように、少女が口を開く。
だが、その声にはわずかな引っかかりが残っている。
「少し、変だった」
「変……ですか?」
カインは問い返しながら、先ほどの出来事を思い返す。
だが、うまく整理できない。
少女はすぐには答えず、言葉を探すようにわずかに間を置いた。
「狙いが、一つに見えなかった」
ゆっくりと、確かめるように言う。
「最初から決まってたっていうより、途中で流れが切り替わった感じ」
言いながらも、どこか納得しきれていないように、わずかに首を傾げる。
カインは眉を寄せる。
理解は追いつかないが、言われていることが全くの見当違いとも思えなかった。
「……流れって」
言葉にしてみるが、うまく掴めない。
少女はその反応を見て、少しだけ言い方を変える。
「どっちにでも行けた動きだった」
その一言で、何かが引っかかる。
曖昧だった感覚に、輪郭が触れた気がした。
「……あのとき」
気づけば、言葉が出ていた。
「一瞬だけ、動けなかったんです」
自分でも理由は分からないまま、ただ事実として。
少女の視線が、はっきりとカインに向く。
「止まった?」
「はい。ほんの一瞬ですけど」
足元を見る。
「あのまま進んでたら、多分――」
言いかけて、止める。
その先を言葉にする必要はなかった。
少女はそのまま数秒だけ黙り込む。
何かを繋げようとしているが、決定的な形にはならない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……今はいい」
それ以上は踏み込まないと決めたように、軽く首を振る。
「名前、聞いてもいい?」
流れを変えるようでいて、不自然ではない問いだった。
「……カインです」
少し間を置いて答える。
少女は頷く。
「リゼル」
それだけ名乗る。
余計な説明はない。
だが、その名前だけが妙にはっきりと残る。
カインは小さくその音を繰り返す。
「……リゼル」
口にした瞬間、さっきまでとは違う感覚が残る。
偶然では終わらない何かが、そこに確かにあった。
そのやり取りを、俺は見ていた。
言葉は届いているのに、そこに触れることはできない。距離という概念が曖昧なまま、それでも確かに“外側”にいる。
だが、分かることがある。
「……気づいてるな」
小さく呟く。
完全ではない。
それでも、違和感の存在には確実に触れている。
「偶然じゃない」
あの一瞬の歪みを、あの少女は見逃さなかった。
それが何なのかは分かっていない。
だが、無視できるものではないと理解している。
「……厄介だな」
静かに息を吐く。
カインだけなら、もっと単純だった。
だが、もう一人いる。
しかも、その視線は確実にこちら側へ向きかけている。
「……まあ、いい」
視線を向ける。
カインと、リゼルへ。
「だったら、そのまま見ていけばいい」
逃げる理由はない。
むしろ――
「どう転ぶか、確かめる価値はある」
その言葉は誰にも届かない。
だが確かに、ひとつの意思としてそこにあった。
そしてその意思は、また新しい“分岐”へと静かに繋がっていく。
まだ誰も知らないまま。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しずつですが、物語の見え方が変わり始めています。
この先も読んでいただけると嬉しいです。




