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第4話 アーヴェルナを歩く


 後に、その森には古い名があると知った。


 アーヴェルナ。


 その名が誰の言葉で、どういう意味を持つのか、その頃の俺は知らなかった。じっちゃんも、俺の前ではその名をほとんど使わなかった。


 俺にとっては、ただ森だった。


 ただし、外の人間が思うような森ではない。


 木があって、草があって、その間をてくてく歩ける場所。そういうものを森と呼ぶなら、アーヴェルナはかなり意地が悪い。


 まず、地面がない。


 もちろん本当にないわけではない。土はある。苔もある。腐った葉もある。湿った泥もある。だが、普通に足を置ける平らな場所はほとんどない。


 馬鹿みたいに太い根が、地面の上を何本も走っている。古い根は岩みたいに硬く、若い根は雨の日に滑る。根と根の間には腐葉土が溜まり、その下が空洞になっていることもある。踏めば沈む。沈めば虫が出る。たまに、虫では済まないものも出る。


 倒木は道を塞ぐ。蔓は足首を待つ。苔は石を隠す。見た目だけなら柔らかそうな緑が、踏むと靴底ごと持っていこうとする。


 だから、アーヴェルナでは歩くというより、登る、下りる、跨ぐ、飛ぶ、滑る、掴む、引き上げる、また飛ぶ、という方が近い。


 面倒だ。


 だが、俺はその面倒な場所で育った。


 じっちゃんの家を出て、最初の数日は、まだ戻れると思っていた。


 実際、戻れた。


 霊樹の方角も、じっちゃんの小屋の匂いも、山側から来る冷たい風も、まだ身体の中に残っていた。背中の方を向けば、帰り道は分かる。完全にではないが、森で完全に分かるものなど少ない。だいたい分かれば、十分帰れる。


 それは少し安心で、少し邪魔だった。


 根を踏み上がる。苔で滑る。手をついて体勢を直す。枝をくぐる。落ち葉の下の石を避ける。


 身体は前へ進む。


 だが、背中の奥で何かが言う。


 戻れるぞ。


 戻れば、じっちゃんの家がある。屋根には草が生えている。季節になれば花も咲く。魔獣の乳は嫌いだが、霊樹の実はうまい。猿は木の実を投げてくるが、あれもまあ、慣れれば避けられる。


 避けられるだけで、好きにはならないが。


 俺は胸元の守り輪を握った。


 オルド。


 俺ではないかもしれない名。


 俺だったかもしれない名。


 冷たい輪は、歩くたびに胸に当たった。邪魔ではない。重くもない。ただ、ある。


 俺はそれを持って、外へ向かっていた。


 五日歩いても、森は終わらなかった。


 十日歩いても、終わらなかった。


 川を越えても森。


 岩場を越えても森。


 谷を下りても森。


 登った先も森。


 ときどき、かなり高い根の上に立って周囲を見た。見えるのは、枝と葉と、さらに遠くの枝と葉だった。空はある。だが、森の外は見えない。


 でかい。


 知っていた。


 知っていたはずだった。


 だが、歩いても歩いても終わらないと、知っていた森が少し違う顔をする。


「……長いな」


 俺がそう言うと、頭の上から小さな実が落ちてきた。


 肩に当たった。


 見上げると、枝の上に灰色の猿がいた。鼻が長く、目が細い。前に木の実を投げてきた猿とは違う。違うが、やっていることは同じだ。


「お前に言ったんじゃない」


 猿は鳴いた。


 たぶん笑っていた。


 俺は実を拾って投げ返そうかと思ったが、やめた。じっちゃんなら「猿と同じ土俵に乗るな」と言ったかもしれない。いや、じっちゃんは一度だけ猿に木の実を投げ返していた気もする。あれは何だったのだろう。


 少し考えたが、分からなかったので歩いた。


 出て七日目の朝、首刈り兎に会った。


 最初は、ただの兎に見えた。


 白い毛。長い耳。丸い背中。低い草の間で、鼻をひくひく動かしている。うまそうだと思った。兎の肉は柔らかい。小さいから腹いっぱいにはならないが、朝飯にはちょうどいい。


 俺が根の上から一歩下りると、兎の耳が止まった。


 変だ。


 普通の兎は、まず逃げる。


 こいつは逃げなかった。


 次の瞬間、白いものが地面を弾いた。


 速い。


 兎の前脚から、刀みたいな骨が伸びていた。薄く、白く、少し曲がっている。その刃が、まっすぐ俺の首へ来た。


「うわ」


 俺は首を引いた。


 軽い音がして、喉の前を風が切った。冷たい。いや、冷たいと思った時にはもう遅い。少しでも反応が遅れていたら、喉が開いていた。


 兎は着地しない。


 根を蹴り、苔のついた石を踏み、横からもう一度跳んでくる。小さいくせに、動きが立体的だった。アーヴェルナの根の地面を、自分のために作られた道みたいに使っている。


 二撃目。


 右前脚の骨刃が首。


 左前脚の骨刃が腹。


 小さいくせに、狙いがいやらしい。


 俺は山刀を抜き、右の刃を弾いた。


 硬い音がした。


 兎の身体が空中で少しずれる。だが止まらない。左の刃が腹へ来る。俺は膝を落とし、身体をひねった。刃が革を裂く。浅い。


 痛い。


 だが、浅いなら使える。


「兎のくせに、やるな」


 言ってから、兎に褒めても仕方ないと思った。


 三度目は、跳ばせなかった。


 兎が地面に触れた瞬間、俺は先に踏み込んだ。逃げる先を見る。右の根。そこに乗る。なら、先にそこを潰す。


 山刀ではなく、左手を出した。


 兎の耳を掴む。


 噛まれた。


 痛い。


 かなり痛い。


 だが、掴んだ。


 俺はそのまま兎を地面へ叩きつけた。骨刃が土を裂き、白い毛が跳ねる。もう一度、叩きつける。動きが鈍る。最後に山刀で首を落とした。


 俺はしばらく、その場で兎を見下ろした。


 小さい。


 小さいのに、普通に死にかけた。


 アーヴェルナは、やはり森として少しおかしい。


 これは後で知ったことだが、首刈り兎は外の猟師たちの間では、出会えば死ぬ魔獣として知られていたらしい。


 理由は簡単だ。


 首刈り兎は、本来、一匹で狩らない。


 群れで来る。


 一匹が首を狙い、一匹が腹を裂き、一匹が足を落とす。小さい。速い。低い。しかも白い骨刃は草や光の間に紛れる。気づいた時には、首の皮が開いている。


 俺が出会ったのは、たまたま群れから離れたはぐれだった。


 運がよかった。


 あの時の俺は、そのことを知らなかった。だから、倒した後で「兎にしては危ないな」くらいに思っていた。


 もし群れに出くわしていたら、たぶん俺はそこで死んでいた。


 アーヴェルナでは、勝ったから強いとは限らない。


 ただ、まだ死ななかっただけのこともある。


 俺は首刈り兎を解体した。


 まず肉。


 少ないが、柔らかそうだった。首を狙ってくるくせに、肉はうまそうだ。これは少しずるい。


 次に前脚の骨刃。


 薄く、軽く、よく切れる。根の皮に当てると、すっと裂けた。山刀のように重くはない。だが、刃としてはかなりいい。柄をつけて振るには短い。罠か、投げる刃か、細かい作業に使えそうだった。


 腱も取った。


 細いのに、強い。


 引いてもなかなか切れない。乾かして裂き、撚れば、かなりいい糸になる。


「お前、使えるな」


 俺は首刈り兎の死体に言った。


 もちろん返事はない。


 返事があったら、たぶん少し怖い。


 その日の朝飯は、首刈り兎の肉だった。


 薄く切って、枝に刺して焼く。脂は少ないが、香りはいい。火に当てると、白かった肉が少しずつ色を変えた。俺は焦げる前にかじった。


 うまい。


 柔らかい。


 少し甘い。


 俺はもう一切れ焼いた。


 危ないやつほど肉がうまいのは、森のよくないところだと思う。いや、よいところかもしれない。危ない思いをしたあとで肉までまずかったら、さすがに悲しい。


 食った後、骨刃を洗い、腱を伸ばして枝に吊るした。


 乾くまで、すぐには使えない。


 森のものは、取ったらすぐ役に立つとは限らない。乾かすもの、削るもの、裂くもの、待つものがある。待つのはあまり得意ではないが、待ったものがうまく使えると、少し嬉しい。


 首刈り兎の骨刃は、三日後に最初の道具になった。


 細い枝を削って短い柄を作り、腱糸で巻く。巻き方が甘いと刃が動く。強く巻きすぎると、枝が割れる。二度失敗した。


 三度目で、手に収まった。


 軽い。


 山刀よりずっと軽い。


 細かい蔓を切るには、こっちの方がいい。罠の仕掛けを削る時にも使える。俺は何度か握り直し、細い根を切ってみた。


 すぱっと切れた。


「おお」


 声が出た。


 いい。


 これはいい。


 俺はしばらく、意味もなく細い枝を削った。削りすぎて、ただの短い棒がさらに短くなった。少しもったいない。でも、楽しかった。


 そうしているうちに、俺は少し分かってきた。


 アーヴェルナは、ただ歩くだけの場所ではない。


 根を越え、川を渡り、獣を避け、魔獣を狩る。それだけでも足りない。狩ったものを食う。使えるものを剥ぐ。乾かす。削る。巻く。失敗する。もう一度やる。そうしなければ、次の日の自分が少し困る。


 次の日の自分が困るのは、嫌だ。


 できれば喜ばせたい。


 だから、作る。


 歩く日が続いた。


 首刈り兎の腱糸は、袋の口を縛る紐になった。骨刃は蔓切りになり、時々罠の仕掛けにも使った。肉はとっくに腹の中だ。


 森は相変わらず終わらない。


 けれど、少しずつ顔を変えていった。


 じっちゃんの家の近くにあった湿った甘い匂いは薄くなり、冷えた石と若い葉の匂いが増えた。根の形も変わる。奥地の根は太く、古く、こちらを見下ろしているようだったが、このあたりの根は若く、絡み合い、足を引っかけることに一生懸命だった。


 あまり良い努力ではない。


 俺は何度も滑り、何度も手をついた。


 手の皮は厚くなった。足の裏も少し硬くなった。山刀の柄は前より手に馴染み、布袋は何度も枝に引っかかった。


 ある日、布袋の底が裂けた。


 木の実が落ちた。


 乾かしていた薬苔も少し散った。


 俺はまず、落ちたものを拾った。木の実は転がる。転がる木の実は、なぜか一番拾いにくい根の隙間へ入りたがる。俺は腕を突っ込み、指先で探った。ぬるっとした虫がいた。


「お前じゃない」


 虫は逃げた。


 木の実は三つ見つからなかった。


 少し悲しい。


 かなり大事な三つだった気がしてくる。たぶん、見つからないからそう思うのだ。


 俺は首刈り兎の腱糸で、裂けた布袋を縫った。縫えば持てる。


 ただし、持てるだけだった。


 布そのものが弱っている。何度も濡れ、枝に擦れ、泥を吸ったせいだ。次に大きな根へ引っかければ、たぶんまた裂ける。


 丈夫な皮がいる。


 そう思った。


 思ったが、思っただけで皮は落ちてこない。


 森はそこまで親切ではない。


 俺は薬苔だけを大きな葉で包み、木の実は少し減らして持った。全部は入らない。全部持とうとすると、袋がまた裂ける。


 諦めるのは好きではない。


 でも、袋が裂ける方がもっと嫌だ。


 それから数日、俺は弱った袋を気にしながら歩いた。


 根を越えるたびに袋を持ち上げ、蔓をくぐる時は身体の前に抱え、滑りそうな場所では先に袋だけを上の根へ置いた。面倒だったが、何度かそれで助かった。


 不便な道具を持つと、身体の動かし方まで変わる。


 これは少し面白かった。


 ただ、面白いだけでは困る。


 皮がいる。


 できれば厚くて丈夫な皮がいい。


 だが、厚い皮の獣はだいたい強い。


 強い獣は、こちらの都合では出てこない。


 三日目、掘り返された根を見つけた。


 土が新しい。


 根の切れ方が荒い。鼻先で掘り、牙で裂いた跡だった。周囲には泥が飛び、低い葉に茶色い毛がついている。匂いは濃い。獣臭い。少し茸の匂いも混ざっている。


 牙猪だ。


 近くにいる。


 ただし、近くにいることと、すぐ狩れることは違う。


 俺はその日、足跡だけ見て終わった。


 次の日は雨が降り、跡が半分流れた。


 さらに次の日、古い泥場で蹄の跡を見つけたが、匂いは薄かった。もう通り過ぎた後だった。腹は減る。袋は弱い。皮は欲しい。だが、欲しいと思っただけで牙猪が寝転がって待っているわけではない。


 森は、やはり親切ではない。


 でも、痕跡はあった。


 なら、いる。


 俺は風を見て、根の掘られ方を見て、水場の位置を覚えた。牙猪は根を食う。茸も掘る。水を飲む。大きいから、柔らかい泥を嫌う時もある。だが、腹が減れば通る。


 待つ。


 動く。


 また待つ。


 四日目の朝、低い唸りを聞いた。


 風下に回ると、牙猪がいた。


 肩は俺の胸ほどあり、牙は太い。鼻先で根元の茸を掘っている。うまそうな茸ではない。だが、牙猪は気にせず食っている。腹が強いのだろう。少し羨ましい。


 俺は低い枝に登った。


 牙猪は首刈り兎と違って、速さで首を狙ってくるわけではない。あれは正面から来る。重い。硬い。鼻先で土を掘り、牙で根を裂く。怒ると前しか見ない。


 前しか見ない相手は、怖い。


 だが、分かりやすい。


 俺は枝から飛び降り、山刀を首元へ叩き込んだ。


 浅い。


 皮が厚い。


 牙猪が暴れた。


 俺は弾かれ、肩から根の上へ転がる。硬い。痛い。土ではなく根にぶつかったので、痛みがはっきりしていた。根は遠慮がない。


 牙猪が突っ込んでくる。


 俺は横へ跳んだ。牙が若い木の根を削り、木の皮が飛ぶ。あれが腹に刺さったら、かなりよくない。よくないというか、たぶん死ぬ。


 俺は前に立たないことにした。


 前しか見ない相手の前に立つのは、向こうに合わせすぎている。


 牙猪が向きを変えるより早く、俺は横へ回り、後ろ脚の腱へ山刀を入れた。


 今度は深く入った。


 牙猪が崩れる。


 土が跳ねる。


 俺は距離を取り、暴れる音が小さくなるまで待った。


 近づきたい。


 早く終わらせたい。


 でも、倒れた獣をすぐ信じるなと、じっちゃんは言った。死んだふりをする獣もいる。死にかけでも、最後の一撃だけ強いものもいる。


 待つ。


 待つのは苦手だ。


 だが、待っている間に首刈り兎の肉の味を思い出した。牙猪もうまいだろうか。硬そうだ。だが、硬い肉はよく噛むと味が出る。


 少し楽しみになった。


 しばらくしてから近づき、俺は牙猪の首を切った。


 血の匂いが広がる。


 熱い。


 生きていたものの匂いだ。


 俺は肉を切り、皮を剥ぎ、腱を取った。皮は重い。脂も多い。臭いも強い。


 だが、丈夫だ。


 やっと袋にできる。


 俺は少し笑った。


 森の中で、ようやく欲しかったものに手が届く。これはかなり嬉しい。


 肉はその日の夜に焼いた。


 やはり硬かった。


 噛むと顎が疲れる。だが、うまい。腹に溜まる。首刈り兎の柔らかい肉とは違う。噛んでいると、自分も少し強くなっている気がする。たぶん気のせいだ。でも、嫌いではない。


 牙猪の皮は、すぐには袋にならない。


 脂をこそげ、広げ、煙に当て、乾かす。雑にやると腐る。虫が来る。虫が来るのは嫌だ。あいつらは小さいくせに遠慮がない。


 俺は数日、その場に留まった。


 留まるためには、場所を決めなければならない。


 根が高く、水が溜まらない場所。近くに細い水の流れがあり、でも川に近すぎない場所。大型魔獣の通り道から外れ、枝が重なって雨を少し避けられる場所。


 そういう場所を探すだけで半日かかった。


 ようやく見つけたのは、三本の太い根が絡んでできた少し高い場所だった。根の間に腐葉土が溜まり、その上に苔がある。寝るには柔らかい。柔らかすぎると沈むが、ここは下に根がある。悪くない。


 近くには、白っぽい若木が何本か生えていた。根が太く、地面の上に浅く浮いている。見たことのない木だった。葉は細く、匂いは少し甘い。


 俺はその時、その木のことを知らなかった。


 知らないものには近づきすぎるな。


 じっちゃんの教えだ。


 だが、その根元は乾いていて、拠点には向いていた。


 俺は少し迷った。


 迷った結果、そこに寝床を作った。


 後で考えると、もう少し迷ってもよかった。


 枝を組み、葉を重ね、牙猪の皮を張る。最初の雨避けは半分しか雨を防がなかったが、半分は防いだ。俺が作った場所で、雨が少しだけ俺を避けている。


 それは、思ったより嬉しかった。


 俺は寝床に座り、濡れていない膝を見た。


「悪くない」


 声に出すと、本当に悪くない気がした。


 牙猪の皮袋も、少しずつ形になった。


 硬い。


 重い。


 少し臭い。


 でも、木の実は落ちない。


 勝ちだ。


 臭い勝ちだ。


 俺は新しい袋に木の実と薬苔を入れた。じっちゃんがくれた布袋は、畳んで中にしまった。捨てる気にはならなかった。


 雨の気配が濃くなっていた。


 葉の先が重く、虫が低い場所へ移っている。風が水を含み、朝の霧が長く残る。これは、一日二日で終わる雨ではない。


 歩けない日が来る。


 いや、歩くことはできる。


 だが、無理に進めば足跡が泥に深く残り、川は増え、根は滑り、火口は湿る。荷も重くなる。進んだ先で何も作れなければ、そこで困る。


 俺は少しずつ分かってきた。


 アーヴェルナは、ずっと歩いていれば抜けられる森ではない。


 歩くために、止まる。


 止まるために、作る。


 作るために、狩る。


 狩ったものを、食って、使って、乾かして、直す。


 そうしないと、次の日の自分が困る。


 次の日の自分を困らせないのは、けっこう大事だ。


 その夜、雨が降り始めた。


 最初は静かだった。


 葉の上で小さく弾け、根を濡らし、苔を黒くする。


 俺は新しい寝床の中で、牙猪の皮袋を抱えていた。火は小さい。だが消えていない。干し肉は吊るしてある。首刈り兎の骨刃は手の届くところに置いた。山刀は膝の横。


 胸には守り輪。


 オルド。


 冷たい名。


 雨の音を聞いていると、じっちゃんの家を思い出した。


 屋根の草。


 霊樹の実。


 木板を刻む音。


 嫌いだった魔獣の乳。


 あれほど嫌いだった乳が、少し懐かしくなった。


 それは悔しいというより、不思議だった。


 嫌いなものでも、遠くなると少し形が変わるらしい。


 雨は強くなった。


 俺の寝床は、半分以上雨を防いだ。


 半分以上だ。


 前よりいい。


 嬉しかった。


 外は暗い。森は広い。じっちゃんの声は聞こえない。


 それでも、俺は自分で作った場所にいた。


 首刈り兎の骨刃があり、牙猪の皮袋があり、干し肉があり、火がある。


 外へは、まだ出ていない。


 森は、まだどこまでも続いている。


 だが、今日の俺は昨日の俺より少し進んだ。


 距離だけではない。


 作れるものが増えた。


 食えるものが増えた。


 止まる場所を、自分で決められた。


 それは、悪くなかった。


 俺は雨の音を聞きながら、明日は何を直すか考えた。


 袋の縫い目。


 山刀の柄。


 骨刃の巻き。


 それから、拠点の屋根。


 やることが多い。


 多いが、少し楽しい。


 アーヴェルナはでかい。


 馬鹿みたいにでかい。


 なら、急いでも仕方ない。


 俺は牙猪の皮を肩まで引き上げ、火が消えていないことを確かめてから目を閉じた。


 森の外は、まだ遠い。


 だが、俺はもう、ただ歩いているだけではなかった。



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