第3話 外へ出る
十三になる頃には、俺は森の中で迷わなくなっていた。
少なくとも、俺はそう思っていた。
じっちゃんは認めなかった。
「迷わぬ、と思った時が一番迷っている」
「帰れる」
「帰れるから迷っていない、と思うのがもう危ない」
「帰れないのが迷うってことじゃないのか」
「違う。帰れる道しか見なくなった時も、だいたい迷っておる」
また分かりにくいことを言う。
ただ、じっちゃんの分かりにくい言葉は、あとで効く。嫌な薬に似ている。飲んだ時は苦いだけなのに、忘れた頃に効いてくる。もっと味をどうにかしてほしい。
その日も、じっちゃんはいつも通り俺を森の奥へ放り出した。
森の奥、と言っても、人間の言う森とは違う。
後に外の森を見た時、俺は少し驚いた。木の間が広い。獣が小さい。足跡が素直で、風が軽い。あれは森というより、木が多い道だった。もちろん外の人間からすれば、あれも立派な森なのだろう。
俺が育った森は、道など知らない。
根は地面の上を蛇のように走り、苔は石を隠し、蔓は足首を待つ。頭上では猿がこちらを見ていて、もっと高い枝には、猿を食う鳥がいる。川は澄んでいるが、流れの下に歯のある魚が潜む。夜になれば、木の影と獣の影の区別がつかなくなる。
そういう場所で、俺はようやく迷わなくなった。
たぶん。
少なくとも、腹が減る前に帰る場所くらいは分かるようになった。
じっちゃんの家は、家と呼ぶにはあまり家らしくない。大きな木の根と根の間に、木と石を組んだ小屋がある。屋根には草が生えていて、季節によって花も咲く。壁の一部は生きた木で、夜になると少しだけ光る。
俺はそれを普通の家だと思っていた。
外に出てから、屋根に花が咲かない家の方が多いと知った。少し残念だった。花が咲く方が、見ていて楽しいのに。
その日、俺は朝から山側へ向かっていた。
霊峰。
人間たちは、後にその山をそう呼んだ。
竜が棲む山。
神の息が白く積もる山。
登った者は戻らない山。
じっちゃんは、ただ「上の山」と呼んだ。
たぶん、じっちゃんにとっては本当に上にある山なのだろう。長く生きると、呼び名が雑になるのかもしれない。
「竜はいるのか」
幼い頃に聞いたことがある。
じっちゃんは、少し考えてから答えた。
「いると思う者にはいる」
「見たことは?」
「あるような、ないような」
「どっちだ」
「長く生きると、見たものと聞いたものの境が薄くなる」
「それは忘れてるってことか」
「言い方が悪いな。まあ、少しそうだ」
その答えは、答えになっていなかった。
じっちゃんは時々そういう言い方をする。俺がしつこく聞くと、面倒になった顔で「まだ食われていないなら問題ない」と言った。だから俺は、竜について考えるのをやめた。
食われていないなら、今は問題ない。
森では、それで足りることが多かった。
山側の森は、いつもより静かだった。
鳥の声が少ない。小さな獣の足跡も少ない。その代わり、岩が増える。根が岩を抱き、岩が根を押し返し、地面が硬くなる。風の匂いも変わる。湿った土の匂いの奥に、冷えた石の匂いが混じる。
冷えた石の匂いは嫌いではない。
鼻の奥が少し澄む。
ただ、足場は悪い。足裏が痛い。森の柔らかい土に慣れていると、岩は遠慮がない。踏んだら踏んだ分だけ、きっちり返してくる。
俺は山刀を背負っていた。
その頃の山刀は、まだ敵将から奪ったものではない。じっちゃんがくれた古い刃だった。少し欠けていたが、よく切れた。どこで手に入れたのか聞くと、じっちゃんは「昔、落ちていた」と言った。
じっちゃんの昔は、あまり信用できない。
百年前も、昨日も、あの人の口ではだいたい「昔」になる。
俺は山刀で蔓を払いながら進んだ。
目的は、薬苔だった。
青灰色の苔で、乾かすと傷薬になる。普通の傷なら、貼っておけば治りが少し早くなる。じっちゃんはそれを「人間にも効く」と言った。
言い方が少し引っかかった。
俺は人間だ。
なら、普通に効くでいいのではないか。
そう言うと、じっちゃんは「お前はたまに人間を忘れる」と返した。ひどい。人間を忘れたことはない。たぶん。少なくとも、自分の耳が短いことは覚えている。
薬苔は、崖の近くに生える。
俺は岩場を登り、足場を探した。手をかける場所はある。岩の表面は湿っているが、爪を立てれば滑らない。風は右から来る。上には鳥の巣がある。古い巣だ。匂いが薄い。
薬苔は崖の横腹に張りついていた。
青灰色で、乾いた魚の皮みたいにも見える。うまそうではない。だが薬になる。森には、うまそうで死ぬものと、まずそうで役に立つものが多い。できれば逆にしてほしい。
苔を剥がそうとして、俺はそこで変なものを見つけた。
布だった。
岩の裂け目に、古びた布が挟まっている。苔と土に半分埋もれていた。森の布ではない。じっちゃんが織る布はもっと軽く、草の匂いがする。これは違う。硬く、粗く、ところどころ赤黒く染みていた。
触ると、指先が少しざらついた。
古い。
だが、ただの古いものではない。
俺は布を引っ張った。
ぼろぼろになっていたが、完全には崩れなかった。中から、小さな輪が落ちた。
金属だった。
岩に当たって、小さく鳴る。
俺はそれを拾った。
指輪にしては大きい。腕輪にしては小さい。俺の手首には、もちろん入らない。五つの頃でも無理だったと思う。もっと小さい者のものだ。
表面に文字が刻まれていた。
古い字ではない。
現代文字だった。
じっちゃんに習ったことがある。外の人間が使う字だ。俺は土を払い、目を細めた。
読めた。
オルド。
短い名だった。
だが、俺の名ではなかった。
俺の名はヴァンディルだ。
ヴァンと呼んでもいい。
だが、オルドではない。
俺は輪を手の中で転がした。冷たい。軽い。小さい。なのに妙に手から離れない感じがする。
布の奥には、白い骨もあった。
小さな骨ではない。鳥の骨だ。翼の骨。鋭い爪。長い嘴の一部。怪鳥のものだった。大きさから見て、赤子どころか、山羊くらいなら掴んで飛べる。
俺はしばらく、その場で黙っていた。
風が吹く。
岩場の下で木々が揺れる。遠くの霊樹の方角から、かすかに甘い匂いがした。森はいつも通りだった。いつも通りに見えた。
だが、その布だけが違った。
外の匂いがした。
古くて、薄くて、もうほとんど消えているのに、それでも森のものではなかった。
俺は布と金属の輪を持って、じっちゃんの家へ戻った。
帰る途中、何度か足を止めた。
別に道に迷ったわけではない。獣の気配がしたわけでもない。ただ、足が勝手に止まった。
森の音が近すぎた。
葉が擦れる音。虫の羽音。水の流れ。遠くの獣の息。いつも聞いているものなのに、その日はやけに耳に入った。
俺はここで育った。
ここで飯を食い、転び、眠り、木に登り、獣に追われた。じっちゃんに怒られ、笑われ、字を習った。霊樹の実を食い、魔獣の乳を飲まされ、猿に木の実を投げられた。
かなり投げられた。
なら、俺は森のものだと思っていた。
だが、岩場で見つけた布は、そうではないと言っているようだった。
いや、布は喋らない。
じっちゃんなら「古い布も喋る。お前が聞けないだけだ」と言うかもしれないが、今はそういう話ではない。
ただ、手の中の輪が冷たかった。
じっちゃんは小屋の前に座っていた。
手元には木板があり、何か古い文字を刻んでいる。俺が近づくと、顔を上げずに言った。
「見つけたか」
俺は足を止めた。
「知ってたのか」
「いつか見つけると思っていた」
「なぜ言わなかった」
「聞かなかった」
俺は布を握った。
少し腹が立った。
いや、かなり腹が立った。
こういう時のじっちゃんは本当にずるい。聞かなかった、と言われると、確かに俺は聞いていない。だが、聞けるわけがない。知らなかったのだから。
「俺は、どこから来た」
じっちゃんは木板を置いた。
それから、俺を見た。
じっちゃんの目は、いつもより少し静かだった。森の奥の深い水みたいだった。
「空から落ちてきた」
「ふざけてるのか」
「ふざける時はもう少し面白く言う」
「じゃあ、ふざけてないのか」
「ふざけてはいない。お前は本当に空から落ちてきた」
じっちゃんは、森の上を指した。
「大きな鳥が、お前を掴んでいた。たぶん、食うつもりだったのだろう。だが山側の風に煽られて、岩にぶつかった。鳥は死んだ。お前は落ちた。泣いていた」
俺は布を見た。
赤黒い染み。
鳥の骨。
岩場。
空。
「俺は森で生まれたんじゃないのか」
「違う」
「人間のところから来たのか」
「おそらくな」
「おそらく?」
「わしは見ていない。鳥がどこでお前を掴んだかは知らん」
「オルド」
俺は輪を握った。
「ここに、そう書いてある」
「そうだな」
「俺の名か?」
「わしが拾った時、お前は答えなかった」
「赤子だからな」
「そうだ。だから、本当のところは分からん」
じっちゃんは少し目を細めた。
「誰かがお前をそう呼んでいたのかもしれん。あるいは、そう呼ぼうとしていたのかもしれん。お前ではなく、お前に関わる誰かの名かもしれん」
「分からないのか」
「分からん」
分からない。
その言葉が、胸の中で少し転がった。
森では分からないものに近づくなと教わった。毒草かもしれない。罠かもしれない。獣の寝床かもしれない。だが、近づかなければ分からないものもある。
それも、じっちゃんが教えたことだった。
「なぜ育てた」
そう聞くと、じっちゃんは少しだけ眉を寄せた。
困った時の顔だ。
「気の迷いだ」
「気の迷い?」
「捨てておけば死んだ。拾えば面倒だった。あの時は、面倒でもよいかと思った」
「それだけ?」
「それだけだ」
俺は黙った。
怒るべきなのか、礼を言うべきなのか分からなかった。
じっちゃんは俺を拾った。育てた。乳を飲ませた。字を教えた。森の歩き方を教えた。俺が転べば笑った。泣けば困った。怪我をすれば治した。猿に木の実を投げられれば、しばらく一緒に見ていた。
それを、気の迷いと言った。
たぶん、じっちゃんにとっては本当にそうなのだろう。
長く生きる者の気の迷いは、短く生きる者の一生を変える。
「俺は人間か」
「そうだ」
「じっちゃんとは違う?」
「違う」
「森のものでもない?」
じっちゃんはすぐには答えなかった。
風が小屋の屋根の草を揺らした。小さな白い花が一つ落ちる。
「森のものではある」
じっちゃんは言った。
「だが、森だけのものではない」
「どう違う」
「森はお前を育てた。だが、お前を閉じる場所ではない」
俺は、その言葉の意味を考えた。
閉じる。
森が俺を閉じる。
そんなふうに考えたことはなかった。森は広い。どこまでも続いている。俺はまだ全てを歩いたわけではない。知らない谷もある。登っていない岩場もある。見たことのない獣もいる。
それでも、じっちゃんは森が俺を閉じると言った。
「外へ行けと言ってるのか」
「行けとは言わん」
「じゃあ、行くな?」
「それも言わん」
「どっちだ」
「自分で決めろ」
じっちゃんは、いつもそうだった。
大事なことほど、命令しない。
乳は飲ませる。文字は覚えさせる。歩き方は何度でもやり直させる。魔獣の乳は逃がしてくれない。あれだけは本当に逃がしてくれない。
だが、こういう時だけ、何も命じない。
「外には人間がいる」
「いる」
「俺と同じ形の?」
「そうだ」
「俺を知ってる?」
「知らんだろう」
「俺の親は?」
「分からん」
「生きてる?」
「分からん」
分からないことばかりだった。
腹がむずむずした。
魔獣の乳を飲んだ時とは違う。走りたくなる熱ではない。何かを見に行かないと落ち着かない感じだった。
「外へ出たら、戻れるか」
俺が聞くと、じっちゃんは森の奥を見た。
「戻る道を覚えていればな」
「覚えてる」
「今はな」
「忘れるのか」
「人間は、よく忘れる」
「俺は忘れない」
「なら、忘れぬように持て」
じっちゃんは立ち上がり、小屋の中へ入った。
しばらくして、古い布袋を持って戻ってきた。中には、乾かした肉、硬い木の実、薬苔、火打ち石、小さな骨針、それから木板が数枚入っていた。
「これは?」
「外へ行くなら要る」
「行けとは言わないんじゃなかったのか」
「言っていない。だが、行く顔をしている」
俺は自分の顔を触った。
どんな顔かは分からなかった。
腹がむずむずする顔かもしれない。あまり格好よくはなさそうだ。
じっちゃんはもう一つ、細い紐を出した。森の蔓を編んだものだ。そこに、俺が見つけた金属の輪を通す。
「持っていけ」
「これは誰のものだ」
「お前を包んでいた布にあった。なら、お前に関わるものだ」
「オルド」
俺は刻まれた文字を指でなぞった。
「俺の名前じゃない」
「そうだな」
「俺の名前はヴァンディルだ」
「わしがつけた」
「ヴァンでもいい」
「外ではそう呼ばれるかもしれん」
「じっちゃんは?」
「わしはヴァンディルと呼ぶ」
それを聞いて、少し安心した。
外で何と呼ばれても、じっちゃんの中では俺はヴァンディルなのだと思ったからだ。
その夜、俺はあまり眠れなかった。
森の音がいつもより大きく聞こえた。自分が明日にはここを出るかもしれないと思うと、どの音も覚えておきたくなった。
霊樹の葉が揺れる音。
遠くの川。
夜の鳥。
じっちゃんが木板に文字を刻む音。
小屋の屋根で眠る小動物の寝息。
聞こうとすると、森はずいぶんうるさい。
いつもは気にせず寝ていたのに、その夜は一つ一つが耳に引っかかった。寝たいのに、耳が勝手に働く。こういう時だけ真面目になるのは、少し困る。
夜明け前、俺は起きた。
じっちゃんはもう外にいた。
森の朝はまだ暗い。枝の隙間が青く、空気は冷たい。じっちゃんは小屋の前で、いつものように立っていた。何かを待っていたようにも、何も待っていないようにも見えた。
「行くのか」
じっちゃんが聞いた。
「見るだけだ」
俺は答えた。
「外を見てくる。人間を見てくる。俺がどこから来たのか、少しだけ見る」
「少しで済むとは限らん」
「なら、少しじゃなくなる」
「外には嘘が多い」
「森にもある」
「森の嘘は、腹を空かせている。人間の嘘は、腹が満ちても消えん」
「分からない」
「覚えておけ」
俺は頷いた。
じっちゃんは俺に山刀を渡した。
いつも使っていたものだ。
「いいのか」
「外では必要だ」
「じっちゃんは?」
「わしには別のものがある」
「見たことない」
「見せていない」
「見たい」
「今度な」
「じっちゃんの今度は長い」
「そうだな」
そう言われると、何も言えない。
俺は布袋を肩にかけた。金属の輪は首から下げた。胸のあたりで冷たく揺れる。
オルド。
俺ではないかもしれない名。
俺だったかもしれない名。
よく分からない。
だが、持っていく。
森の外へ向かう道は、ない。
ただ、森が薄くなる方角はある。じっちゃんに教えられなくても分かった。風の匂いが違う。土が少し軽い。獣の足跡が少し人間に近い場所を避けている。
俺は歩き出した。
十歩ほど進んで、振り返った。
じっちゃんはまだ立っていた。
「じっちゃん」
「何だ」
「俺は戻る」
「そうか」
「本当だ」
「なら、戻れ」
「待ってるか」
じっちゃんは少し考えた。
「わしは、だいたいここにいる」
「だいたい?」
「たまに寝る」
「三日くらい?」
「時による」
俺は笑った。
じっちゃんも、少しだけ笑った気がした。
「ヴァンディル」
じっちゃんが俺を呼んだ。
俺は背筋を伸ばした。
「一つだけを見るな」
「覚えてる」
「腹の火だけを見るな」
「覚えてる」
「背中を忘れるな」
俺は少し首を傾げた。
背中。
前にも言われた。
いつか、お前の後ろを歩く者がいるかもしれん、と。
「今はいない」
「今はな」
じっちゃんはそう言った。
俺は頷いた。
それ以上、聞かなかった。
聞いても、たぶん今は分からない。
俺はもう一度だけ、小屋を見た。
屋根の草。
根と根の間の壁。
夜に少し光る木。
何度も転んだ前の土。
じっちゃんが座って文字を刻む場所。
俺はそこで育った。
だから、ここを離れるのは少し変な感じがした。足は前へ出るのに、背中のあたりだけが少し残ろうとする。
たぶん、これが寂しいというものなのだろう。
あまり好きではない。
だが、嫌いとも少し違う。
俺は前を向いた。
森の奥へ。
森の外へ。
まだ見たことのない人間のいる方へ。
胸元で、守り輪が冷たく揺れた。
俺はその冷たさを一度だけ握り、歩き出した。
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次の話からは毎週水曜と土曜の19:30に投稿します。
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