第2話 魔獣の乳と霊樹
俺は、魔獣の乳が嫌いだった。
最初にそう言うと、だいたいの者は変な顔をする。
魔獣の乳など飲んだことがない者の方が多いからだ。飲んだことがないものを嫌いだと言われても、困るのだろう。俺も、食ったことのない虫の味を聞かれたら困る。たぶんまずい、としか言えない。
だが、あれは嫌いだった。
濃い。
とにかく濃い。
喉を通る時はぬるい鉄のようで、腹に落ちると火のついた石みたいに重くなる。飲んですぐ走れば吐く。吐けば、じっちゃんに「もったいない」と言われる。では走らなければいいのかというと、飲んだあとにじっとしていると身体の中が熱くなって、結局走りたくなる。
最悪だった。
飲むと走りたくなるのに、走ると吐く。
悪い罠だと思う。
それでも、じっちゃんは毎朝それを飲ませた。
「飲め」
「嫌だ」
「大きくならん」
「もう大きい」
「まだ足りん」
「何に足りない」
「森に」
森に足りるという言い方が、俺にはよく分からなかった。
だがじっちゃんは、分からないことほど短く言う。説明が面倒なのか、俺が分かる日まで置いているのかは知らない。たぶん両方だ。じっちゃんは長く生きているくせに、説明の手間はよく惜しむ。
その朝も、俺は木の根元に座らされていた。
目の前には、木をくり抜いた器がある。中には灰色がかった白い乳が入っていた。湯気はない。冷めているはずなのに、器を持つと指先がじんわり熱くなる。
見た目からして、あまり親切ではない。
乳を出した魔獣は、森の奥にいる大角鹿だった。
鹿と呼ぶには大きすぎる。肩だけで人間の大人より高く、角は左右に大きく広がり、その先に苔と小さな花がつく。走ると地面が揺れる。怒ると木を折る。
じっちゃんはそれを鹿と言った。
俺は、鹿というものは木を折れるのだと思って育った。外に出てから普通の鹿を見た時、少し拍子抜けした。あれはあれで可愛いが、木は折れそうにない。
「じっちゃん」
「何だ」
「なぜ鹿の乳を飲む」
「お前が人間だからだ」
「人間は鹿の乳を飲むのか」
「普通は飲まん」
「じゃあなぜ俺は飲む」
「普通ではない場所で育っているからだ」
じっちゃんは、そう言って俺の前に座った。
朝の森は薄い霧に包まれていた。遠くで鳥が鳴く。まだ日が高くないので、木の上の方だけが淡く光っている。空気は湿っていて、息を吸うと胸の奥まで冷えた。
俺は器を睨んだ。
乳は減らない。
睨んでも減らない。
じっちゃんも減らしてはくれない。
仕方なく持ち上げる。匂いは悪くない。少し草のようで、少し獣のようで、少し土のようだった。匂いだけなら、まあ、悪くない。問題はそのあとだ。
飲む。
重い。
やはり重い。
喉を通る時、身体の内側を誰かに掴まれたような気がした。腹に落ちる。熱くなる。背中の骨のあたりがむずむずした。
「嫌いだ」
「知っている」
「なぜ飲ませる」
「必要だからだ」
「何に」
「生きるのに」
じっちゃんは、俺が飲み終わるまで見ていた。
逃げようとしたことは何度もある。だが、じっちゃんの目を盗むのは難しい。あの人は眠っていても気づく。俺が器を持って木の裏に隠れた時も、葉を一枚落としてきた。葉は俺の頭に当たり、俺は驚いて乳をこぼした。
その日のじっちゃんは、少し悲しそうな顔をした。
俺ではなく、こぼれた乳を見て。
「森の恵みを粗末にするな」
それ以来、俺は乳をこぼさない。
嫌いだが、こぼさない。
森のものは、勝手にそこにあるわけではない。じっちゃんはそう教えた。水にも道がある。木の実にも時期がある。獣にも腹がある。奪うなら、覚えろ。食うなら、忘れるな。
だから俺は、嫌いな乳でも飲む。
かなり嫌いだが、飲む。
飲み終えると、腹の奥で火が広がった。
俺は器を置いて、息を吐いた。
「走るなよ」
じっちゃんが言った。
「走らない」
「跳ぶなよ」
「跳ばない」
「木に登るなよ」
「登らない」
「熊に喧嘩を売るなよ」
「売らない」
「大角鹿に文句を言いに行くなよ」
「それは少し考えた」
「考えるな」
俺はそう答えた。
そのあと、少しだけ走った。
少しだけだ。
森の朝は走りたくなる。足の裏に湿った土が吸いつき、膝が勝手に前へ出る。枝を避け、根を越え、倒木を踏む。身体が軽い。いや、腹は重いのに、身体の奥から力が湧く。
困ったことに、気持ちがいい。
俺は倒木を飛び越えた。
その向こうにいた小さな猪が驚いて逃げた。俺も驚いた。猪は俺より驚いていた。だから悪いのはたぶん俺だ。
さらに走る。
霧が裂ける。葉についた露が飛ぶ。胸の奥が熱い。足がよく動く。昨日より速い。昨日より遠くの音が聞こえる。木の上の猿が息を呑む音まで聞こえた気がした。
その瞬間、目の前に白い枝が現れた。
避けられない。
俺は顔から枝にぶつかった。
仰向けに倒れた。
空が見えた。
枝の上に、じっちゃんが立っていた。
「走るなと言った」
「少しだけ走った」
「少しだけぶつかったな」
「枝が急に出た」
「枝は前からあった。急だったのはお前だ」
その通りだった。
腹が立つ。
じっちゃんは枝から降りてきた。足音はしない。あの人は地面に重さを置かないように歩く。俺は重さごと地面を蹴るので、いつも怒られる。
鼻が痛かった。
かなり痛い。
鼻というものは小さいくせに、痛む時だけ妙に主張が強い。
じっちゃんは俺の顔を覗き込む。
「折れてはいない」
「痛い」
「痛いなら覚える」
「じっちゃんは痛くないのか」
「痛いことはある」
「泣く?」
「昔は」
「今は?」
「泣く前に面倒になる」
「泣くのも面倒なのか」
「長く生きるとな、いろいろ面倒になる」
忘れるものなのか、面倒になるものなのか、よく分からなかった。
俺は鼻を押さえながら起き上がった。乳の熱がまだ身体に残っている。ぶつかった痛みもある。だが、それよりも動きたい気持ちの方が強かった。
じっちゃんは俺の頭に手を置いた。
「乳が身体を起こす。起きた身体を、お前が御せなければ意味がない」
「ごす?」
「使いこなせ、ということだ」
「身体は俺のだ」
「だから一番厄介だ」
その言葉も、よく分からなかった。
自分の身体が自分の言うことを聞かないなど、考えたことがなかったからだ。だが実際、乳を飲んだあとの俺はよく転んだ。速く動けるのに、速さに目が追いつかない。力が出るのに、力の止め方を知らない。跳べるのに、着地を考えていない。
俺の身体なのに、勝手に先へ行こうとする。
少し腹が立つ。
でも、嫌いではなかった。
じっちゃんは、それを毎日直した。
歩け。
止まれ。
耳で見るな。
目で聞くな。
力を入れる前に抜け。
跳ぶ前に落ちる場所を決めろ。
獣を追うな。獣が逃げたい場所へ先に行け。
五つの俺には、難しかった。
だが、森は待ってくれない。分からなければ転ぶ。転べば痛い。痛ければ覚える。
人間の学校というものを、俺は後で知った。
椅子に座り、机に向かい、板に書かれた文字を読むらしい。悪くないと思う。少なくとも、木の上から猿に木の実を投げられることは少なそうだ。
俺の学校は森だった。
じっちゃんは師で、獣は試験官で、失敗するとだいたい噛まれる。
採点が厳しすぎる。
昼近くになると、じっちゃんは俺を森のさらに奥へ連れて行った。
そこには、大きな木があった。
大きい、という言葉では足りない。
幹は何人で手を回しても足りず、根は地面の上を川のように走っていた。枝は空を覆い、葉の隙間から落ちる光は緑色に揺れている。木肌には古い傷があり、その傷の中で小さな花が咲いていた。
近くに立つと、胸の中が少し静かになる。
さっきまで走りたがっていた身体が、まあ座ってもいいか、という顔をする。身体に顔はないが、そういう感じだ。
霊樹。
じっちゃんはそう呼んだ。
俺には、ただの大きな木に見えた。いや、ただの木ではないことは分かる。うるさい虫の声も、遠くの獣の足音も、ここでは少し柔らかく聞こえた。
霊樹の根元には、淡い金色の実が落ちていた。
じっちゃんはそれを拾い、俺に渡す。
「食え」
「落ちてるやつ?」
「落ちたものしか食うな」
「木から取らないのか」
「取ってよいものと、待つべきものがある」
「待つのは腹が減る」
「腹が減るくらいでは死なん」
「かなり嫌だ」
「それはそうだな」
俺は実を見た。
小さく、丸い。皮は薄く、指で押すと少しへこむ。匂いは甘いが、甘すぎない。森の水みたいな匂いがした。
かじる。
うまい。
魔獣の乳と違って、これは好きだった。
口の中で果汁が弾ける。冷たく、柔らかく、少しだけ舌がしびれる。飲み込むと、さっきまで腹の奥で暴れていた熱が落ち着いていく。
「これがいい」
「乳も飲め」
「これだけがいい」
「それだけでは骨が育たん」
「骨は見えない」
「見えないものほど、後で困る」
じっちゃんは、また分かりにくいことを言った。
俺はもう一口食べた。
霊樹の実を食べると、身体が静かになった。眠くなるわけではない。むしろ、遠くの音がよく聞こえる。だけど、乳を飲んだ後のように走りたくはならない。
自分の身体の中に、広い水面ができるような感じだった。
そこに石を投げると、たぶん怒られる。
俺は投げない。
「これは何のために食べる」
俺が聞くと、じっちゃんは霊樹を見上げた。
「覚えるためだ」
「何を」
「自分が、森に生かされていることを」
俺は実を見た。
それから木を見た。
木は何も言わない。風に揺れるだけだ。
「俺は森に生かされてるのか」
「そうだ」
「じっちゃんは?」
「わしもだ」
「鹿も?」
「そうだ」
「熊も?」
「そうだ」
「俺を食おうとした蛇も?」
「そうだ」
俺は少し考えた。
「じゃあ、蛇も俺と同じか」
「同じではない。だが、無関係ではない」
「難しい」
「覚えておけ。分かるのは後でよい」
じっちゃんはよくそう言った。
分からなくても覚えろ。
森では、分かる前に必要になることがあるからだ。
霊樹の根元で、俺は実を食べ終えた。種だけが手の中に残る。じっちゃんは小さな穴を掘り、そこへ種を置かせた。
「埋めるのか」
「食ったなら返せ」
「また生える?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「森が決める」
「森は気まぐれだ」
「お前ほどではない」
俺は土をかけた。
小さな種は見えなくなった。自分が食べたものを土へ返すのは、少し変な気分だった。食べたのに、終わりではないらしい。
「人間は返さないのか」
「返す者もいる。奪うだけの者もいる」
「奪うだけだとどうなる」
「森なら、いずれ飢える。人間の国なら、いずれ焼ける」
焼ける、という言葉をじっちゃんは静かに言った。
俺はその時、国というものを知らなかった。だから、焼けると言われても、森の火事のようなものを想像した。
木が燃える。獣が逃げる。煙が空を隠す。
後に知った。
国が焼ける時も、だいたい同じだ。
人が逃げる。腹を空かせる。泣く。怒る。奪う。殺す。
違うのは、木より人間の方がよく喋ることくらいだった。
その日の午後、じっちゃんは俺に文字を教えた。
霊樹の根元に座り、薄い木板に古い文字を刻む。じっちゃんの文字は細く、まっすぐで、風に立つ草のようだった。
「これは古い人間の字だ」
「人間の?」
「今はほとんど使わん」
「じゃあなぜ覚える」
「残っているからだ」
「使わないのに?」
「使わなくなったものにも、意味は残る」
「面倒だ」
「意味はだいたい面倒だ」
じっちゃんは木板に三つの文字を書いた。
「読め」
俺は眉を寄せた。
何度か習った形だ。だが似た文字が多い。古い文字は、じっちゃんの森の話と同じで、すぐには分からない。
「ヴァ……」
「違う」
「ヴァン……」
「近い」
「ヴァンディル?」
じっちゃんは頷いた。
「お前の名だ」
俺は木板を覗き込んだ。
自分の名が、そこにあった。
音として聞く名と、形として見る名は違う。木板の上の名は、俺より少し古く見えた。俺はまだ五つなのに、名前だけがずっと昔からそこにあったような気がした。
少し悔しい。
自分の名なのに、俺より名の方が偉そうだった。
「ヴァンディルって、どういう意味だ」
「昔の物語に出る人間の名だ」
「強い?」
「強かったらしい」
「王?」
「違う」
「じゃあ何」
「先に渡った者」
じっちゃんは、枝の向こうの空を見た。
「深い谷があった。誰も渡らなかった。橋もなかった。谷の向こうで、多くの者が待っていた。ヴァンディルという男は、最初に谷を渡った。落ちれば死ぬ。渡っても、向こうで死ぬかもしれん。それでも渡った」
「なぜ?」
「後ろに、渡れぬ者がいたからだ」
俺は木板の文字を見た。
先に渡った者。
その意味は、少しだけ分かった気がした。
「その人は死んだ?」
「物語では死んだ」
「渡ったのに?」
「渡ったからだ」
じっちゃんは静かに言った。
「人間は、先に死ぬ者を後から英雄と呼ぶ」
俺は考えた。
死ぬのは嫌だ。
痛いのも嫌だ。
魔獣の乳も嫌いだ。
だが、後ろに誰かがいて、その者が渡れないなら、自分が先に行くしかない時もあるのかもしれない。
五つの俺には、それ以上は分からなかった。
「俺も死ぬ?」
「いつかは」
「じっちゃんも?」
「いつかは」
「いつ?」
「さあな」
「知らないのか」
「知っていたら、たぶん前の日にうまいものを食う」
じっちゃんは木板を俺に渡した。
「だから、短い者はよく覚えろ」
「俺は短い?」
「人間は短い」
「短いのは嫌だ」
「嫌なら、濃く生きろ」
「濃く?」
「乳のように」
俺は顔をしかめた。
じっちゃんは少し笑った。
あの人の冗談は、たまに分かりにくい。
分かっても嬉しくない時もある。
夕方、俺はまた歩く練習をした。
魔獣の乳で起きた身体を、霊樹の実で静める。それから、森を歩く。走るのではなく、跳ぶのでもなく、ただ歩く。
足元だけを見るな。
風だけを聞くな。
腹の火だけに従うな。
森に生かされていることを忘れるな。
じっちゃんの言葉は、どれも森の中では役に立った。後に戦場でも役に立った。
その頃の俺は、そんなことを知らない。
ただ、乳は嫌いで、霊樹の実は好きで、じっちゃんは厳しく、森は広かった。
夜になると、霊樹の葉が薄く光った。
俺は根元に寝転がり、枝の間から星を見た。森の外にも星はあるのかと聞くと、じっちゃんはあると言った。
「森の外にも?」
「ある」
「人間も見る?」
「見る」
「同じ星?」
「同じだ」
俺は少し驚いた。
森の外は、何もかも違う場所だと思っていた。だが星は同じらしい。
「じゃあ外の人間も、森のことを知ってる?」
「知らん」
「同じ星を見てるのに?」
「同じものを見ても、同じようには見えん」
じっちゃんはそう言って、俺の横に座った。
しばらく黙っていた。
森の夜は深い。遠くで獣が鳴き、もっと遠くで水が流れる。土の下で小さな虫が動く音も、耳を澄ませば聞こえる気がした。
俺は眠くなった。
「じっちゃん」
「何だ」
「明日も乳?」
「明日も乳だ」
「嫌だ」
「知っている」
「霊樹の実は?」
「落ちていれば食える」
「落ちてなかったら?」
「待つ」
「腹が減る」
「なら乳を飲め」
俺は目を閉じた。
やっぱり魔獣の乳は嫌いだ。
そう思いながら眠った。
翌朝も、俺は乳を飲まされた。
そして、その翌朝も。
そのまた翌朝も。
嫌いなものを飲み、好きなものを待ち、森に転ばされ、じっちゃんに笑われながら、俺は少しずつ大きくなった。
大きくなりすぎた、と後にガルムンドは言った。
だが、それは俺のせいではない。
森と、魔獣と、霊樹と、じっちゃんが悪い。
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