第1話 森のじっちゃん
五つの頃、俺にとって世界は森だった。
空は枝の隙間にあり、道は獣の足跡にあり、朝は霧の匂いで来た。夜になると木々の奥で、名も知らない獣が低く鳴いた。近くで聞くと腹の底がぶるぶる震える声で、正直、あまり楽しい音ではなかった。
だが、じっちゃんは気にするなと言った。
「腹が減っているだけだ。腹が満ちれば寝る。大抵の獣はそんなもんだ」
「俺も?」
「お前は腹が満ちても走る。そこが少し面倒だな」
そういうものかと思った。
だから俺は、その獣が家ほどもあると知ったあとも、あまり怖がらなかった。腹が減っているだけなら、腹が減っている俺と大して変わらない。問題は、あいつの方が俺よりずっと大きく、俺を食えるということだけだった。
かなり大きな問題だ。
森には、そういう問題がたくさんあった。
大きいものは小さいものを食う。速いものは遅いものを捕まえる。毒のある草は知らずに食った者を殺し、毒のない草でも食いすぎれば腹を壊す。川は喉を潤すが、油断すれば流される。木の実は甘いが、その甘さを好む獣もいる。
甘いものはだいたい競争になる。
森は、そこだけ少しずるい。
じっちゃんは、それをいちいち教えた。
優しくはなかった。
俺が転べば起こさずに待った。木の根に足を取られて顔から泥に突っ込んでも、まず笑った。けっこう笑った。長く笑った。笑い終わってから、「足より先に目を使え」と言った。
「先に笑うな」
「すまん。よい転び方だった」
「よい転び方って何だ」
「首を折らん転び方だ。上出来だぞ」
そう言われると、少しだけ誇っていいのか怒っていいのか分からなかった。
俺が泣くと、じっちゃんは少し困った顔をした。
「人間の子は、よく水を出す」
俺は鼻をすすりながら怒った。
「水じゃない」
「では何だ」
「泣いてる」
「同じだ。目から出ている」
「同じじゃない」
「味はしょっぱいだろう」
「舐めない」
「それは偉い。何でも舐めると腹を壊すからな」
そう言われると、俺には返す言葉がなかった。
じっちゃんの耳は長かった。
髪は白く、背は俺よりずっと高かった。あの頃の俺から見れば、森の木ほど高く見えた。肌は老人にしては妙に若く、しわは少ない。ただ、目だけが古かった。焚き火の奥に残った灰のような色をしていた。
後になって知ったことだが、普通の老人は三日眠って半日だけ起きたりしない。
普通の老人は、鳥がまだ飛ぶ前から雨の匂いを言い当てたりもしない。
普通の老人は、倒れた木に手を当てて、百年前にその木の根元で誰が死んだかを思い出したりもしない。
だがその頃の俺は、老人とはそういうものだと思っていた。
森にはじっちゃんしかいなかったからだ。
「ヴァンディル」
じっちゃんは俺をそう呼んだ。
長い名だった。俺は幼かったので、何度か噛んだ。自分の名なのに上手く言えないのは悔しかった。名乗るたびに舌がもつれる。自分の名に負けている感じがして、かなり腹立たしい。
「ヴァン、じゃ駄目か」
ある朝、俺はそう聞いた。
じっちゃんはしばらく俺を見た。風が枝を揺らし、細い葉が一枚、じっちゃんの肩に落ちた。じっちゃんはそれを払わなかった。葉の方も、そこが気に入ったように乗っている。
「短くするのは、人間らしい」
「悪いのか」
「悪くはない。急いで死ぬ者は、名も急ぐ」
「俺は急いで死なない」
「それは良い。急がんでも、死ぬ時は向こうから来る」
「来るな」
「それは死に言え。わしに言われても困る」
じっちゃんは、少しだけ口元を緩めた。
「では、森ではヴァンディルだ。お前が外へ出て、誰かがそう呼びたがるなら、ヴァンでもよい」
「外?」
「この森の外だ」
俺は枝の隙間から空を見た。
空はどこまでも続いているように見えたが、森が終わるということは、うまく想像できなかった。木のない場所がある。獣の匂いがしない場所がある。風が葉を鳴らさずに通る場所がある。
そんな場所は、少し変だ。
歩きやすそうではある。
でも、隠れるところが少なそうで、嫌な感じもする。
「外には何がある」
「人間がいる」
「俺と同じか」
「形はな」
「形だけ?」
「中身まで同じなら、世はもう少し楽だったろうな」
じっちゃんはそう言って、歩き出した。
俺は慌てて後を追った。じっちゃんの足音はほとんどしない。枯れ枝を踏んでも、枝の方が音を立てるのを遠慮しているようだった。
ずるい。
足が長いだけではない。何か別のことをしている。
俺は何度やってもそうは歩けなかった。そっと足を置いているつもりでも、落ち葉は鳴るし、小石は転がる。小さな虫が逃げ、鳥が顔を上げる。
じっちゃんは振り返らずに言った。
「鹿にも笑われる」
「鹿は笑わない」
「笑っている。お前にはまだ聞こえないだけだ」
「鹿に笑われるのは嫌だ」
「なら静かに歩け」
俺は悔しくなって、足に力を入れた。
それが間違いだった。
次の一歩で、俺は地面から飛び出した蔓に足を取られた。身体が前に傾き、両手をつく。泥と腐葉土の匂いが鼻に入った。
ぬるい。
口には入らなかった。そこは勝ちだと思った。
じっちゃんは、今度も起こしてくれなかった。
「なぜ転んだ」
「蔓があった」
「なぜ蔓に気づかなかった」
「見てなかった」
「なぜ見ていなかった」
「じっちゃんを追ってた」
「なら、わしだけ見ていたのが間違いだ」
俺は顔を上げた。
じっちゃんは、いつものように静かに立っていた。声を荒げることはない。怒っているのかどうかも、よく分からない。ただ、少しだけ楽しそうだった。たぶん、俺が泥を食わなかったのを見ている。
「森では、一つを見る者から死ぬ」
その言葉は、今でも覚えている。
じっちゃんは木々を指した。
「足元を見ろ。だが足元だけを見るな。枝を見ろ。だが枝だけを見るな。風を見ろ。だが風だけを見るな。音を聞け。だが音だけを信じるな」
「そんなに見られない」
「最初はな」
「じっちゃんは見られるのか」
「少しは」
じっちゃんの「少し」は、だいたい少しではなかった。
俺は立ち上がり、膝についた泥を払った。転んだ膝は少し擦りむけていたが、血はあまり出ていない。ひりひりする。痛いというより、皮膚が文句を言っている感じだった。
「もう一度だ」
じっちゃんが言った。
「どこまで」
「あの倒木まで」
倒木は、俺から見ればかなり遠くにあった。太い幹が苔に覆われ、根元には白い茸が生えている。白い茸はおいしそうに見えたが、じっちゃんが前に「それは食うな。舌がしばらく楽しいことになる」と言っていたので、見るだけにした。
舌が楽しいとは何だろう。
気になる。
でも、たぶん食ってはいけない。
俺は息を吸った。
森の匂いが入ってくる。
湿った土。古い葉。獣の通った跡。遠くの水。じっちゃんの衣に染みついた、乾いた木のような匂い。
足を上げる。
置く。
葉が鳴る。
「駄目だ」
じっちゃんの声が飛ぶ。
また上げる。
置く。
今度は小石が転がる。
「駄目だ」
腹が立った。
「じっちゃんは厳しい」
「森はもっと厳しい」
「森は喋らない」
「喋る。お前が聞けないだけだ」
「森の声、小さい」
「お前の足音が大きい」
それは少し納得した。
納得したが、腹は立つ。
じっちゃんは何でもそう言った。
風は喋る。木も喋る。土も喋る。獣の骨も、枯れた蔓も、流れの変わった川も喋る。
俺には、ほとんど聞こえなかった。
ただ、じっちゃんの声だけは聞こえた。
その日、俺は倒木まで十二回歩かされた。
一度目は転んだ。二度目は鳥を飛ばした。三度目は虫の巣を踏んだ。四度目は、頭上の枝に潜んでいた小さな猿に木の実を投げられた。
硬い実だった。
こつん、ではない。
ごつん、だった。
痛い。
俺は頭を押さえた。猿は枝の上で、こちらを馬鹿にするように鳴いている。あれはたぶん笑っていた。鹿は分からないが、猿は絶対に笑っていた。
五度目で、俺は怒ってその猿を追いかけた。
じっちゃんは止めなかった。
止めてほしかった気もする。
猿は速かった。枝から枝へ飛び、尻尾で身体をひねり、こちらを馬鹿にするように鳴いた。俺は木の根を蹴って跳び、幹に手をかけ、半分登りかけたところで足を滑らせた。
落ちた。
背中を打った。
息が詰まった。
空が枝の向こうで揺れた。
これは痛い。
さっきの膝とは違う。身体の中身まで驚いている感じだった。息を吸おうとしても、胸がしばらく言うことを聞かない。
猿が上から覗き込んでいた。じっちゃんも隣に立っていた。
「なぜ落ちた」
またそれか、と思った。
「猿を見てた」
「猿だけを見ていた」
「……うん」
「なら猿の勝ちだ」
俺は悔しくて、しばらく黙った。
猿に負けた。
強い獣に負けたならまだいい。猿だ。しかも小さい。木の実まで投げる。腹立たしい。だが、勝ちは勝ちだ。あいつは落ちず、俺は落ちた。
じっちゃんはしゃがみ、俺の胸に手を当てた。手は冷たかった。だが、触れられた場所から、ゆっくりと息が戻ってきた。
「ヴァンディル」
「何」
「悔しいか」
「悔しい」
「なら覚えろ」
じっちゃんは空を見た。
「悔しさは火だ。持つのはよい。だが抱いて眠るな。寝床が燃える。腹の中で燃やせ。足に回せ。目に回せ。手に回せ」
「燃えたら痛い」
「痛いだけなら、まだ使える」
「痛くない方がいい」
「それはそうだな」
じっちゃんは少し笑った。
「だが、痛くないものだけ選ぶと、だいたい腹が減る」
五つの俺には、よく分からなかった。
ただ、じっちゃんの言うことは、だいたい後から分かる。後から効く小言は厄介だ。だから俺は、その言葉も覚えておくことにした。
夕方になる頃、俺はようやく倒木まで歩けた。
まったく音を立てなかったわけではない。落ち葉は少し鳴ったし、途中で細い枝も踏んだ。それでも鳥は飛ばなかった。虫も逃げなかった。あの猿も、今度は木の実を投げてこなかった。
勝った、と思った。
いや、猿に勝ったのか森に勝ったのかは分からない。たぶん、どちらにも勝ってはいない。でも木の実は飛んでこなかった。なら、少し勝った。
倒木に手を置いた時、俺はひどく疲れていた。
足は重い。腹は減った。手のひらは泥だらけで、膝はまた擦りむけていた。足の裏も熱い。身体中が、小さな声で文句を言っている。
でも、嫌な感じではなかった。
じっちゃんは俺の後ろまで来ていた。
やはり足音はしなかった。
「少しは森に謝れる歩き方になった」
「森に謝るのか」
「騒いだのだからな」
「森は怒ってる?」
「森は怒らない。ただ、覚える」
じっちゃんはそう言って、倒木の苔に触れた。
「人間も似ている」
「怒らない?」
「怒る。すぐ怒る。すぐ忘れる。だが、忘れたふりをして覚えている」
「面倒だ」
「かなり面倒だ」
「俺も?」
「お前も人間だ」
「じゃあ面倒になるのか」
「なる」
「ならない」
「なる」
「ならない」
じっちゃんは、そこで少し笑った。
「ならば、ならぬように覚えろ。足元だけを見るな。一つだけを見るな。自分の腹の火だけを見るな。相手の足も、風も、逃げ道も、背中にいる者も見る」
「背中?」
「いつか、お前の後ろを歩く者がいるかもしれん」
俺は振り返った。
当然、誰もいなかった。
森の中には、俺とじっちゃんしかいない。あとは木と獣と、見えない虫と、風だけだ。
「誰が?」
「知らん」
「じっちゃんは?」
「わしは後ろなど歩かん」
「なんで」
「前の方が面白い」
「じゃあ俺も前がいい」
「そう言うと思った」
じっちゃんは立ち上がり、森の奥へ目を向けた。夕陽は枝葉に遮られ、森の下までほとんど届かない。ただ、遠くの霧だけが薄く金色になっていた。
俺はじっちゃんの横顔を見た。
その顔は、とても遠いものを見ているようだった。
山の向こうか。
森の外か。
それとも、俺にはまだ分からない昔のことか。
「帰るぞ、ヴァンディル」
「うん」
「腹は減ったか」
「減った」
「ならよい。明日は乳を飲め」
俺は顔をしかめた。
じっちゃんの言う乳は、いつも濃すぎる。喉の奥が熱くなり、腹の中で何かが暴れるような味がした。うまいかまずいかで言えば、まずい。だが、飲むと身体が走りたがる。そこがさらに困る。
「木の実がいい」
「木の実も食え」
「乳は嫌だ」
「大きくならん」
「もう大きい」
「まだ足りん」
「何に」
「知らん。だが足りん気がする」
じっちゃんはそう言って、俺の頭に手を置いた。
その手は軽かった。
冷たくて、長い指をしていた。
「お前は人間だ。短く生きる。だから、よく食え。よく転べ。よく覚えろ」
「転ぶのも?」
「転ばんと分からん地面もある」
「痛い」
「痛いだけなら、まだ使える」
「じっちゃん、それ好きだな」
「便利だからな」
俺は頷いた。
短く生きる、という言葉の意味は分からなかった。
じっちゃんが何年生きているのかも知らなかった。
森の外に、俺と同じ形をした者たちがたくさんいて、その者たちが俺を同じものとして扱わないことも知らなかった。
ただ、その夜。
俺はじっちゃんの後ろを歩きながら、できるだけ音を立てないようにした。
葉が一枚、足元で小さく鳴った。
じっちゃんは振り返らなかった。
怒られなかったことが、少しだけ嬉しかった。
お読みいただきありがとうございます




