プロローグ 岩の盾
新連載です。長期連載を予定しています。よろしくお願いします。
俺が最初に持った盾は、鉄ではなかった。
木でもない。
岩だった。
大森林の猪でも、もう少しまともな守り方をする。じっちゃんなら、きっとそう言っただろう。あの人は、俺が転ぶたびに「足より先に頭を使え」と言った。だがその日、俺たちに頭を使う余地はあまりなかった。
命令は単純だった。
前へ出ろ。
敵の矢を受けろ。
堀を埋めろ。
城門前の柵を壊せ。
そして、できれば死ぬな。
できれば、という言葉は命令書には書かれていなかった。だが奴隷兵団に出される命令とは、だいたいそういうものだった。死んでも困らない。生き残れば少し得をした気分になる。俺たちは、そういう値段の兵だった。
丘の上には、石造りの小さな砦があった。
大きな城ではない。だが、攻める側から見れば十分に面倒な造りをしていた。砦の前には浅い堀があり、その向こうに杭柵があり、左右の斜面には弓兵が伏せている。雨上がりの土は重く、足を取る。盾を持つ者は遅くなり、盾を持たぬ者は矢に抜かれる。
よくできた場所だった。
少なくとも、後ろにいる正規兵の隊長よりは、砦を守る者の方が頭を使っていた。
「正面から行かせる気かよ」
隣で、ドワーフのガルムンドが低く唸った。短い脚で泥を踏みしめ、太い腕で俺の盾を見上げている。
その盾は、ガルムンドが作った。
作った、というより、そこらの岩を削って取っ手をつけた。表面は粗く、形も少し歪んでいる。人間の盾職人が見れば鼻で笑うだろう。だが重さだけは立派だった。普通の兵なら、持ち上げるだけで肩を壊す。
「文句があるなら、もっと軽いのを作れ」
「あるわ。山ほどある。まずそれは盾じゃねえ。壁のかけらだ」
「なら役に立つ」
「お前が使うならな」
ガルムンドは吐き捨てるように言い、それから俺の革鎧を見た。
「その薄い革で矢を受けるなよ。修理する俺の手間が増える」
「矢は盾で受ける」
「全部は受けられねえ」
「なら避ける」
「お前と話すと、鍛冶の神が遠い目をする」
ガルムンドの後ろで、何人かの奴隷兵が笑った。乾いた笑いだった。
笑わなければ、膝が震えるからだ。
獣人もいた。エルフもいた。角のある山羊人、翼を縛られた鳥人、沼地の鱗人もいた。人間の兵は、俺たちをまとめて亜人奴隷と呼ぶ。俺も奴隷だったが、人間なので別の名で呼ばれることが多かった。
化け物。
森育ち。
大男。
隊長。
その日、俺の正式な役目は奴隷兵団の突撃隊長だった。偉いわけではない。最初に死にやすい場所へ置くための名前だ。
後ろの丘では、正規兵の旗が揺れていた。
奴らは動かない。
俺たちが矢を受け、堀を埋め、柵に穴を開けるまで待つ。穴が開けば、綺麗な鎧を着た連中が前へ出て、勝利を拾う。そういう段取りだった。
悪い段取りではない。奴隷兵を兵器として見るなら、理にかなっている。
ただし、兵器には背中がない。
兵は、背中を見る。
「ヴァン」
低い声がした。
振り返ると、狼の顔をした男がこちらを見ていた。ロガだ。牙を剥き、首輪の鉄を鳴らしている。灰色の毛は泥で汚れ、耳は伏せていた。
「行くならさっさと行け。止まってると、後ろの人間どもに槍で押される」
「怖いか」
俺が聞くと、ロガの耳がぴくりと動いた。
「俺が?」
「違う。後ろのやつらだ」
ロガは少しだけ目を細めた。獣の目は、人間の嘘より正直だ。
「臭う。全員、怖がってる」
「そうか」
「お前は臭わねえな」
「俺も怖いぞ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。矢は嫌いだ。刺さると痛い」
ロガは一瞬だけ黙り、それから喉の奥で笑った。
「お前、本当に変な人間だな」
よく言われる。
森の奥では、俺はそれほど変ではなかった。少し耳が短く、少し寿命が短く、少し力任せだと言われただけだ。外に出てから、人間というものは思ったより面倒な生き物だと知った。
そして、俺自身もその面倒な生き物の一種らしかった。
「突撃準備!」
後方から命令が飛んだ。
奴隷兵たちの肩が硬くなる。首輪が鳴り、鎖が鳴り、槍の穂先が揺れた。
砦の上では、敵兵が弓を構えている。まだ撃ってこない。距離を測っている。よく訓練された弓兵だ。こちらが堀の手前で足を取られた瞬間を狙うだろう。
俺は長柄の戦斧を握った。
これは敵将から奪ったものだ。名は知らない。元の持ち主は立派な鎧を着ていた。斧も立派だった。だから貰った。奴隷兵団にまともな武器は回ってこない。欲しければ、敵から取るしかない。
俺は岩盾を持ち上げた。
重い。
当然だ。岩だからな。
肩に重さが乗り、足の裏が泥へ沈む。息を吸うと、鉄と雨と獣の臭いが肺に入った。森とは違う臭いだ。森の臭いには、もっと湿った命が混ざっていた。戦場の臭いには、乾いた恐怖が混ざる。
「ヴァン、足元を見ろ」
ガルムンドが言った。
「右は沈む。左の方がまだ硬い。だが左は矢が来る」
「なら左だ」
「話を聞け。矢が来ると言った」
「沈むよりましだ」
「普通は逆だ」
「俺は普通じゃないらしい」
「知ってるよ、馬鹿」
その声には、呆れと、ほんの少しの信頼があった。
俺は前を見た。
堀。杭。斜面。弓兵。城門。泥。風。矢羽根の角度。砦の石壁に跳ねる雨の跡。
じっちゃんは、森では道を見るなと言った。
道は獣が作るものだ。
風を見ろ。
枝を見ろ。
踏まれていない草を見ろ。
逃げるものがどこへ逃げたいかを見ろ。
殺すものがどこで待つかを見ろ。
なら、戦場も同じだ。
敵が殺したい場所がある。
味方が死にたくない場所がある。
その間に、まだ誰も踏んでいない道がある。
俺は岩盾の取っ手を握り直した。
「俺の背中より前に出るな」
近くの奴隷兵たちがこちらを見る。
「死ぬなら、俺の後にしろ」
ロガが牙を見せた。
ガルムンドが舌打ちした。
遠くで、口の達者なエルフの射手が笑った気配がした。たぶん後で「それ、励ましているつもり?」と言うだろう。
後方から角笛が鳴った。
突撃の合図。
俺は走った。
岩盾が風を押し、泥が跳ねた。最初の数歩で、背後の息が乱れるのが分かった。奴隷兵たちはまだ迷っている。命令で足を出している。恐怖で足を止めようとしている。
それでいい。
最初は、俺だけでいい。
砦の上で弓弦が鳴った。
矢が降る。
俺は盾を斜めに上げた。乾いた音が連続して響き、岩の表面で矢が砕けた。何本かは肩をかすめ、一本は革鎧の端を裂いた。痛みが走る。
痛い。
だが、痛いだけだ。
左へ踏み込む。泥は浅い。ガルムンドの言った通りだ。足裏が硬い地面を掴む。前方の堀まで十歩。次の矢が来る。弓兵の呼吸が見える。いや、見えるわけではない。だが風が弓弦の震えを運んでくる。
俺はさらに速く走った。
堀の手前で、敵の槍兵が笑った。
大盾を持った大男が、泥に足を取られて止まると思ったのだろう。
俺は止まらなかった。
堀の縁に足をかけ、岩盾を前へ突き出す。重さを殺さず、むしろ重さに身体を乗せた。杭柵に盾がぶつかり、腕の骨が軋む。杭が折れ、泥が跳ね、敵兵の顔から笑いが消えた。
いい顔だ。
恐怖で歪んだ顔ではない。
自分の計算が外れた顔だ。
俺はその顔が嫌いではない。戦場で会う敵の顔だ。互いに殺すために考え、外れれば死ぬ。そこに遊びはない。
戦斧を振る。
一人目の槍兵が倒れた。二人目は盾ごと押し潰した。三人目は逃げようとしたが、ロガが横から飛びかかった。
いつの間にか、背後の足音が増えていた。
奴隷兵たちが走っている。
命令ではない。
俺の背中を追っていた。
それを聞いた瞬間、胸の奥に熱いものが灯った。怒りではない。喜びでもない。もっと重いものだ。背中に乗った命の重さだった。
俺は吠えた。
言葉ではなかったと思う。
砦の前で、敵兵の列が揺れた。こちらはまだ少ない。装備も悪い。首輪をつけた奴隷兵だ。だが、先頭に俺がいて、その後ろにロガがいて、さらに後ろにガルムンドの罵声が続いた。
「足を止めるな! 盾の右を抜けろ! 馬鹿ども、死にたくなきゃヴァンの開けた穴を広げろ!」
矢が降る。
泥が跳ねる。
叫びがぶつかる。
俺は前へ出た。
敵陣の中には、いつもひどく静かな場所がある。周りでは怒号が渦巻いているのに、自分の足元だけが妙に澄む。森の深い場所に似ている。大きな獣と向き合った時、風の音だけが残るあの感じだ。
俺はそこで、生きていると思う。
そして同時に、俺の後ろで誰かが生きようとしていることを知る。
だから、前へ出る。
王になりたいと思ったことは、その頃まだなかった。
国など知らなかった。
玉座も、冠も、血筋も、神の承認も、俺には何の意味もなかった。
ただ、その日。
岩の盾を持った奴隷兵の背中を、何十もの足音が追ってきた。
俺が最初に得た忠誠は、誓約書に書かれたものではない。
神殿で授けられたものでもない。
血から生まれたものでもない。
泥と矢と恐怖の中で、誰かが一歩を踏み出した音だった。
俺はその音を、今でも覚えている。
お読みいただきありがとうございます。




