第5話 大角の弓
雨は、三日でやむと思っていた。
四日目も降った。
五日目も降った。
六日目の朝、俺は寝床の中で膝を抱えながら、雨の音を聞いていた。葉を叩く音、根を伝う音、泥の中に落ちる音。全部、水だ。水は飲めるから大事だが、上からずっと落ちてくると少し面倒になる。
歩けないわけではない。
アーヴェルナでは、雨の日でも獣は動く。魔獣も動く。虫はむしろ元気になる。俺だけが雨に濡れたくないなどと言っても、森は聞いてくれない。
ただ、無理に進むと、次の日の俺がかなり困る。
火口は湿る。足跡は泥に深く残る。袋は重くなる。根は滑る。滑った先にあるものが土ならまだいい。石だと痛い。棘だともっと痛い。変な虫の巣だと、痛いだけでは済まない。
だから俺は、しばらくこの場所に腰を下ろすことにした。
腰を下ろすと決めると、やることは増えた。
寝床の屋根は、雨を半分以上防いでいる。半分以上だ。悪くない。だが、半分近くは入ってくる。入ってくる水は、寝ている間に首筋へ落ちてくる。あれはよくない。かなり目が覚める。
俺は枝を組み直し、大きな葉を重ね、牙猪の皮を斜めに張った。張り方を変えると、水が流れる。流れる先を間違えると、寝床の下が泥になる。最初はそうなった。
「違う。そこじゃない」
水に言っても仕方ないが、言いたくなることはある。
二度目は、根の外側へ水が落ちた。
俺はしばらくそれを見ていた。
雨が俺の寝床を避けていく。
いい。
これはかなりいい。
火も守った。根の間に浅い穴を掘り、濡れにくい枝を組み、火口を牙猪の脂を薄く塗った葉で包む。煙は少し多いが、消えない。消えない火は偉い。火が偉いというより、火を消さなかった俺が少し偉い。
そう思うと、腹も少し温かくなる。
次は袋だった。
牙猪の皮袋は丈夫だが、重い。臭い。濡れるとさらに重い。木の実と薬苔を入れるにはいいが、水まで入れると肩が文句を言う。
俺は皮の端を削り、首刈り兎の腱糸で縫い目を締め直した。縫い目に牙猪の脂を擦り込み、乾いた灰を少し混ぜる。じっちゃんに習ったやり方だ。水を完全に止めるわけではないが、少し弾く。
少し弾く。
この少しが大事だ。
少し濡れないだけで、次の日の薬苔が駄目にならない。少し軽いだけで、根を飛び越える時に足が上がる。少し火が残るだけで、夜に肉を焼ける。
森では、大きな勝ちより、小さな負けを減らす方が長く生きる。
じっちゃんはそう言っていた。
その時の俺は、大きく勝つ方が楽しいと思っていた。今でも少し思う。だが、雨の中で湿った枝を削っていると、じっちゃんの小言はだいたい後から効いてくる。
正しい小言は、少しずるい。
雨の弱い日には、拠点の周りを歩いた。
遠くへは行かない。
戻る道を失えば、拠点を作った意味がない。俺は太い根に小さな傷をつけ、匂いの強い葉を折り、目印にした。森では、同じ木に見えるものほど同じではない。だが、慌てている時には同じに見える。
慌てている時の自分は、あまり信用しない方がいい。
最初に取ったのは、樹皮蟹だった。
倒木の裏に、樹皮そっくりのものが貼りついていた。近づくまで分からなかった。俺が指でつつこうとした瞬間、細い鋏が飛び出して、枝を折った。
ぱきん、といい音がした。
俺の指だったら、たぶんいい音では済まない。
「お前、蟹か」
蟹は答えない。
答える蟹は嫌だ。
樹皮蟹は、木の皮と泥を背負って隠れる。鋏は小さいが強い。脚も速い。普通の人間なら、指を持っていかれるか、足首を挟まれて転び、そのまま別のものに食われるかもしれない。
俺は長い枝で鋏を誘い、挟ませた。蟹が枝を折る。その間に横へ回り、山刀の背で甲を叩いた。硬い。もう一度叩く。割れない。三度目でひっくり返った。
腹側は柔らかかった。
肉は少なかった。
味も、まあ、少なかった。
ただ、甲殻は使えた。
洗って乾かすと、浅い皿になった。火に直接かけると割れそうだが、熱い石を入れれば水を温められる。縁を削れば、腕当てにもできる。
俺は左腕に合わせてみた。
少し大きい。
腱糸で縛ると、ずれた。
もう一度縛る。
まだずれる。
三度目で、まあまあになった。
腕を振ると、かたかた鳴る。
うるさい。
だが、骨刃くらいなら少し防げそうだ。
俺は腕を何度か振り、音を聞いた。
かたかた。
かたかた。
「……悪くない」
少しうるさいが、悪くない。
次に役に立ったのは、火脂鼠だった。
鼠といっても、俺の知っている鼠より大きい。丸い。濡れた毛の下に脂が多く、雨の日でも巣の中で火のような匂いを出す。もちろん本当に燃えているわけではない。燃えていたら、ただの危ない鼠だ。
火脂鼠はすばしこい。
一度目は逃げられた。
二度目も逃げられた。
三度目は、俺が仕掛けた骨刃の罠を横から避けた。
かなり賢い。
四度目、俺は罠を仕掛けたふりをして、逃げ道の方に細い蔓を張った。鼠は罠を避け、蔓に引っかかり、根の隙間に頭から突っ込んだ。
尻だけ出ていた。
俺は尻を掴んだ。
鼠は怒った。
かなり怒った。
噛まれた。
痛い。
だが、取れた。
火脂鼠の脂は、火口に混ぜるとよく燃えた。牙猪の脂より軽く、匂いも少し甘い。葉に薄く塗れば水を弾く。塗りすぎると、虫が寄ってくる。
虫はだいたい余計だ。
俺は塗りすぎないことを覚えた。
こうして、拠点は少しずつ便利になっていった。
寝床は濡れにくくなった。
火は消えにくくなった。
袋は破れにくくなった。
腕当てができた。
骨刃の小刀は、だいぶ手に馴染んだ。
干し肉も増えた。
牙猪の肉は硬いが、干すとさらに硬い。噛んでいると、顎が仕事をしている気分になる。仕事熱心な顎だ。嫌いではない。
雨の弱い午後、俺は細い枝を曲げていた。
弓を作ろうとしていた。
弓の作り方は、じっちゃんに教わったことがある。
ただし、教わったことがあるのと、うまく作れることは違う。そこは、かなり違う。
「弓は曲がる棒ではない。戻る棒じゃ」
じっちゃんはそう言った。
「戻る棒?」
「そうじゃ。曲げたら戻る。戻る時に矢を連れていく。曲がるだけの棒は、ただ曲がった棒じゃ。戻りすぎる棒は、自分の手を殴る」
「手を殴るのか」
「下手な弓は、敵より先に自分を殴る。礼儀がなっとらん」
じっちゃんはそう言って、俺が作ったひどい弓を見て笑った。
その弓は、本当に俺の手を殴った。
少し悔しかった。
今作っている弓も、あまり礼儀はよくなかった。
細い枝は曲がる。
だが、戻りが弱い。
別の枝はよく戻る。
だが、曲げると割れた。
三本目は弦を張った瞬間、ぱんと鳴って顔の横を叩いた。
「お前もか」
俺は折れた枝を見た。
枝は答えない。
答えられても困る。
首刈り兎の腱糸を細く撚れば弦にはなる。だが、枝が負ける。アーヴェルナの木は強いものも多いが、弓に向く木を探すのは簡単ではない。
俺は折れた枝を火にくべた。
燃えるなら、それはそれで役に立つ。
拠点の近くには、白っぽい若木が何本か生えていた。
葉は細く、根は地面の上に浅く浮いている。根の匂いは少し甘い。雨の日には、その匂いが強くなる。
俺はその根には近づきすぎないようにしていた。
知らないものには近づきすぎるな。
じっちゃんの教えだ。
ただ、拠点の場所としては悪くなかった。根が浮いているせいで地面が少し高く、水が溜まりにくい。枝も重なり、雨を弱めてくれる。
だから俺は、その場所を使っていた。
それが何の根なのか。
何がそれを食うのか。
その時の俺は、まだ知らなかった。
ある朝、少し離れた場所で、若木が一本消えていた。
正しく言うと、木があったはずの場所に穴が空いていた。
根ごと抜かれている。
土は新しい。根の細い部分が千切れ、白い汁が泥に混ざっていた。周りには、蹄の跡があった。大きい。牙猪より大きい。深い。かなり重い獣だ。
俺はしばらく跡を見た。
近くにいる。
そう思った。
だが、すぐには姿を見なかった。
その日は、遠くで一度だけ、木が軋むような音を聞いた。
次の日も、別の若木が一本なくなっていた。
俺は拠点の周りを調べ直した。
白い若木は何本もある。
そのいくつかの根元に、古い傷があった。齧られた跡ではない。こじられ、引かれ、裂かれた跡だ。大きな力で、根ごと持っていこうとした跡。
ここは、何かの飯場かもしれない。
そう思った。
思ったなら、すぐ離れるべきだったのかもしれない。
だが、雨は続いていた。火口も干し肉も、皮も道具も、まだここにある。拠点は便利になっていた。別の場所へ移るには荷が多い。
それに俺は、その何かの姿をまだ見ていなかった。
見ていないものを、見た気になって怖がるな。
それも、じっちゃんの教えだ。
だから俺は、警戒を強めて、もう少しだけ残ることにした。
もう少しだけ。
その言葉は、森ではたまに危ない。
夕方だった。
雨は細くなっていた。拠点の火はまだ生きていて、濡れた枝の隙間から細い煙を吐いている。俺は火のそばで、首刈り兎の骨刃の柄を巻き直していた。腱糸は濡れると少し伸び、乾くと締まる。巻き方を間違えると、手の中で刃がずれる。ずれる刃は、自分の手を切る。
その時、音がした。
木が折れる音ではなかった。
木が、地面から嫌々引き抜かれる音だった。
俺は山刀を取った。火の横に置いていた樹皮蟹の腕当てを左腕に縛り、音の方へ腹を低くして進む。雨で根は濡れ、苔は黒くなっていた。足を置く場所を一つ間違えれば、音が出る。音が出れば、こっちを見られる。こっちを見られた時に何が起きるかは、まだ分からない。
分からないものは怖い。
怖いが、見ないまま背を向けるのも怖い。
俺は風下へ回り、白い若木の陰から覗いた。
山羊に似た獣がいた。
じっちゃんの木板に描かれていた山羊に、少しだけ似ていた。ただし、その絵の山羊は若木を根ごと抜いたりしない。
肩までの高さは俺より少し低い。だが、幅がある。首が太い。肩が盛り上がっている。前脚が地面を踏むたび、根が軋んだ。
頭には、大きすぎる角があった。
太く、長く、前へねじれ、横へ張り、また前へ曲がる。角というより、二本の曲がった木の幹だった。黒い表面には白い傷がいくつも走り、雨水がその溝をゆっくり流れている。
角の獣は、その大きすぎる角を白い若木の根元に差し込み、首をひねった。
根が浮いた。
木が傾く。
さらに獣が押すと、若木が根ごと抜けた。
俺は息を止めた。
あの角は、刺すためだけのものではない。押す。抉る。こじる。地面ごと剥がす。若い木を抜く力があるなら、人間の腹など木の皮より簡単に裂ける。
戦う相手ではない。
俺は下がった。
その判断は、たぶん間違っていなかった。
ただ、足元の苔が思ったより滑った。
小さな音がした。濡れた根を、踵が擦っただけの音だ。雨の音に紛れる。普通なら、そうだった。
角の獣の耳が動いた。
黒い目が、こちらを向いた。
怒っているようには見えなかった。ただ、見た。そこに異物がいると知った。白い根を食っている場所に、俺がいると知った。
その瞬間、獣の前脚が沈んだ。
来る。
俺は走った。
一歩目から全力だった。根を蹴り、枝を掴み、身体を横へ投げるようにして進む。後ろで地面が鳴った。重いものが、雨で柔らかくなった地面を叩きつける音。近い。思ったより近い。
振り返るな。
じっちゃんなら、そう言う。
だが、振り返らないと死ぬ気がした。
俺は肩越しに見た。
角の獣は、避けていなかった。根も、若木も、倒木も、邪魔なものとして扱っていない。全部、踏む。砕く。押しのける。角が低い枝を砕き、折れた枝が俺の背中を打った。痛い。痛いが、背中でよかった。首なら終わっていた。
拠点が見えた。
俺の足は、勝手にそこへ向かっていた。火がある。罠がある。道具がある。自分で歩いた場所だから、根の高さも泥の深さも覚えている。
ただ、その分、獣もまっすぐ来た。
俺は拠点の手前で横へ跳んだ。
遅かった。
角の先が、脇腹をかすめた。
革が裂け、皮膚が熱くなる。次の瞬間、俺の身体は根の上を転がっていた。息が出ない。口が開いているのに、息が入ってこない。目の端で、拠点の屋根が吹き飛ぶのが見えた。牙猪の皮が引き裂かれ、干し肉が泥に落ち、試作弓が獣の蹄の下で折れた。
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
今のは死んでいた。
半歩。いや、足の指一本分でも遅ければ、腹が開いていた。
はっきり怖かった。腹の奥は冷えているのに、目だけは妙に冴えていた。雨粒が角の表面を流れる筋まで見える。獣の右前脚が、少しだけ外へ開いている。さっき白い根をこじった時の癖か、元からか。蹄の内側に泥が詰まっている。首を振る前に、肩が先に沈む。突っ込む時、左の角がわずかに下がる。
見える。
心臓がうるさい。だが、耳は澄んでいる。息は荒い。だが、身体は次に跳ぶ場所を探している。
怖いのに、身体の奥が熱かった。
死にかけている。
腹も痛い。肩も痛い。俺の拠点は壊された。ここで転べば、次はない。
それなのに、身体のどこかが前よりよく動く。火脂鼠の脂を火にくべた時みたいに、じわっと燃える。じっちゃんの前で初めて猿の実を避けきった時の感じに少し似ていた。あの時より、ずっと怖い。ずっと危ない。だから、もっと冴える。
角の獣が向きを変えた。
速い。
巨体のくせに、向き直りが速い。前脚で泥を掻き、首を低くする。俺は火のそばへ転がるように走った。火脂鼠の脂を染み込ませた葉を掴み、火に突っ込む。甘い焦げ臭さと煙が立つ。
獣の鼻が動いた。
一瞬、突進の線が乱れる。
一瞬だけ。
十分だ。
俺は煙を獣の顔へ投げつけ、横へ跳んだ。角が俺のいた場所を通り過ぎ、火の囲いを砕いた。火の粉が散る。熱が頬を打つ。火が消える。暗くなる。
だが、目はもう暗さに慣れ始めていた。
俺は首刈り兎の骨刃を差した罠の方へ走った。小型の獣を転ばせるために作った罠だ。あの角の獣を止めるには細すぎる。分かっている。止まらなくていい。
乱れればいい。
獣が来る。
雨の中で、巨体が近づく音がする。根を踏む音、泥を蹴る音、鼻から抜ける荒い息。俺は腱糸の向こうに立った。ぎりぎりまで引きつける。
足が逃げたがる。
逃げるな。
まだだ。
まだ。
角が届く。
俺は跳んだ。
角の獣の前脚が腱糸を引っかけた。糸は即座に悲鳴を上げて切れた。だが、その前に、泥に仕込んでいた骨刃が跳ねた。白い刃が雨を弾き、獣の前脚の内側を裂く。
血が飛ぶ。
浅い。
しかし、獣の脚が半歩ずれた。
その半歩で、角が俺の胸ではなく、左腕をかすめた。樹皮蟹の腕当てが砕ける。破片が飛び、腕に痛みが走る。腕がなくなったかと思った。
あった。
動く。
なら、まだ使える。
俺は根の上を転がり、すぐ立った。立った瞬間、膝が抜けかけた。泥を踏んだ。滑る。転びそうになる。獣の次の突進が来る。
間に合わない。
俺は転ぶ方を選んだ。
自分から泥へ倒れ込み、角の下をくぐる。頭の上を、黒い角が通った。髪が引かれた。少し持っていかれた気がする。痛い。だが、頭は残った。
俺は笑っていた。
笑う場面ではない。
でも、笑っていた。
怖い。痛い。死にたくない。
だが、まだ生きている。
まだ見える。
まだ動く。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
俺は白い若木の根が浮いた場所へ走った。昨日、水を流す溝を掘った時、そこの下が緩いことは知っていた。足場としては悪い。悪い足場は、逃げる時には敵だ。
追わせる時には、味方になる。
角の獣は俺を追った。
前しか見ていない。
いや、俺しか見ていない。
それが怖くて、ありがたかった。
俺は白い若木の根を飛び越えた。獣は避けない。角を下げ、根元へ突っ込む。鈍い音がした。角が根の間に深く食い込む。若木が悲鳴のような音を立てた。
獣は止まらない。
そのまま首をひねり、木ごと俺を払おうとする。
根が浮く。
土が割れる。
地面が、獣の力に負ける。
だが、その下は雨で緩んでいた。
前脚が沈んだ。
今だ。
俺は横から飛びついた。
角は太すぎて、握るというより抱えるしかなかった。濡れて滑る。力が強い。獣が首を振るたび、俺の身体が宙に浮く。肩が根に叩きつけられ、視界が白くなる。手が離れそうになる。
離したら、次の角で終わる。
俺は歯を食いしばり、両腕と胸で角にしがみついた。足を泥に突っ込み、全体重をかけて首を横へ押す。力比べでは勝てない。勝てないが、獣の前脚は沈んでいる。角は根に食われている。今だけなら、全部の力が同じ方向へ向いていない。
その隙間に、俺の力をねじ込む。
角の獣が吠えた。
少なくとも、じっちゃんが教えてくれた山羊は、こんな声を出すものではなかった。
俺の耳の奥が震える。足の泥が跳ねる。首が持ち上がる。身体が引き剥がされる。
俺は離された。
地面へ落ちる。
獣の蹄が来る。
俺は左へ転がった。蹄が肩のすぐ横の泥を潰す。泥が顔にかかる。目が片方塞がる。右目だけで見る。山刀を探す。手が柄に触れる。
脚だ。
さっき骨刃で裂いた脚。
あそこしかない。
俺は泥の中を低く走った。走るというより、転がりながら進んだ。獣の身体の下へ入るのは怖い。怖いどころではない。上から落ちてくる体重だけで死ぬ。
でも、外から首は切れない。
俺は山刀を両手で握り、血の出ている前脚の裏側へ叩き込んだ。
浅い。
足りない。
もう一度。
今度は、硬いものを越えて、柔らかいものに入った。
獣の脚が崩れた。
俺は潰される前に抜けようとした。だが、山刀が抜けない。一瞬、刃が肉に噛まれた。
置いていけ。
そう思った。
でも、手は離さなかった。
山刀を捨てたら、次がない。
俺は叫び、柄を引いた。刃が抜ける。同時に、角の獣の身体が泥に落ちた。地面が揺れ、泥が跳ね、俺の背中を重い風が押した。
まだ終わっていない。
獣は前脚を失っても、首を振る。角が泥を抉る。近づけば裂かれる。俺は息を吸った。肺が痛い。脇腹も痛い。腕も震える。
楽しいなどと思っている場合ではない。
だが、まだ楽しかった。
どうしようもない。
目の前に、死がある。
俺の身体は、その死の形を見ている。角の軌道。首の沈み。残った脚の踏ん張り。泥の深さ。雨の流れ。山刀の重さ。俺の息の残り。
全部が、今だけはっきりしている。
俺は獣の背後へ回った。
待つ。
角が右へ振れる。
待つ。
首が戻る。
そこだ。
俺は踏み込んだ。
首筋の、硬い毛の下にある柔らかい場所へ刃を入れる。一度では足りない。二度目。血が吹く。三度目。獣の身体が大きく震えた。
俺はすぐ離れた。
角の獣は、最後にもう一度だけ首を振った。
角が空を裂いた。
その先に俺がいたら、死んでいた。
だが、俺はいなかった。
獣の身体から力が抜けた。
雨の音が戻ってきた。
俺は泥の上に座り込んだ。
しばらく、何もできなかった。
息を吸う。
入る。
吐く。
出る。
生きている。
俺は自分の腹を触った。裂けていない。脇腹は切れている。肩は痛い。腕は動く。膝も動く。頭もたぶんある。
俺は角の獣を見た。
でかい。
強い。
怖かった。
そして、すごかった。
あんなものが、森にはいる。
あんなものと、俺は戦った。
勝ったというより、生き残った。
でも、生き残ったなら、俺の勝ちでいい。
俺は笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
後に、外の猟師がこの獣を大角山羊と呼ぶのを聞いた。
その名だけは、かなり正直だと思った。
大角山羊は、アーヴェルナの山羊だ。外の家畜とはまるで違う。白根木の根を好み、縄張り意識が強く、餌場に入った異物を見つけると、動かなくなるまで追ってくる。逃げれば助かることもあるらしい。だが、餌場の近くで目をつけられたら、普通は助からない。
あの時の俺は、その名も、生態も知らなかった。
知らなかったから、あの根場のそばに寝床を作った。
知らなかったから、見つかるまで残った。
森では、知らないことも牙になる。
それから俺は、獣の死体と壊れた拠点の間でしばらく座っていた。
壊れた寝床。
泥に落ちた干し肉。
割れた腕当て。
折れた試作弓。
消えた火。
そこに、俺が作ったものが散っていた。
少し前まで、それは俺の場所だった。
じっちゃんの家とは違う。小さくて、不格好で、雨も少し入った。それでも、俺が作った場所だった。
俺は泥のついた干し肉を拾った。
泥を払う。
少し食えそうだ。
食えそうなら勝ちだ。
俺はそう思うことにした。
けれど、その場所に居続ける気にはならなかった。
ここは、大角山羊の餌場だった。あれが一匹だけとは限らない。血の匂いも濃い。夜になれば、別のものが来る。
動けるうちに、少し離れた方がいい。
そう判断した。
すぐ遠くへは行けなかった。
脇腹は切れている。左腕は痺れている。肩は腫れている。膝も少しおかしい。無理に歩けば、次の日の俺がかなり怒る。いや、怒るだけならいい。動けなくなるかもしれない。
俺は白い若木の根場から離れ、太い黒根が絡んだ高い場所へ仮の寝床を移した。
荷物は少しずつ運んだ。
一度に持つと、脇腹が痛んだ。
痛い。
だが、痛いだけならまだ動ける。
火口を移し、使える干し肉を拾い、山刀を洗い、壊れた腕当ての破片も拾った。破片は破片で使える。割れたものは、終わりではない。小さくなっただけだ。
それから、大角山羊を解体した。
肉は多い。
皮も厚い。
腱も太い。
骨も使える。
だが、全部は持てない。
持とうとしたら、俺が荷物に負ける。
俺は必要なものを選んだ。
肉は干せるだけ。
皮は使える分だけ。
腱は長く取れる分だけ。
それから、角。
大角山羊の角は重かった。
切り離すだけで時間がかかった。山刀の刃が何度も滑り、手が疲れた。片方を外した時点で、俺は一度寝転がりたくなった。
寝転がると、本当に寝そうだったのでやめた。
角を手に取る。
硬い。
重い。
だが、ただ硬いだけではない。
先の方を押すと、ほんの少ししなる。押した力を嫌がるように、ゆっくり戻る。
戻る。
俺は、じっちゃんの声を思い出した。
弓は曲がる棒ではない。
戻る棒だ。
俺は角を見た。
次に、首刈り兎の腱糸を見た。
細いのに強い糸。
何度も俺の袋を助けた糸。
それから、大角山羊の太い腱を見た。
さらに強い。
ただし、太くて扱いにくい。
首刈り兎の腱糸だけでは足りない。大角山羊の角に負ける。大角山羊の腱だけでは太すぎて、指にも弓にも逆らいすぎる。牙猪の腱もある。樹脂もある。脂も、灰も、乾いた根材もある。
組み合わせれば、使えるかもしれない。
俺は少し笑った。
「弓になる」
声に出すと、身体の奥が少し熱くなった。
大角山羊に拠点を壊された。
その大角山羊の角で、弓を作る。
これは、かなりいい。
弓作りには数日かかった。
壊れた拠点を完全に直す気にはなれなかった。場所がもう危ないと分かったからだ。だから、少し離れた高根の上に仮の寝床を作った。雨を避けるだけの屋根をかけ、火を戻し、肉を干し、血の匂いを少しでも散らすために苦い葉を燃やした。
傷は痛んだ。
特に脇腹は、息を深く吸うと熱くなる。左腕は力を入れると少し震えた。膝も、根を踏み上がる時に遅れる。
だが、手は動く。
目も見える。
なら、作れる。
角は硬い。
山刀だけでは時間がかかる。首刈り兎の骨刃で細かく削り、石で擦り、火で少し温め、また削る。削りすぎれば弱くなる。削らなければ重い。
難しい。
だが、難しいものは、うまくいき始めると楽しい。
俺は二本の角を短く整え、硬い根材を握りにした。角と根材を合わせ、首刈り兎の腱糸を芯にして締める。その上から、大角山羊の腱を裂いて薄く伸ばしたものを重ねた。牙猪の腱で補強し、樹脂を塗り、火の近くでゆっくり乾かす。
じっちゃんに習ったやり方を、全部そのままはできなかった。
材料が違う。
道具も違う。
手も、あの頃より大きい。
だから、少し変えた。
一度目は、弦を張る前に片側がずれた。
二度目は、張った瞬間、握りが鳴った。
危ない音だった。
俺はすぐ弦を外した。
三度目。
弦を張る。
大角山羊の角が、ゆっくり曲がる。
首刈り兎の腱糸を芯にした弦が鳴る。
俺は息を止めた。
折れない。
戻る。
俺は弓を握った。
短い。
重い。
外の弓兵が使うような、きれいな弓ではない。きっと遠くへ正確に飛ばすものでもない。
だが、強い。
引いてみる。
重い。
かなり重い。
脇腹が痛む。左腕が震える。肩の奥が嫌な熱を持つ。それでも、弦は引けた。
俺の腕なら引ける。
矢は、硬い枝を削って作った。先には首刈り兎の骨刃の欠片をつけた。真っ直ぐな矢を作るのは難しい。少し曲がる。飛ぶと変な顔をする。矢に顔はないが、変な顔をしている気がした。
それでも一本、かなりましなものができた。
俺は仮の寝床から少し離れ、太い幹を狙った。
弦を引く。
重い。
肩が張る。
背中が熱くなる。
指が痛い。
でも、引ける。
放つ。
矢が飛んだ。
短い音がした。
幹に刺さった。
深い。
俺が思っていたより、ずっと深い。
俺はしばらく、その矢を見ていた。
雨の匂い。
泥の匂い。
壊れた拠点。
大角山羊の骨。
首刈り兎の腱。
じっちゃんの声。
全部が、弓の中に少しずつ入っている気がした。
「これはいい」
俺は言った。
今度は、かなり素直に言った。
もちろん、完成ではない。
握りは少し太い。弦もまだ馴染んでいない。濡れたらどうなるか分からない。何度も引けば、どこかが鳴るかもしれない。
だが、使える。
今の俺には、それで十分だった。
壊れたものは多かった。
寝床は壊れた。
干し肉は減った。
腕当ても割れた。
試作弓は踏まれた。
だが、俺の手には大角の弓があった。
作ったものは、ずっと残るわけではない。
壊れる。
濡れる。
踏まれる。
角で吹き飛ばされる。
だが、壊した相手から、次の道具を作れることもある。
俺は大角の弓を背負った。
少し重い。
脇腹に響く。
だが、この重さは嫌いではなかった。
大角山羊に拠点を壊された。
その代わり、大角山羊の角を持っていく。
そう考えると、少し楽しくなった。
雨はまだ完全にはやんでいない。
森の外は、まだ遠い。
だが、俺はもう、ただ歩くだけではない。
止まることを覚えた。
作ることを覚えた。
壊されても、また作れることを少し覚えた。
そして、死にかけた時ほど、自分の目がよく見えることも知った。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ、俺は生きている。
生きていて、この弓を引ける。
それは、かなり良いことだった。
俺は火のそばで、大角の弓の弦をもう一度だけ鳴らした。
低い音がした。
悪くない。
かなり、悪くない。




