第五章 圧力の形
六月、正式な通達が来た。
会社として、米国規格に段階的に対応する。第一段階として、設計書の様式を米国基準に統一する。第二段階として、主要な安全系の設計を見直す——そういう内容だった。
山下は通達を読んで、もう一度読んだ。
第二段階の「見直す」という言葉が、引っかかった。
見直す、というのは変える、ということではない。検討する、ということだ。でも第一段階が終われば、第二段階への圧力は強くなる。その頃には、戻るのが難しい状態になっている。
よく出来た文書だ、と山下は思った。
誰かが、逃げ道を作りながら進む方法を、丁寧に設計している。
中村が入ってきた。
「山下さん、通達読みました」
「そうか」
「これ、結局米国市場向けの基準に合わせることになるんですよね」
山下は中村を見た。入社四年目。まだ現場の設計を覚えている最中だ。
「そうなるかもしれない」
「なぜ止められないんですか」中村の顔に、怒りがあることに山下は気づいた。「技術的に問題があると分かっているのに」
「中村」
「はい」
「お前は今、何が一番大事だと思っているか」
中村は少し驚いた顔をした。
「安全です」
「そうだ」山下は言った。「でも経営判断をする人間にとっては、市場が大事だ。競争力が大事だ。産業全体が大事だ。安全も大事だが、他のものと比較される」
「比較されるんですか。人の命が」
山下は答えなかった。
答えられなかった。
「中村、お前に頼みたいことがある」
「何ですか」
「設計変更の過程を、全部記録しておいてくれ。どこが変わって、なぜ変わって、変わる前と後で何が違うか。全部だ」
中村は山下を見た。
「それは何のために」
「未来のためだ」山下は言った。「今は使えないかもしれない。でも記録は残る」
中村は少し考えた。
「分かりました」
「ありがとう」
中村が出て行った。
山下は通達を引き出しにしまった。
田所の言葉が戻ってきた。
設計した人間と、現場の人間が、同じことをしている。
今度は中村も加わった。
変えられなくても、記録する。記録し続ける。
それが今、自分たちにできる唯一のことだった。
*
七月の終わり、坂本から電話が来た。
「山下さん、少しお時間いただけますか。こちらから伺います」
霞が関の官僚が、わざわざ大阪に来る。
珍しいことだ、と山下は思った。
二日後、坂本は一人で現れた。スーツ、銀縁眼鏡、相変わらず声が平板だ。でも会議室に入ったとき、どこか前と違う気がした。疲れているわけではない。何かを決めてきた顔、に見えた。
「山下さん」坂本は座りながら言った。「三月にいただいた資料、上に上げました」
山下は少し驚いた。
「どこまで」
「大臣まで」
「それで」
「大臣は読みました。内容を理解しました」坂本は言った。「ただ、方針は変わりません」
山下は頷いた。
「それを伝えに来たんですか」
「それだけではありません」坂本は資料を取り出した。「追加の安全確認のための予算を、別途確保することになりました。設計変更に伴う安全検証を、通常の工程とは別に実施する」
山下は資料を受け取った。
数字を見た。
完全ではない。自分が求めていたものとは違う。でも——何もないよりは、ある。
「これは」山下は言った。「あなたが動いたんですか」
坂本は少し間を置いた。
「私にできることを、しました」
その言葉の意味を、山下はすぐに理解した。
方針は変えられなかった。でも内側で、できることをした。
「ありがとうございます」山下は言った。
坂本は頷いた。
「山下さん」坂本は立ち上がりながら言った。「あなたの資料は、ファイルに綴じて保管しています。十年後も、二十年後も、残ります」
山下は坂本を見た。
「それで十分です」山下は言った。
坂本は頷いて、会議室を出た。
山下は一人になった。
窓の外に、大阪の夏の空が広がっていた。入道雲が白く盛り上がっている。
記録は残る。
それだけが、今確かなことだった。
完




