第六章 現場に立つ
八月の終わり、田所から電話が来た。
「山下さん、一度来てもらえませんか。現場を見てほしい」
「何かありましたか」
「設計変更の第一段階が始まりました。書類の様式が変わって、現場に新しい手順書が配られた。見てもらいたいものがある」
山下は翌週、再び福井に向かった。
今度は川島部長に正直に言った。
「現場から要請がありました。設計変更の影響確認に行きたい」
川島は少し考えて、頷いた。
「行ってこい。ただし、会社の立場を忘れるな」
「分かっています」
発電所の敷地に入ったのは、入社以来何度目かだった。でも今日は違う感触があった。自分が設計したものが、変わり始めている。その現場に立つ感触は、初めてだった。
田所が出迎えた。作業着姿だった。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
田所に案内されて、建屋の中に入った。
制御室に通された。計器が並んでいる。パネルが光っている。この部屋から、炉の状態を監視している。
田所が一枚の改訂資料を渡した。
「これです。新しい様式に合わせて差し替えられた資料です」
山下は読んだ。
読みながら、手が止まった。
「田所さん」
「はい」
「安全系の作動設定値が変わっています」
「そうなんです」田所は言った。「現場の人間は最初、戸惑いました。十年以上、同じ数値でやってきたから」
「今は」
「慣れてきています。でも」田所は書類を指さした。「ここの作動設定値、前の設計と違います。山下さん、これは正しいですか」
山下は数値を見た。
頭の中で計算した。
「この設定だと」山下は言った。「非常時の安全系の起動が〇・三秒遅れる」
「〇・三秒」
「規格上は許容される。でも、安全のために持たせていた余裕を、〇・三秒使うことになる」
田所は黙った。
制御室の中に、計器の音だけが響いていた。
「これは」田所は言った。「報告すべきですか」
「報告してください」山下は言った。「正式なルートで、今日中に」
「山下さんも」
「私からも報告します」
田所は頷いた。
二人で制御室を出た。
廊下を歩きながら、山下は思った。
〇・三秒。
その数字が、誰かの経営判断によって生まれた。米国規格に合わせる、という決定が、安全系の設定値を組み替えて、〇・三秒の余裕を削った。
この〇・三秒を、経営会議のテーブルに座っていた人間は知らない。
知らないまま、何かが決まっていく。
炉心は、経営会議の事情を知らない。
規格がどこの国のものかも知らない。
決められた条件のまま、ただ反応する。
建屋の外に出ると、若狭湾が見えた。
青い海が、静かに広がっている。
山下は海を見ながら、手帳を取り出した。
〇・三秒、と書いた。
日付と場所と、状況を書いた。
記録する。
それだけが、今日ここに来た意味だった。
完




