第五章 玲
# 第五章 玲
その夜、白石玲は帰宅してからも、なかなか眠ることができなかった。
眠れないという感覚そのものが、彼女には少し奇妙だった。身体が疲れていないことは分かっている。それでもベッドへ入ってから何度も目を開け、天井を見つめてしまう。昼間の出来事が頭から離れなかった。
硯箱。
蓋の裏側にあった三本の傷。
そして、それを自分が知っていたこと。
玲はベッドを出ると、窓際の椅子に座った。部屋は静かだった。都会の夜景が窓ガラスの向こうに広がっているが、今の玲にはそれを見る余裕がない。
どうして知っていたのだろう。
考えれば考えるほど、その疑問だけが残る。
研究所で大量の筆跡データを扱っている。颯真の過去の作品や研究資料を閲覧する機会もある。もしかすると、以前どこかで硯箱の画像を見たのかもしれない。自分では覚えていなくても、無意識に記憶していた可能性はある。
そう考えれば、それほど不思議なことではない。
玲はそう結論づけようとした。
しかし、ひとつだけ説明できないものが残っている。
傷を見たときに浮かんだ、あの感覚だった。
知識ではない。
記憶だった。
硯箱の裏側に傷があると知っていたのではなく、そこに傷があることを「思い出した」ような感覚だった。
さらに、そのとき脳裏に浮かんだ光景がある。
白いカーテン。
夕暮れの光。
机の上に置かれた半紙。
どこかに漂っていた墨の匂い。
玲は目を閉じた。
また同じ光景が浮かぶ。
けれど、やはり人物の顔だけが見えない。
ただ、その人物が若い女性であることだけは分かる。彼女が筆を持っていることも、その場にもう一人、誰かがいることも。
そして、聞こえないはずの声が、記憶の底から浮かび上がった。
――お兄ちゃん。
玲は目を開けた。
部屋は何も変わっていない。
自分が今いる場所も、誰と暮らしてきたかも、もちろん知っている。それなのに、その言葉だけが自分の記憶として存在している。
兄。
その単語を思い浮かべると、奇妙な感覚がする。
自分に兄がいたという記憶はない。顔も、名前も、声も思い出せない。そもそも、兄と呼びかける相手が自分の過去に存在したという感覚そのものがない。
それなのに、「お兄ちゃん」という言葉だけは妙に自然だった。
玲はしばらく考えたあと、研究用の自己診断システムを起動した。
研究員である以上、自分の認知状態を検査するための手段はいくつもある。記憶の混同、虚偽記憶、外部情報による暗示、ストレスによる想起異常など、いくつかの可能性を順番に検証できる。
画面に質問が表示された。
**「現在、存在しない過去の記憶を想起している可能性がありますか?」**
玲はしばらく考えた。
「はい」と入力する。
次の項目。
**「その記憶の発生原因を特定できますか?」**
「いいえ」
検査は数分で終わった。
結果は、ほとんどの項目で正常範囲だった。認知機能に異常はない。記憶障害を示す兆候もない。外部情報の混入を示す反応も確認されなかった。
ただ、一つだけ奇妙な項目が表示された。
**「特定記憶に対する高い情動反応を検出しました」**
玲はその文字を見つめた。
記憶に情動反応が伴うこと自体は珍しくない。しかし問題は、その記憶が本人の経験として確認できないことだった。
玲は診断結果を閉じた。
それ以上調べても、今の段階では答えは出ない。
翌日、玲はいつもより早く研究所へ出勤した。
黒川颯真の実験データを確認するためだった。
前日の結果を整理していると、最後の実験映像が目に入る。颯真は白い半紙を前にして、何を書くべきか決められないまま筆を持っていた。やがて諦めたように筆を置く。
その映像を見ながら、玲は昨日の自分のことを思い出した。
書くことを決められなかった颯真。
自分には理解できなかった、その「決められなさ」。
そして今、自分もまた、分からない記憶を前にして答えを決められずにいる。
玲はふと気づいた。
自分は昨日まで、人間について研究していた。
けれど今は、人間を研究するのと同じ方法で、自分自身を調べている。
そのことに、奇妙な可笑しさを覚えた。
「研究対象が自分になるなんて」
呟いてから、玲は少し笑った。
研究室へ神崎が入ってきた。
「もう来ていたのか」
「昨日の実験結果を確認していました」
「何か分かったか?」
「まだ分かりません」
「それは珍しいな」
神崎は穏やかに笑った。
「玲がそう言うなら、よほど難しい問題らしい」
玲は少し迷ったが、質問を口にした。
「神崎さん。人間は、自分が経験していないことを記憶することがありますか?」
神崎の足がわずかに止まった。
「どういう意味だ?」
「例えば、見たことがない場所を見たように感じたり、知らない言葉を以前から知っていたように感じたりすることです」
「記憶の混同や既視感のようなものなら、珍しくはない」
「そうですか」
「何かあったのか?」
玲は一瞬、答えようとしてやめた。
「いえ。少し気になっただけです」
「そうか」
神崎はそれ以上追及しなかった。
玲は再び端末へ視線を戻した。
画面には、颯真の筆跡データが並んでいる。同じ文字を何度書いても、最後の一画だけは完全には同じにならない。その違いをORIONはまだ説明できていない。
昨日、颯真は「理由が分からないから書けない」と言った。
玲には、その言葉が妙に印象に残っていた。
理由がないわけではない。
ただ、本人にも理由が分からない。
そういうことが、本当にあるのだろうか。
玲は自分の手を見た。
昨日、筆を持ったときの感触がまだ残っているような気がした。墨の匂いも、紙に触れた穂先の感触も覚えている。そのどれもが、自分にとって新しい経験だったはずなのに、時々ひどく懐かしく感じる瞬間がある。
その日の午後、玲は再び颯真の教室へ向かった。
理由を尋ねられたら、研究の続きをするためだと答えるつもりだった。
だが、本当はそれだけではなかった。
自分の中にある記憶について、誰かに確かめてほしかった。
教室では、颯真が古い作品を整理していた。玲が入ってくると、顔を上げる。
「今日は何だ?」
「少し聞きたいことがあります」
「研究か?」
「それもあります」
玲は昨日と同じ場所に座った。
「昨日の硯箱のことですが」
「まだ気になってるのか」
「はい」
「忘れろと言っただろ」
「そうしたいんですが、できません」
颯真は玲を見た。
玲は自分でも少し驚いていた。そんな言い方をするつもりはなかったからだ。
「傷を見たとき、何かを思い出したんです」
「何を?」
「白いカーテンと、夕方の光。それから、誰かの声です」
颯真の表情が変わった。
「どんな声だ?」
「女性です。若い人だと思います。それと……」
玲は少し迷ってから続けた。
「『お兄ちゃん』と言っていました」
颯真は何も言わなかった。
その沈黙が、玲にはかえって気になった。
「何か心当たりがありますか?」
「……ない」
答えるまでに、ほんの少し時間があった。
「そうですか」
玲はそれ以上聞かなかった。
颯真も、何も言わなかった。
しばらくして玲は立ち上がった。玄関へ向かう途中、ふと壁際の白い掛け軸へ目を向ける。
なぜか、その白さを見ていると胸がざわついた。
理由は分からない。
ただ、その紙には何かが書かれるはずだった、という奇妙な感覚だけが残った。
教室を出た玲は、歩きながら一度だけ振り返った。
引き戸の向こうに、颯真の姿が見える。
その顔には、何かを思い出してしまった人間の表情が浮かんでいた。
その夜、玲は自己診断の結果を再び開いた。
画面には昨日と同じ表示が残っている。
**特定記憶に対する高い情動反応を検出しました。**
玲はその文字をしばらく見つめてから、画面を閉じた。
自分が何を思い出したのかは分からない。
誰の記憶なのかも分からない。
ただ、その記憶が生まれたとき、自分はそこにいたような気がする。
それだけが、どうしても否定できなかった。




