↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/12

第六章 予測

# 第六章 予測


 研究が始まってから三週間が過ぎた。

 その間、颯真は何度もORIONの研究施設へ通った。実験の内容は少しずつ複雑になっていたが、やっていることそのものは変わらない。同じ文字を条件を変えて書き、筆圧や速度、呼吸や心拍の変化を記録する。ときには、文字を書く前に何を考えていたかを質問され、ときには何も説明せずに自由に書くよう求められた。

 颯真には、研究が少しずつ変わってきているように感じられていた。

 最初の頃は「なぜ同じ文字が同じ形にならないのか」を調べていたはずなのに、最近では「なぜ人間はそのとき、その文字を書こうと思ったのか」という問いに変わっている。文字そのものより、その前にあるものを調べようとしているようだった。

 その日も実験を終えた颯真が研究室を出ようとすると、玲から声をかけられた。

「神崎さんが、話したいそうです」

「また何か実験か?」

「今日は違います」

「じゃあ、何だ」

「ORIONについて説明したいそうです」

 颯真は少し意外に思った。

 案内された部屋には、神崎一人しかいなかった。これまでの実験室とは違い、そこには大きな窓があり、夕方の街が見渡せた。机の上には何もなく、壁にも画面は出ていない。

「座ってください」

 神崎が椅子を勧める。

 颯真が腰を下ろすと、神崎も向かいに座った。

「今日は少し、あなたに知っておいていただきたいことがあります」

「研究の話か?」

「正確には、ORIONが何を目指しているのかという話です」

 神崎が端末を操作すると、窓の外の街並みが暗くなり、室内の壁一面に映像が浮かび上がった。

 交通事故の記録。

 医療現場の映像。

 金融市場の変動。

 災害の発生地点。

 犯罪の統計。

 そのどれも、過去に起きた出来事だった。

「ORIONは、もともと予測のために作られたものではありません」

 神崎が言った。

「では、何のために?」

「最初は、膨大な情報を整理するためです。人間には処理しきれないほど多くの情報をまとめ、必要な人間へ必要な情報を届ける。それが始まりでした」

 映像が切り替わる。

 渋滞の予測。

 電力需要の予測。

 感染症の拡大予測。

 病院のベッド数の調整。

「やがて、予測が加わった。ある場所で何が起こるか、ある市場がどう動くか、どの地域でどの程度の電力が必要になるか。予測できれば、先回りして対策ができます」

「便利だな」

「はい」

 神崎は否定しない。

「便利だから、使われる。使われるから、さらに多くの情報が集まる。情報が集まれば、予測の精度が上がる。そうして現在のORIONになりました」

 画面に、膨大な数のデータが網のようにつながっていく。

「今では、社会のさまざまな領域でORIONが使われています。事故を減らし、病気を早期に発見し、犯罪を未然に防ぐ。以前なら起こってから対応するしかなかったことに、起こる前から手を打てるようになった」

 颯真は画面を眺めた。

「それで、人間は幸せになったのか?」

「全体としては」

「全体としては、ね」

「ええ」

 神崎は少しだけ笑った。

「もちろん、すべてが上手くいったわけではありません」

 映像が切り替わる。

 ある若い男が、端末の画面に表示された進路候補を見つめている。いくつもの選択肢の横に、それぞれの「推奨度」が表示されていた。

 次の映像では、若い女性が結婚相手の候補を見ている。

 さらに別の画面では、転職先の候補が並んでいる。

「人間の人生にも、ORIONは使われるようになりました」

 神崎が言う。

「これまでの経歴、健康状態、生活環境、価値観、対人関係。そういった情報から、どの選択がもっとも良い結果を生む可能性が高いのかを提示する」

「それを信じる人間が増えたわけか」

「はい」

「自分で決めなくなった?」

「そうとも言えません」

 神崎は画面を止めた。

「最終的には、本人が選んでいます」

「でも、ORIONが『これが一番いい』って教えてくれる」

「そうです」

「だったら、選んでるように見えるだけじゃないのか」

 神崎はしばらく考えた。

「黒川さんは、自分で何かを選ぶとき、何を基準にしていますか?」

「自分で考える」

「何を材料に?」

「今まで生きてきた経験とか、知ってることとか」

「それらをすべて考慮すると?」

「……まあ、できる範囲ではな」

「ORIONは、それを人間より大量に、そして速く処理します」

「だから?」

「だから、より良い選択ができる可能性が高い」

 颯真は神崎を見つめた。

「それでも、人間は間違える」

「はい」

「お前たちは、その間違いをなくしたいんだな」

 神崎はすぐには答えなかった。

「なくしたい、というより、減らしたいのです」

「同じことだろ」

「違います」

 神崎の声が初めて少しだけ強くなった。

「人間の人生から苦痛を完全になくすことなどできません。それは私も分かっています。ただ、事故に遭わなくてもよかった人、もっと早く治療すれば助かった人、衝動的な判断で人生を壊してしまった人。そういう人たちを減らせるのであれば、やる価値はある」

 颯真は何も言わなかった。

 神崎の言っていることは、理解できる部分もあった。

 正しい選択をすれば避けられた悲劇は、確かに存在する。

 颯真自身にも、そう思うことがある。

 もし、あの日に戻れるなら。

 もっと紗季の異変に早く気づいていたら。

 もっと何かできていたら。

 そんな考えは、二十年経った今でも完全には消えていない。

 神崎は続けた。

「私には、あなたがORIONを嫌う理由が分かりません」

「嫌ってるわけじゃない」

「では?」

「信用してないだけだ」

「なぜですか?」

「人間のことを、全部数字にできると思ってるからだ」

 神崎は静かに颯真を見る。

「数字にできないものがあると思いますか?」

「ある」

「例えば?」

 颯真は少し考えた。

 そして、玲の姿が頭に浮かんだ。

 失敗してもいいと言われたときの、あの戸惑った顔。

 硯箱の傷を見て、理由もなく懐かしいと言った声。

「理由の分からないことだ」

 颯真は答えた。

「自分でも理由が分からないのに、それでもそうすることがある」

 神崎は黙っていた。

「お前らは、それを全部、過去のデータから説明しようとする。でも、人間はそんなにきれいにできてない」

「そこが、我々の研究対象です」

「そうだろうな」

「黒川さん」

 神崎は少し身を乗り出した。

「人間が自分でも理由を説明できない選択をするとき、そこに本当に自由意思があると思いますか?」

 颯真はすぐに答えなかった。

「分からん」

「珍しい答えですね」

「俺は哲学者じゃない。そんなことまで知らんよ」

 神崎が微笑む。

「ですが、あなたは書道家だ」

「それが何だ」

「書道では、筆を置いた瞬間に、その線を修正することはできない」

「ああ」

「つまり、一度選んだ線を取り消すことができない」

「そうだな」

「人生と似ていませんか?」

 颯真は神崎を見た。

「一度選んだものは、戻せない」

 神崎はそう言った。

「だからこそ、人間は慎重になる。だからこそ、失敗を恐れる。ORIONが提示する未来を利用すれば、取り返しのつかない選択を減らせる」

「でも、間違ったっていい」

「本当に?」

「……何?」

「あなたは妹さんのことを、今でも後悔している」

 颯真の表情が固まった。

「何でそのことを知ってる?」

「公開情報の範囲です」

 神崎は淡々と答えた。

「二十年前、妹さんが亡くなった。その後、あなたは書道の道を続けています」

 颯真は神崎から目を逸らした。

「それが何だ」

「もし当時、ORIONが現在の能力を持っていたら、妹さんを救えた可能性があると思いませんか?」

 颯真は答えなかった。

 救えたかもしれない。

 その言葉を聞くたび、胸のどこかが痛む。

 もし、あの頃に。

 もし、もっと早く。

 もし、何か一つ違っていたら。

 そう考えることは、何度もあった。

「可能性の話だ」

 ようやく颯真は言った。

「そうですね」

「それに、助かったとして、その後どうなるかなんて誰にも分からん」

「だから予測するのです」

「予測した未来が正しいとは限らない」

「だから確率として提示する」

「それを人間が信じる」

「信じてもらう必要はありません」

 神崎は画面を消した。

 暗くなった壁に、窓の外の夕暮れだけが映る。

「ただ、私は思うのです。人間が自分だけで選び続けることが、本当に人間にとって最善なのかと」

 颯真は立ち上がった。

「俺には分からんな」

「でしょうね」

「でも、一つだけ分かる」

 颯真は扉の前で振り返った。

「人間が自分で選んだことまで、AIのせいにする世の中だけにはしたくない」

 神崎は黙っていた。

「失敗したって、自分で選んだなら、その責任くらい自分で背負わせろ」

 颯真はそれだけ言って部屋を出た。

 廊下には玲が立っていた。

「話は終わったんですか?」

「ああ」

「神崎さんは、怒っていましたか?」

「別に」

 颯真は歩きながら答えた。

「お前はどう思う?」

「何をですか?」

「ORIONのことだ」

 玲は少し考えた。

「便利だと思います」

「そうか」

「でも、少し怖いです」

 颯真は足を止めた。

 玲自身も、その言葉に驚いたようだった。

「怖い?」

「はい」

「何が?」

「分かりません」

 玲はそう言って、自分の言葉を確かめるようにゆっくり続けた。

「最も幸福になる選択を、誰かが知っているということが……なぜか嫌です」

 颯真は玲を見た。

 その顔には、珍しく迷いがあった。

「どうして嫌なんだ?」

「それも、分かりません」

 颯真は少し笑った。

「なら、まだ大丈夫だ」

「何がですか?」

「分からないって言えるならな」

 玲は微かに笑った。

 二人はそれ以上話さず、研究棟の廊下を歩いた。

 その夜、神崎は一人で研究室に残っていた。

 目の前の画面には、今日の実験結果が表示されている。

 黒川颯真の筆記データ。

 白石玲の反応データ。

 過去の膨大な人間の行動予測。

 神崎はそれらを順番に眺め、最後に一つの画面を開いた。

 そこには、ORIONの中核システムが示されていた。

 **予測精度:99.94%**

 ほぼ完全に近い数字だった。

 神崎はその数字を見ながら、静かに呟いた。

「まだ足りない」

 画面の別の項目が表示される。

 **未解析領域:人間の最終意思決定**

 神崎は、その文字をしばらく見つめた。

「あと少しだ」

 誰もいない研究室で、その声だけが静かに響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。