第六章 予測
# 第六章 予測
研究が始まってから三週間が過ぎた。
その間、颯真は何度もORIONの研究施設へ通った。実験の内容は少しずつ複雑になっていたが、やっていることそのものは変わらない。同じ文字を条件を変えて書き、筆圧や速度、呼吸や心拍の変化を記録する。ときには、文字を書く前に何を考えていたかを質問され、ときには何も説明せずに自由に書くよう求められた。
颯真には、研究が少しずつ変わってきているように感じられていた。
最初の頃は「なぜ同じ文字が同じ形にならないのか」を調べていたはずなのに、最近では「なぜ人間はそのとき、その文字を書こうと思ったのか」という問いに変わっている。文字そのものより、その前にあるものを調べようとしているようだった。
その日も実験を終えた颯真が研究室を出ようとすると、玲から声をかけられた。
「神崎さんが、話したいそうです」
「また何か実験か?」
「今日は違います」
「じゃあ、何だ」
「ORIONについて説明したいそうです」
颯真は少し意外に思った。
案内された部屋には、神崎一人しかいなかった。これまでの実験室とは違い、そこには大きな窓があり、夕方の街が見渡せた。机の上には何もなく、壁にも画面は出ていない。
「座ってください」
神崎が椅子を勧める。
颯真が腰を下ろすと、神崎も向かいに座った。
「今日は少し、あなたに知っておいていただきたいことがあります」
「研究の話か?」
「正確には、ORIONが何を目指しているのかという話です」
神崎が端末を操作すると、窓の外の街並みが暗くなり、室内の壁一面に映像が浮かび上がった。
交通事故の記録。
医療現場の映像。
金融市場の変動。
災害の発生地点。
犯罪の統計。
そのどれも、過去に起きた出来事だった。
「ORIONは、もともと予測のために作られたものではありません」
神崎が言った。
「では、何のために?」
「最初は、膨大な情報を整理するためです。人間には処理しきれないほど多くの情報をまとめ、必要な人間へ必要な情報を届ける。それが始まりでした」
映像が切り替わる。
渋滞の予測。
電力需要の予測。
感染症の拡大予測。
病院のベッド数の調整。
「やがて、予測が加わった。ある場所で何が起こるか、ある市場がどう動くか、どの地域でどの程度の電力が必要になるか。予測できれば、先回りして対策ができます」
「便利だな」
「はい」
神崎は否定しない。
「便利だから、使われる。使われるから、さらに多くの情報が集まる。情報が集まれば、予測の精度が上がる。そうして現在のORIONになりました」
画面に、膨大な数のデータが網のようにつながっていく。
「今では、社会のさまざまな領域でORIONが使われています。事故を減らし、病気を早期に発見し、犯罪を未然に防ぐ。以前なら起こってから対応するしかなかったことに、起こる前から手を打てるようになった」
颯真は画面を眺めた。
「それで、人間は幸せになったのか?」
「全体としては」
「全体としては、ね」
「ええ」
神崎は少しだけ笑った。
「もちろん、すべてが上手くいったわけではありません」
映像が切り替わる。
ある若い男が、端末の画面に表示された進路候補を見つめている。いくつもの選択肢の横に、それぞれの「推奨度」が表示されていた。
次の映像では、若い女性が結婚相手の候補を見ている。
さらに別の画面では、転職先の候補が並んでいる。
「人間の人生にも、ORIONは使われるようになりました」
神崎が言う。
「これまでの経歴、健康状態、生活環境、価値観、対人関係。そういった情報から、どの選択がもっとも良い結果を生む可能性が高いのかを提示する」
「それを信じる人間が増えたわけか」
「はい」
「自分で決めなくなった?」
「そうとも言えません」
神崎は画面を止めた。
「最終的には、本人が選んでいます」
「でも、ORIONが『これが一番いい』って教えてくれる」
「そうです」
「だったら、選んでるように見えるだけじゃないのか」
神崎はしばらく考えた。
「黒川さんは、自分で何かを選ぶとき、何を基準にしていますか?」
「自分で考える」
「何を材料に?」
「今まで生きてきた経験とか、知ってることとか」
「それらをすべて考慮すると?」
「……まあ、できる範囲ではな」
「ORIONは、それを人間より大量に、そして速く処理します」
「だから?」
「だから、より良い選択ができる可能性が高い」
颯真は神崎を見つめた。
「それでも、人間は間違える」
「はい」
「お前たちは、その間違いをなくしたいんだな」
神崎はすぐには答えなかった。
「なくしたい、というより、減らしたいのです」
「同じことだろ」
「違います」
神崎の声が初めて少しだけ強くなった。
「人間の人生から苦痛を完全になくすことなどできません。それは私も分かっています。ただ、事故に遭わなくてもよかった人、もっと早く治療すれば助かった人、衝動的な判断で人生を壊してしまった人。そういう人たちを減らせるのであれば、やる価値はある」
颯真は何も言わなかった。
神崎の言っていることは、理解できる部分もあった。
正しい選択をすれば避けられた悲劇は、確かに存在する。
颯真自身にも、そう思うことがある。
もし、あの日に戻れるなら。
もっと紗季の異変に早く気づいていたら。
もっと何かできていたら。
そんな考えは、二十年経った今でも完全には消えていない。
神崎は続けた。
「私には、あなたがORIONを嫌う理由が分かりません」
「嫌ってるわけじゃない」
「では?」
「信用してないだけだ」
「なぜですか?」
「人間のことを、全部数字にできると思ってるからだ」
神崎は静かに颯真を見る。
「数字にできないものがあると思いますか?」
「ある」
「例えば?」
颯真は少し考えた。
そして、玲の姿が頭に浮かんだ。
失敗してもいいと言われたときの、あの戸惑った顔。
硯箱の傷を見て、理由もなく懐かしいと言った声。
「理由の分からないことだ」
颯真は答えた。
「自分でも理由が分からないのに、それでもそうすることがある」
神崎は黙っていた。
「お前らは、それを全部、過去のデータから説明しようとする。でも、人間はそんなにきれいにできてない」
「そこが、我々の研究対象です」
「そうだろうな」
「黒川さん」
神崎は少し身を乗り出した。
「人間が自分でも理由を説明できない選択をするとき、そこに本当に自由意思があると思いますか?」
颯真はすぐに答えなかった。
「分からん」
「珍しい答えですね」
「俺は哲学者じゃない。そんなことまで知らんよ」
神崎が微笑む。
「ですが、あなたは書道家だ」
「それが何だ」
「書道では、筆を置いた瞬間に、その線を修正することはできない」
「ああ」
「つまり、一度選んだ線を取り消すことができない」
「そうだな」
「人生と似ていませんか?」
颯真は神崎を見た。
「一度選んだものは、戻せない」
神崎はそう言った。
「だからこそ、人間は慎重になる。だからこそ、失敗を恐れる。ORIONが提示する未来を利用すれば、取り返しのつかない選択を減らせる」
「でも、間違ったっていい」
「本当に?」
「……何?」
「あなたは妹さんのことを、今でも後悔している」
颯真の表情が固まった。
「何でそのことを知ってる?」
「公開情報の範囲です」
神崎は淡々と答えた。
「二十年前、妹さんが亡くなった。その後、あなたは書道の道を続けています」
颯真は神崎から目を逸らした。
「それが何だ」
「もし当時、ORIONが現在の能力を持っていたら、妹さんを救えた可能性があると思いませんか?」
颯真は答えなかった。
救えたかもしれない。
その言葉を聞くたび、胸のどこかが痛む。
もし、あの頃に。
もし、もっと早く。
もし、何か一つ違っていたら。
そう考えることは、何度もあった。
「可能性の話だ」
ようやく颯真は言った。
「そうですね」
「それに、助かったとして、その後どうなるかなんて誰にも分からん」
「だから予測するのです」
「予測した未来が正しいとは限らない」
「だから確率として提示する」
「それを人間が信じる」
「信じてもらう必要はありません」
神崎は画面を消した。
暗くなった壁に、窓の外の夕暮れだけが映る。
「ただ、私は思うのです。人間が自分だけで選び続けることが、本当に人間にとって最善なのかと」
颯真は立ち上がった。
「俺には分からんな」
「でしょうね」
「でも、一つだけ分かる」
颯真は扉の前で振り返った。
「人間が自分で選んだことまで、AIのせいにする世の中だけにはしたくない」
神崎は黙っていた。
「失敗したって、自分で選んだなら、その責任くらい自分で背負わせろ」
颯真はそれだけ言って部屋を出た。
廊下には玲が立っていた。
「話は終わったんですか?」
「ああ」
「神崎さんは、怒っていましたか?」
「別に」
颯真は歩きながら答えた。
「お前はどう思う?」
「何をですか?」
「ORIONのことだ」
玲は少し考えた。
「便利だと思います」
「そうか」
「でも、少し怖いです」
颯真は足を止めた。
玲自身も、その言葉に驚いたようだった。
「怖い?」
「はい」
「何が?」
「分かりません」
玲はそう言って、自分の言葉を確かめるようにゆっくり続けた。
「最も幸福になる選択を、誰かが知っているということが……なぜか嫌です」
颯真は玲を見た。
その顔には、珍しく迷いがあった。
「どうして嫌なんだ?」
「それも、分かりません」
颯真は少し笑った。
「なら、まだ大丈夫だ」
「何がですか?」
「分からないって言えるならな」
玲は微かに笑った。
二人はそれ以上話さず、研究棟の廊下を歩いた。
その夜、神崎は一人で研究室に残っていた。
目の前の画面には、今日の実験結果が表示されている。
黒川颯真の筆記データ。
白石玲の反応データ。
過去の膨大な人間の行動予測。
神崎はそれらを順番に眺め、最後に一つの画面を開いた。
そこには、ORIONの中核システムが示されていた。
**予測精度:99.94%**
ほぼ完全に近い数字だった。
神崎はその数字を見ながら、静かに呟いた。
「まだ足りない」
画面の別の項目が表示される。
**未解析領域:人間の最終意思決定**
神崎は、その文字をしばらく見つめた。
「あと少しだ」
誰もいない研究室で、その声だけが静かに響いた。




