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第四章 二十年前

# 第四章 二十年前


 二十年前の秋、黒川颯真は二十五歳だった。書道師範の資格を取ってまだ数年しか経っておらず、いくつかのカルチャーセンターや地域の教室を掛け持ちしながら、空いた時間には自分の作品を書いていた。書道だけで十分な収入を得られるほど甘い世界ではなかったが、それでも颯真は、自分の選んだ道を間違えたとは思っていなかった。むしろ、上手く書けないものを上手く書けるようにすること、それだけを考えていればよかった頃のほうが、今より幸せだったのかもしれない。

 当時の颯真は、今よりずっと字に厳しかった。形が少しでも崩れていれば書き直し、墨の濃さが気に入らなければ最初から磨り直す。一枚書いて納得できなければ、同じ文字を何十枚でも繰り返した。美しい字には正しい理由があり、良い字を書けるようになるには、その理由を一つずつ積み上げていけばいい。そんなふうに考えていた。

 妹の紗季は、そんな兄を少し変わった人間だと思っていたらしい。

「お兄ちゃん、また同じ字書いてる」

 ある晩、実家の居間で半紙を並べていると、背後から声がした。振り返ると、紗季が炬燵に入ったまま、颯真の手元を覗き込んでいる。二十歳になったばかりの彼女は、大学の講義を終えて帰ってきたところだった。肩まで伸ばした髪を後ろでまとめ、片手にはまだ大学の鞄を抱えている。

「同じじゃない」

「同じに見えるけど」

「よく見ろ。こっちは入りが少し浅いし、こっちは最後が重い」

「そんなの、分かんないよ」

 紗季は笑いながら、颯真が脇へ避けておいた半紙を一枚取った。

「これ、もらっていい?」

「それ、失敗作だぞ」

「だからいいの」

「何がいいんだよ」

 紗季は半紙を眺めながら首を傾げた。

「分かんない。なんとなく」

 それが紗季の口癖だった。服を買うときも、食べるものを選ぶときも、映画を見終わったあとも、理由を尋ねると「なんとなく」と答える。颯真には、その答え方が少しもどかしかった。

「せめて、どこがいいのかくらい言えよ」

「お兄ちゃんだって、字のこと全部説明できるわけじゃないでしょ」

「俺は説明できる」

「じゃあ、この字がどうして好きなのかも説明して」

 そう言って紗季は笑った。

 颯真は答えられなかった。

 紗季は勝ち誇ったような顔をして、半紙を折りたたんだ。

「ほらね」

「うるさい」

 そんなやり取りが、颯真の記憶には残っている。くだらない会話だった。特別な意味などない、ありふれた兄妹の時間だった。それが、後になってから何度も思い出すことになるとは、その頃の颯真は考えもしなかった。

 紗季が病気になったのは、その数か月後だった。

 最初は大したことではないと思っていた。体調を崩すことなど誰にでもある。少し休めば戻るだろうと、颯真も紗季本人も考えていた。けれど、検査を重ねるにつれて、そう簡単な話ではないことが分かっていった。

 入院が決まった日、紗季は意外なほど落ち着いていた。

「大学、休まなきゃいけないんだって」

「ああ」

「つまんないな」

「治ったら戻ればいい」

「そうだね」

 紗季は笑った。笑ったけれど、その目には、それまでにはなかった不安があった。

 颯真はそれを見ないふりをした。病気について何かを尋ねることも、医者の説明を詳しく聞き直すこともしなかった。ただ、見舞いに行く回数を増やした。

 病室では、以前のように話すことができなかった。家なら互いに好きなことを言っていれば、いつの間にか夜になっていたのに、病室では会話が途切れるたびに、機械の音や廊下の足音が妙に大きく聞こえる。紗季は時々冗談を言って颯真を笑わせたが、ふとした瞬間に窓の外を眺めて黙り込むことがあった。

 そんなある日、颯真はいつものように見舞いの品を持って病室を訪れた。果物や雑誌のほかに、普段使っている小さな硯箱と筆を鞄に入れていた。

「何それ?」

 紗季が訊いた。

「暇だろ」

「病院に書道道具を持ち込む人、初めて見た」

「別に書道じゃなくていい。手を動かしてたほうが気が紛れるだろ」

「お兄ちゃん、何でも書道にするよね」

「悪いか」

「悪くないけど」

 紗季は笑った。

 颯真は窓際の小さな机に道具を並べた。病室では墨の匂いが強く残るかもしれないと思い、使う量は普段より少なくした。紗季は興味深そうに硯や筆を眺めていたが、自分で書こうとはしなかった。

 そのとき、銀色のヘアピンが机の上から転がり、開いていた硯箱の中へ落ちた。

「あ」

 紗季が身を乗り出した。

「取れる?」

「たぶん」

 颯真が手を伸ばすより先に、紗季は硯箱を持ち上げた。蓋を少し開け、ヘアピンを取り出そうとしたところで、何かが引っかかる。紗季がそのまま蓋を動かした瞬間、ヘアピンの先が木の内側を擦った。

 細い音がした。

「……あ」

 紗季は蓋の裏側を覗き込み、申し訳なさそうに言った。

「傷ついちゃった」

 そこには、斜めに三本の細い傷が走っていた。

「そんなに気にするな」

 颯真は笑った。

「古いやつだし」

「でも、お兄ちゃんの大事なやつじゃないの?」

「大事だけど、これくらいならいい」

「ほんと?」

「ああ」

 紗季はほっとしたように笑い、ヘアピンを髪へ戻した。

 それから数日後、紗季が突然言った。

「お兄ちゃん、一回書いてみたい」

「何を?」

「書道」

 颯真は少し驚いた。

「お前が?」

「だって、いつもお兄ちゃんがやってるから」

「病室で無理するなよ」

「別に無理しないよ。ちょっと書くだけ」

 颯真は半紙を一枚取り出した。

「何を書く?」

「分かんない」

「じゃあ、自分で決めろ」

「お兄ちゃんが決めて」

「嫌だよ。自分で書くなら、自分で決めろ」

 紗季は少し考えたあと、筆を取った。持ち方はひどいものだった。指には余計な力が入り、筆先も寝ている。それでも颯真は何も言わなかった。

 いつもの自分なら、まず持ち方を直していただろう。墨の含ませ方も、腕の運び方も、もっと細かく教えたはずだ。けれどその日は、なぜか口を出す気になれなかった。

 紗季は一画書くたびに筆を止め、そのたびに半紙を見つめた。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。線は揺れ、形も整っていない。墨の量も途中で足りなくなり、筆先が紙の上で引っかかった。

「もうちょっと墨つけたほうがいいんじゃないか」

 颯真が言うと、紗季は筆を持ったまま笑った。

「分かってる」

「じゃあ、つけろよ」

「今いいところだから」

 颯真はそれ以上言わなかった。

 やがて紗季は最後の一画へ進んだ。そこだけ、それまでとは違っていた。急ぐ必要がないとでもいうように、筆の速度がゆっくりになる。途中で一度止まり、少し迷ったあと、最後まで線を運んだ。

 筆が紙から離れる。

「できた」

 紗季が言った。

 颯真は半紙を見た。

 上手くはない。形も崩れているし、線の太さも揃っていない。書道の作品として見れば、直したいところはいくらでもあった。

 それでも、何かが気になった。

 何が気になるのか、そのときの颯真には分からなかった。

「……もっと、きれいに書けばいいのに」

 口から出た言葉に、紗季が顔を上げた。

 一瞬だけ驚いたような顔をして、それから笑った。

「でも、これが私だから」

 颯真は返事をしなかった。

「お兄ちゃん、いつも言ってるじゃん。人が書いた字を見ると、その人が分かるって」

「そんな簡単な話じゃない」

「じゃあ、分からない?」

「……分からない」

「じゃあ、まだまだだね」

 紗季はそう言って笑った。

 颯真も笑った。

 そのときの紗季の顔を、颯真は二十年経った今も忘れていない。

 それからしばらくして、紗季の病状が急に悪化した。

 病室へ駆けつけたときには、窓際の小さな机は片づけられ、いつも置かれていた硯箱も棚の中へしまわれていた。機械の音が絶えず聞こえていて、颯真はベッドのそばに立ちながら、何を言えばいいのか分からなかった。

「お兄ちゃん」

 紗季が呼んだ。

「ああ」

「来たんだ」

「当たり前だろ」

「この前の字、持ってきた?」

 颯真は一瞬、答えに詰まった。

「……持ってない」

「そっか」

「今度な。元気になったら、また書けばいい」

「うん」

 紗季は少し笑った。

「今度は、もっと上手く書くから」

「そうだな」

「お兄ちゃんが教えて」

「ああ」

 その約束が果たされることはなかった。

 翌朝、紗季は亡くなった。

 葬儀が終わったあとも、颯真はしばらく筆を持てなかった。硯を見れば病室を思い出し、半紙を広げれば最後に紗季が書いた字が浮かんだ。それでも、何か月か経つと、書かないことのほうが苦しくなった。颯真は再び筆を持つようになり、以前よりも熱心に字を書くようになった。

 ただ、あの日の一文字だけは、二度と書かなかった。

 文字そのものは覚えている。

 線の形も、墨の濃淡も、最後の一画がどこで迷ったのかも。

 忘れようとして忘れられるものではなかった。

 だからこそ、その字だけは書けなかった。

 現在。

 颯真は、夜の教室で古い硯箱を開いていた。蓋の裏に残る三本の傷を指先でなぞる。木に刻まれた小さな傷は、二十年という時間を何事もなかったように抱えている。

 玲が、これを知っていた。

 蓋を開ける前に、三本の傷の存在を言い当てた。

 偶然かもしれない。研究所の資料を見た可能性もある。自分がどこかで話したことを忘れているだけかもしれない。それでも、あのとき玲が見せた戸惑いだけは、どうしても頭から離れなかった。

 あれはデータを前にした研究者の顔ではなかった。

 何かを思い出してしまった人間の顔だった。

 颯真は硯箱を閉じ、棚へ戻した。

 それから壁際の白い掛け軸へ目を向ける。

 何も書かれていない。

 二十年前から、ずっとそこだけが空白のままだった。

 颯真は静かに目を閉じた。紗季の声が、遠い記憶の底から浮かんでくる。

 ――でも、これが私だから。

 目を開けても、白い紙は何も答えなかった。


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