第三章 同じ字
# 第三章 同じ字
三日後の午後、颯真が教室の掃除を終えたころ、玄関の呼び鈴が鳴った。時計を見ると、約束した時刻より五分ほど早い。颯真は手にしていた雑巾を脇へ置き、わずかに息を吐いた。時間を間違えるような人間ではないと思っていたから、むしろ玲ならこのくらい早く来るだろうという気がしていた。引き戸を開けると、やはり玲が立っていた。白いシャツに黒いパンツという簡素な服装は前回とほとんど変わらず、手には小さな端末を持っている。
「今度は研究所じゃないんだな」
「今日は、こちらでお願いしたいと思っています」
「研究か?」
「半分は」
玲はそう答えてから、ほんの少し考えるように間を置いた。
「残りの半分は、あなたから書道を教えてもらいたいんです」
颯真は意外に思った。前回までの玲は、書道について知りたがってはいても、それを「教えてほしい」と表現することはなかった。彼女にとって書道は、人間の筆記行動を研究するための対象でしかないと思っていたからだ。
「研究員が師匠に弟子入りする時代になったのか」
「そういう意味ではありません」
「冗談だよ。入れ」
玲は小さく頭を下げて靴を脱ぎ、教室へ上がった。颯真は奥の机を指差した。玲はそこへ座り、部屋をゆっくり見回した。机の配置、筆や硯の置き場所、壁に掛けられた作品。前にも見たはずなのに、今日は一つひとつを確かめるように視線を動かしている。研究のためなのか、それとも別の理由なのか、颯真にはまだ判断がつかなかった。
「今日は何を書く?」
「前回の実験の続きをしたいのですが、その前に一つお願いがあります」
「言ってみろ」
「私も、書いてみたいです」
颯真は思わず玲の顔を見た。
「本当に?」
「はい。前回の実験結果を見て、自分でも確かめたくなりました」
「何を?」
「あなたが言ったことを」
玲の言葉に、颯真は少し黙った。
「……そうか」
棚から半紙と硯を取り出して、玲の前に置く。
「じゃあ、まず墨を磨れ」
玲は言われた通り硯を引き寄せた。墨を持つ手つきはぎこちなく、力のかけ方が均一すぎて、硯の同じ場所ばかりを擦っている。
「もっと力を抜け」
「この程度ですか?」
「まだ硬い。腕で動かすな。手首を使え」
「墨を均一に削ることが目的ではないのですか?」
「墨を削るだけなら機械でやればいい」
颯真は玲の手元を見ながら言った。
「自分でやるなら、磨ってる時間も含めて覚えろ。墨の匂いとか、音とか、そういうものまでな」
「それが書道に必要なんですか?」
「必要かどうかは知らん。ただ、そういうものを知らないまま字だけ覚えても、たぶん何か足りない」
玲は少し考えてから、手の動かし方を変えた。劇的に上手くなったわけではない。それでも颯真は、それ以上口を出さなかった。書道には、説明されるより先に身体が覚えることがある。何でも言葉にしてしまえば、かえって遠くなるものもある。
しばらくして、玲が筆を取った。意外なことに、持ち方は自然だった。筆軸はほぼ垂直に立ち、指の位置にも無駄がない。ところが半紙へ筆先を向けた途端、その手が止まった。
「どうした」
「正しい書き方が分かりません」
颯真は思わず笑った。
「そんなものない」
「でも、書道には筆法があります」
「ある。でも、筆法を覚えたからって、それで字が書けるわけじゃない」
「では、何を基準にすればいいんですか?」
「まず書け」
玲はしばらく筆先を見つめ、それから静かに紙へ落とした。
最初の線がきれいに入る。筆圧は安定し、穂先の動きにも迷いがない。二画目、三画目と進んでも線はほとんど乱れず、最後の一画まで速度が一定だった。書き上がった文字は、初めて筆を持った人間のものとは思えないほど整っている。
玲は筆を置き、颯真を見た。
「どうですか?」
「上手い」
「ありがとうございます」
「でも、これはお前の字じゃない」
玲の表情がわずかに固まった。
「どういう意味ですか?」
「正解を知ってから書いてる」
「正解?」
「お前は、筆を置く前から完成した形を知ってる。その形を崩さないように、線を運んでいる」
「それの何がいけないんですか?」
「いけないとは言ってない。ただ、それじゃ字が生きない」
玲は半紙へ目を落とした。
「前に、あなたが私に言ったことと似ています」
「何?」
「『綺麗です。でも、死んでいます』」
颯真は少し驚いた。初めて会った日に自分が口にした言葉を、玲がそこまで正確に覚えているとは思わなかった。
「よく覚えてたな」
「忘れる必要がありませんから」
「そうか」
颯真は玲の横に座り、半紙を指で示した。
「お前は、筆を置く前に最後の線まで全部決めてただろ」
「はい。形を崩さないようにしました」
「それが違うんだよ。崩れてもいい。途中で変わってもいい。思った通りにならなくても、そのまま進めばいい」
「それでは、失敗する可能性があります」
「当たり前だ」
「失敗してもいいんですか?」
「少なくとも、書道ではな」
玲はしばらく黙って、自分が書いた文字を見つめた。
「……失敗することに意味があるんですか?」
「失敗した字に意味があるんじゃない。失敗したあと、それでも続きを書くことに意味がある」
その言葉を、玲はすぐには理解できないようだった。
颯真は新しい半紙を十枚並べた。
「同じ文字を十回書け」
「同じように書くんですね」
「違う。同じ文字を十回書くんだ」
玲は一枚目から十枚目まで、ほとんど同じ動きで筆を運んだ。すべてを書き終えてから半紙を並べると、十枚の文字は、まるで同じ型から抜き出したように揃っている。もちろん、墨の濃淡やわずかな線の違いはあったが、それらは誤差と呼べる程度のものだった。
颯真は思わず笑った。
「やっぱりな」
「何がですか?」
「お前は字を書いてるんじゃない。正解を再現してる」
「違いがないほうが良いのでは?」
「機械ならな」
玲はしばらく黙っていたが、やがて十一枚目の半紙を前に置いた。
「どうすればいいですか?」
「書き始めるまで考えるな」
「それは難しいです」
「やってみろ」
玲は筆を持ったまま、紙を見る。しばらくして筆先を近づけたが、紙に触れる直前で止まった。
「今、考えたな」
「はい」
「何を?」
「失敗しないように」
「それをやめろ」
「どうすればいいんですか?」
「知らん」
玲が顔を上げた。
「先生なのに?」
「全部答えられるなら、師匠なんかいらん」
玲はわずかに目を見開いた。それから何かを諦めるように息を吐き、今度はほとんど考えずに筆を落とした。
一画目が少し乱れた。二画目では筆圧が強くなり、三画目では線が予定していた位置からわずかに外れる。最後の一画で、穂先が紙の上を迷うように揺れた。書き上がった字は、それまでのものより明らかに崩れている。
玲は半紙を見た。
「さっきより下手です」
「そうだな」
「でも、あなたは今のほうがいいと言うんでしょう?」
颯真は少し笑った。
「分かってきたじゃないか」
「理由が分からないので、まだ理解はできていません」
「そのうち分かる」
玲はしばらく自分の字を見つめていた。整ってはいない。けれど、そこには確かに、さっきまでにはなかった何かが残っている。颯真はそれをうまく言葉にできなかったが、玲自身もその違いを感じ始めているようだった。
「……不思議ですね」
「何が?」
「下手なのに、消したくありません」
「なら、残しとけ」
玲は小さく頷いた。
「昔、同じことを言われた気がします」
颯真は顔を上げた。
「誰に?」
玲は答えなかった。自分の中に何かを探すように、少し視線を落とした。
「分かりません。ただ、その言葉を聞いたときのことだけは、なぜか覚えています」
「何て言われた?」
「失敗してもいい、と」
颯真は黙った。
その言葉が胸に引っかかった。玲は誰かから聞いた言葉を覚えているというより、実際にその場にいた人間のような言い方をしていた。
「まあ、誰でも一度くらいは言われる言葉だ」
颯真はそう言って、それ以上は聞かなかった。
玲も何も言わなかった。
しばらくして、玲は使った道具を片づけ始めた。そのとき、棚の奥に置かれていた古い硯箱へ視線を向けた。
「これは?」
「昔から使ってるやつだ」
颯真が答えると、玲は硯箱を手に取った。黒ずんだ木地には細かな擦り傷があり、長い年月を使ってきたことが分かる。
「ずいぶん古いですね」
「ああ。俺が若い頃から使ってる」
玲は硯箱を手にしたまま、しばらく動かなかった。やがて、蓋に手をかけることもなく、何気ない口調で言った。
「……裏側に、三本傷がありますよね」
颯真の手が止まった。
「……なんで知ってる?」
玲自身も、その瞬間になって初めて何かがおかしいと気づいたらしい。硯箱を見つめたまま、少し眉を寄せる。
「分かりません」
「まだ開けてないだろ」
「はい」
「なのに?」
「……そう言われると、変ですね」
颯真は玲から硯箱を受け取った。古い蓋をゆっくりと開ける。
蓋の裏側には、細い傷が三本、斜めに並んでいた。
颯真はその傷を見た瞬間、胸の奥を冷たいものが走るのを感じた。
二十年前、病室の窓から夕暮れの光が差し込む部屋で、紗季がこの硯箱を手にしていた。二十歳になったばかりだった彼女は、書道に特別な興味があったわけではない。ただ、見舞いに来た颯真が持ってきた筆と硯を珍しそうに眺め、その日も机の上に置かれた道具をいじっていた。
あの日、紗季は銀色のヘアピンを硯箱の中へ落とした。取り出そうとして蓋を半開きのまま動かした拍子に、ヘアピンの先端が木の内側を引っかき、三本の細い傷を残したのだ。大した出来事ではなかった。紗季自身も、そんなことはすぐに忘れていたはずだ。颯真もまた、長い間それを意識することはなかった。ただ、その硯箱を捨てられなかったから、傷だけが二十年経った今も残っている。
「この傷……」
玲が小さく呟いた。
「何だ」
「知っている気がします」
「どこで?」
「分かりません」
「誰と見た?」
「……それも分かりません」
玲は蓋の裏側を見つめていた。その顔には、研究者としての好奇心とは違う戸惑いが浮かんでいる。
颯真は硯箱を閉じた。
「気にするな」
「でも……」
「分からないことは、分からないままでいい」
玲が顔を上げる。
「無理に答えを作ると、だいたいろくなことにならない」
しばらくして、玲は小さく頷いた。
「……分かりました」
その返事を聞いて、颯真は妙な気持ちになった。ほんの少し前まで、玲は数字とデータの向こう側にいる人間に見えていた。それが今は、分からないことを分からないまま受け止めようとしている一人の若い女に見える。
夕方が近づき、窓の外が少しずつ暗くなり始めたころ、玄関の戸が開いた。
「順調ですか?」
神崎だった。
颯真は少し驚いた。わざわざここまで研究責任者が出向いてくるとは思っていなかった。
「どうしてここが分かった?」
「玲から連絡を受けています」
神崎は教室へ入ると、机の上に並んだ半紙へ目を向けた。何枚もの同じ文字。その中から最後に書かれた一枚を取り上げ、しばらく眺めている。
「なるほど」
「何が?」
「以前のデータにはなかった変化が出ています」
「良くなったってことか?」
「そう単純な話ではありません。ただ、興味深い」
玲が言った。
「私は少し失敗しただけです」
「ええ」
神崎は穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、価値があります」
颯真はその言葉に引っかかった。
「失敗に価値があるのか?」
「ORIONにとっては」
「何のために?」
「予測できないものを理解するためです」
颯真は神崎を見た。
「お前たちは、どこまで人間を予測するつもりなんだ?」
「できるところまで、です」
「そこまでして何がしたい?」
神崎はすぐには答えなかった。やがて、窓の外へ目を向けながら静かに言った。
「人間が、間違った選択をしないようにしたいのです」
颯真は鼻で笑った。
「間違いのない人生なんて、つまらんだろ」
「つまらないと感じる人もいるでしょう。しかし、苦しまなくて済む人もいる」
「だからAIに決めてもらうのか」
「決めてもらうのではありません。最も幸福になる可能性の高い選択を提示するのです」
「それを選ぶのは誰だ?」
「最終的には、人間です」
その答えを聞いても、颯真の中の違和感は消えなかった。選択肢を提示するだけだと言いながら、その選択肢が常に「最も幸福なもの」として提示されるのなら、人間はいつか、それ以外を選ぶことに罪悪感を持つのではないか。
神崎は話題を変えるように、机の上の半紙を置いた。
「黒川さん。次回から、もう少し条件を厳しくしたいと思っています」
「何をする?」
「できるだけ同じ環境、同じ身体状態で、同じ文字を書いていただきます」
颯真は思わず笑った。
「身体状態はともかく、感情まで同じにできるわけないだろ」
「そうでしょうね」
「だったら無理だ」
「だから、お願いするんです」
神崎はそこで言葉を切り、颯真をまっすぐ見た。
「次回は、『最も思い出したくない文字』を書いていただけませんか?」
颯真の表情から笑みが消えた。
玲が神崎を見る。
神崎はそれ以上、説明しなかった。
その日の夜、颯真は誰もいない教室に戻った。電気は一つだけつけてある。机も硯も筆も昼間と同じ場所に並んでいるのに、昼間とは何かが違って見えた。
神崎の言葉が頭から離れない。
最も思い出したくない文字。
そんなもの、決まっている。
颯真は棚から一本の筆を取り出し、硯に水を落とした。墨を磨り、白い半紙を一枚だけ置く。それから筆を持って紙へ向かった。
だが、書けない。
筆先を紙へ近づけても、最後の数センチが埋まらない。何を書こうとしているのかは分かっている。それなのに、手が動かなかった。
颯真は目を閉じた。
すると、二十年前の病室が鮮明によみがえった。
夕暮れの光が窓から差し込み、薄いカーテンが風に揺れている。二十歳になったばかりの紗季は、窓際の小さな机に半紙を広げていた。病気のせいで以前より痩せていたが、その日は珍しく機嫌がよく、颯真が持ってきた筆と硯を何度も眺めていた。
紗季が筆を持つことになったのは、何か特別な理由があったわけではない。ただ、「一度くらい書いてみたい」と言っただけだった。
颯真は、そのときのことを覚えている。
筆の持ち方を教え、墨を含ませ、半紙を置いた。紗季は何度か書き直そうとして、そのたびに颯真に笑われた。上手く書けないことが悔しいのか、それとも楽しいのか、本人にも分からないような顔をして、それでも最後まで筆を止めなかった。
そして、最後の一画を書き終えたとき、颯真は言った。
――もっと、きれいに書けばいいのに。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が痛んだ。
颯真は目を開けた。
手にした筆が、わずかに震えている。
半紙は白いままだった。
まだ、一画も書かれていない。
壁際では、白い掛け軸が静かに揺れている。
そこには、何も書かれていなかった。
颯真は筆を置いた。
今度も、書くことができなかった。




