↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/12

第二章 書けない理由

# 第二章 書けない理由


 翌朝、颯真の端末に届いた案内には、昨夜のメールよりもさらに簡潔な言葉が並んでいた。指定された住所は都心の再開発地区に建つ巨大な複合施設の一角で、ORION開発局の研究棟と記されている。颯真にはほとんど縁のない場所だったが、メールの最後には来訪者用の認証コードまで添えられており、必要な手順だけが無駄なく並べられていた。

 指定された時間より少し早く到着すると、颯真は建物を見上げた。全面を覆うガラスには、夕方になれば空の色さえ映り込むのだろう。周囲の建物も似たような造りではあったが、その中でもORIONの研究棟はひときわ大きかった。かつて自分が出入りしていた文化会館や公民館とは、あまりにも違う世界である。

 入口に入ったところで、受付係らしい人間は見当たらなかった。代わりに天井のカメラが颯真の顔を読み取り、正面の壁に淡い文字が浮かび上がる。

 **黒川颯真様。本人確認が完了しました。十五階へお進みください。**

「便利なもんだ」

 思わず呟いたものの、返事はない。颯真は肩をすくめ、指示されたエレベーターに乗った。行き先を入力する必要すらない。認証情報を確認したらしい機械が、扉の閉まるのと同時に十五階への移動を始める。鏡のような壁に映った自分の姿を見ながら、颯真は自分がひどく場違いな人間に思えてきた。

 紺色の作務衣に、古びた筆入れ。研究施設へ来るのだから、もう少し普通の服を着てくればよかったとも思ったが、今さら遅い。そもそも、これまで自分が生きてきた場所では、筆と硯が場違いになることなどなかった。

 十五階に到着すると、音もなく扉が開いた。白い廊下がまっすぐ伸びている。壁も床も天井も余計なものがなく、案内表示は壁そのものに投影されていた。紙の掲示物は一枚も見当たらない。颯真が周囲を眺めていると、廊下の奥から見覚えのある女が歩いてきた。

「黒川さん。時間ぴったりですね」

 白石玲は昨日とほとんど同じ服装だった。白いシャツに黒いパンツ。髪もきちんと整っている。颯真は、彼女が本当に昨日と同じ服を着ているのか、それとも似た服を選んでいるだけなのか分からなかったが、そんなことを気にする自分のほうがおかしいような気もした。

「時間を指定されたからな」

「そうですか」

 玲はそれだけ言うと、来た方向へ戻るように歩き始めた。颯真も後に続く。

「昨日のメールは読んだ?」

「はい」

「なら、だいたい分かってるんだろ。俺は何をすればいい?」

「まず、研究責任者から説明を受けていただきます」

「責任者?」

「神崎さんです」

 聞き覚えのない名前だった。玲が立ち止まったのは、一枚の透明な扉の前だった。認証を終えると、扉が左右に滑って開く。部屋の中央には一人の男が立っていた。

 五十代半ばほどに見える。白髪の混じった髪はきちんと整えられ、濃紺のジャケットにも隙がない。室内には机も椅子もなく、ただ広い空間だけが広がっていたが、その男だけは、そこが自分のために用意された場所であるかのように落ち着いていた。

「初めまして。神崎 恒一です。お越しいただいてありがとうございます」

 差し出された手を、颯真は一瞬だけ見てから握った。

「黒川颯真です」

「遠かったでしょう」

「そうでもない」

「それならよかった」

 神崎は穏やかに笑い、颯真と玲へ視線を向けた。

「では、さっそく説明させていただきます」

 男が手を上げると、部屋の壁が一斉に暗くなった。次の瞬間、空中にいくつもの画像が浮かび上がる。楷書、行書、草書。古い時代の書から比較的新しい作品まで、さまざまな文字が次々と現れては消えていった。

 颯真はしばらくそれを眺めた。

「ずいぶん集めたな」

「約二千七百八十六万点です」

 昨日、玲が口にした数字と同じだった。

「これまでに収集・解析された、人間の筆跡データです。書道作品だけではありません。学生のノート、手紙、日記、署名、仕事上のメモなど、本人が特別な意識を持たずに書いたものも含まれています」

「随分と勝手なことをする」

「必要な手続きと同意のもとで収集したデータです」

 神崎は穏やかな口調を崩さない。

「我々が研究しているのは、文字そのものではありません。人間が文字を書くという行為です」

「文字じゃない?」

「はい。同じ人間が同じ文字を書いても、完全に同じものにはならない。昨日と今日で違うのはもちろん、同じ日に続けて書いても微妙に変化する。その変化がなぜ生じるのかを、我々は調べています」

 壁に映っていた書が消え、代わりに大量の数値とグラフが並んだ。

「体調、感情、姿勢、疲労、環境、過去の行動……文字に変化を与える要因は、すでにかなりの精度で特定されています。それでも、最後まで残るものがあるのです」

「何が?」

「なぜ、その瞬間にその線を引いたのか」

 神崎の声は静かだった。

「何を書くかは、かなり正確に予測できます。どのような文字を書くかも、ある程度は予測できる。しかし、なぜその瞬間に筆をそこへ運んだのか、なぜ途中でわずかに速度を落としたのか、なぜ最後の一画で力を抜いたのか。そうした部分になると、予測誤差が急激に大きくなる」

 颯真は腕を組んだ。

「人間だからだろ」

「はい」

 神崎はあっさり認めた。

「問題は、その『人間だから』という言葉を、ORIONは定義できないことです」

 颯真は壁に浮かぶデータを見た。数字は多すぎて、どこに意味があるのか分からない。ただ、それを扱っている人間にとっては、すべて意味があるのだろう。

「ORIONは、人間の行動を予測するために作られた人工知能です。ある人間が次に何をするかを、過去の行動履歴、環境、健康状態、経済状況、人間関係などから高い精度で予測する。その精度をさらに高めるためには、予測から外れる行動の原因を理解しなければならない」

「そのために書道を調べてる?」

「その一つです」

 神崎はそう答えてから、少し間を置いた。

「人間が文字を書く瞬間には、その人間が自分でも意識していない意思決定が大量に含まれています。だから、非常に興味深い」

 颯真は横目で玲を見た。彼女は壁に表示されたデータを見つめている。その横顔には好奇心のようなものがあるようにも見えたが、颯真にはそれが人間の好奇心なのか、単なる観察なのか分からなかった。

「それで、俺なのか?」

「正確には、あなたのような方が必要です」

「どういう意味だ」

「現在、手書きを職業として続けている人間は非常に少ない。それだけなら珍しいというだけですが、あなたの場合、過去二十年間の筆跡データに興味深い傾向があります。ほぼ同じ条件で同じ文字を書いた場合でも、特定の部分、とりわけ最後の一画に、他の書家には見られない変化が現れる」

 颯真は玲を見た。

「……俺の字を調べたのか?」

「公開されていた作品と、研究への協力が許諾された資料を確認しています」

「ずいぶん詳しいじゃないか」

「必要でしたから」

 玲は淡々と答えた。

「あなたは同じ文字を同じ条件で書いても、最後の一画だけが毎回わずかに違います。その違いには、現在のところ明確な規則性がありません」

「当たり前だ」

「なぜですか?」

「字を書くのに、毎回同じことなんかしないからだ」

 玲がわずかに首を傾けた。

「同じ文字なのに?」

「同じ文字だからって、同じ字を書かなきゃいけない理由はない」

 颯真は壁の文字を指差した。

「たとえば『道』を書くとして、昨日と同じ場所で、同じ筆を使って、同じ姿勢で書いたとしても、今日は昨日と同じ『道』を書こうなんて思わないだろ」

「では、今日の『道』と昨日の『道』は、何が違うんですか?」

「知らんよ」

「理由を説明できませんか?」

「できない」

 玲はじっと颯真を見た。

「それでは、研究できないのでは?」

 その言葉に、颯真は思わず笑った。

「そうだな。だから研究なんだろ」

 玲は答えなかった。

「人間ってのは、理由を説明できないからって、何もしなくなるわけじゃないんだよ」

 玲はしばらく黙っていた。やがて小さく視線を落とす。

「……それは、非合理的ですね」

「不合理だから、人間なんだろ」

 颯真がそう言うと、部屋の中に短い沈黙が落ちた。

 神崎は二人のやり取りを見ていたが、口を挟まず、再び画面を操作した。やがて部屋の中央に一台の机が現れる。机の上には硯、墨、半紙、そしていくつかのセンサーが並んだ。

「では、実際に書いていただきましょう」

 颯真は持ってきた筆入れを開いた。

「道具は自分のものを使う」

「もちろん構いません」

 玲が端末を操作すると、周囲のセンサーが一斉に起動した。小型カメラが筆先の位置を追い、机に取り付けられた装置が筆圧を読み取る。室内の温度や湿度まで測定されているらしい。

「大げさだな」

「筆を持ってから紙を離すまで、可能な限り記録します」

「それで、人間の何が分かるんだ?」

「分からないことを分かるようにするための装置です」

 玲の答えは簡潔だった。

 颯真は苦笑して椅子に座った。硯に水を入れ、墨を磨る。ざらり、ざらりという音が静かな部屋に響いた。それは、この場所にあるどんな電子機器よりも古い音だった。

「何を書けばいい?」

「自由に選んでください」

「じゃあ、『山』でいい」

 筆先を整え、半紙へ向かう。颯真は余計なことを考えず、一画目を置いた。筆が紙を滑り、穂先がわずかに開く。二画目、三画目と続け、最後の払いを終えて筆を上げた。

 室内のディスプレイに、今書いた「山」の軌跡が表示される。線の一本一本に筆圧や速度、角度の変化が重なり、文字そのものが複雑なデータへ変換されていく。

「もう一度お願いします」

 玲が言った。

「同じ『山』を?」

「はい」

 颯真は言われた通り、もう一度書いた。同じ筆、同じ墨、同じ半紙。同じ机に座り、ほとんど同じ姿勢で書いた。それでも、一枚目と二枚目は明らかに違っていた。三枚目、四枚目と続けるうちに、その違いはさらに目立ってくる。

「全部、少しずつ違いますね」

 玲が言った。

「当たり前だ」

 五枚目を書き終えたところで、颯真は半紙を並べた。素人が見ればどれも同じ「山」だろう。だが、書を知る人間なら違いが分かる。最初の入り方も、線の太さも、最後の払いの長さも、それぞれわずかに異なっている。

「なぜ違うんですか?」

「知らない」

「何か理由があるはずです」

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

「どちらですか?」

「だから、分からないんだよ」

 玲は五枚の半紙を見比べていた。しばらくすると、その視線が五枚目の「山」に止まる。

「五枚目だけ、書き始める直前に心拍数が上がっています」

「そうなのか?」

「二%ほど。呼吸には大きな変化がありません。姿勢もほぼ同じです」

「疲れたんじゃないか」

「その可能性はあります。ただ、疲労による変化としては不自然です」

 颯真は肩をすくめた。

「じゃあ、俺にも分からない何かがあったんだろ」

 玲は答えなかった。その沈黙を見て、颯真はふと思う。彼女は、分からないという状態を嫌っているのではないか。昨日から感じていた違和感の正体が、少しだけ見えた気がした。

 その後も実験は続いた。指定された速度で書く、できるだけゆっくり書く、目を閉じる直前まで筆を持ったまま待つ。同じ文字を何度も繰り返す。颯真にとっては退屈な作業だったが、玲にとっては一つひとつの動きが重要な情報なのだろう。彼女はほとんど休むことなく画面を見つめていた。

 一時間ほど経ったころ、神崎が部屋へ戻ってきた。

「率直な感想を聞かせていただけますか?」

「退屈だな」

 颯真が答えると、神崎は笑った。

「やはり、そうですか」

「字を書くのは好きだ。でも、こうやって全部数字にされると、どうにも落ち着かない。字ってのは、数字にするために書くものじゃないからな」

「比較するためには、数値化が必要です」

「比較する必要があるのか?」

 神崎は一瞬だけ黙った。

「必要だと、私は考えています」

「何のために?」

「人間を理解するために」

 その答えに、颯真は神崎の顔を見た。

「お前たちは、字を理解したいのか。それとも、人間を理解したいのか?」

「その二つは、別のものだと思いますか?」

 神崎は逆にそう尋ねた。

 颯真は答えなかった。

 研究の最後に、玲が颯真の前へ新しい半紙を置いた。

「最後に、一つだけ好きな文字を書いてください」

「好きな文字?」

「はい。何でも構いません」

 颯真は筆を持ったまま、白い紙を見つめた。いつもなら特に考えることもない。山でもいい。道でもいい。花でもいい。名前を書くという手もある。ところが、その日はなぜか、どの文字も頭の中で決め手を欠いていた。

 いくつかの文字が浮かんでは消える。これではない。では、こちらか。いや、それも違う。そうやって考えているうちに、時間だけが過ぎていく。

「どうしました?」

 玲の声がした。

「……分からん」

「何がですか?」

「何を書けばいいのか」

「好きな文字で構いません」

「だから、それが分からないんだ」

 颯真は紙から目を離さなかった。白い半紙が、妙に広く見える。

 しばらくして、颯真は筆を置いた。

「今日は書けない」

「疲れているんですか?」

「違う」

「では、なぜ?」

 颯真は答えようとして、やめた。自分でも言葉にするのは難しかった。しかし、結局はそのまま口にするしかなかった。

「書けない理由が分からないから、書けないんだ」

 玲の表情が変わった。ほんのわずかな変化だったが、颯真にははっきりと分かった。驚いたのか、戸惑ったのか、それとも別の感情なのかまでは判別できない。ただ、それまで一定だった彼女の表情が初めて崩れた。

 その直後、部屋の奥で電子音が鳴った。壁のディスプレイに、これまで見たことのない文字列が表示される。

 **予測整合性:判定不能**

 玲が振り返った。颯真も画面を見る。

「何だ、これ?」

 玲は答えなかった。

 ちょうどそのとき、神崎が部屋へ入ってきた。

「どうしました?」

「五号実験です」

 玲が画面から目を離さずに答えた。

「黒川さんが『好きな文字』を選択できませんでした」

「選択できない?」

「はい」

「理由は?」

「分からないそうです」

 神崎は画面を見つめたまま、何も言わなかった。ほんの数秒だったが、その沈黙は妙に長く感じられた。

「今日はここまでにしましょう」

 颯真は筆をしまった。

「もう帰っていいのか?」

「ええ。次回の日程については、玲から連絡させます」

 颯真は立ち上がり、部屋を出ようとした。しかし、扉の前でふと振り返る。神崎と玲は、まだディスプレイを見つめていた。

 自分が書けなかったことが、そんなに重要なのか。そう思ったが、尋ねる気にはなれなかった。

 研究施設を出ると、外は夕暮れになっていた。高層ビルのガラス壁が赤く染まり、駅へ向かう人々が足早に行き交っている。歩道の大型スクリーンには、ORIONの広告が流れていた。

 **あなたの未来を、もっと正確に。**

 続いて、穏やかな声が響く。

 **あなたにとって最も幸福な選択を、ORIONが提案します。**

 颯真は足を止め、しばらくその広告を眺めた。

「余計なお世話だ」

 小さく呟いて、歩き出す。

 その頃、研究施設の一室では、玲が一人で実験データを確認していた。画面には、颯真が筆を持ったまま動けずにいる映像が繰り返し映し出されている。数秒、十秒、さらに時間が経っても、彼は何も書かない。そして最後には、自分から筆を置いた。

 玲は映像を止めた。

 その横には解析結果が表示されている。

 **黒川颯真 予測成功率:91.7%**

 その下に、別の項目があった。

 **未解析領域:最終筆画における意思決定**

 玲はしばらくその文字を見つめていた。

 これまで何千万人分もの人間の筆跡を解析してきた。人間がどんな状況で筆を速め、どんな感情で力を弱め、どのような環境で線が乱れるのか、彼女は数字として知っている。けれど、今日見たものは、そのどれにも当てはまらなかった。

 颯真は何かを書かなかった。それだけなのに、ORIONにはその「書かない」という選択を予測することができなかった。

 玲は画面を閉じようとして、手を止めた。

「やっぱり……」

 思わず声が漏れる。

 何が「やっぱり」なのか、自分でも説明できなかった。

 胸の奥に、ごく小さな違和感がある。研究者としてなら興味と呼べるのかもしれない。けれど、それだけではないような気もする。

 玲は無意識に胸元へ手を当てた。

 心拍数が、いつもよりわずかに速くなっている。

 その理由を、彼女は知らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。