護法善神
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二千三十五年。不動覚仁博士によって『阿頼耶識』が開発された。
東京都千代田区の地下に設置された基幹装置である『阿頼耶識』本体と、全国七か所に設置された『眼識』『耳識』『鼻識』『舌識』『身識』『意識』『末那識』という七つの分枝装置、そして二億人の国民すべてに移植された『電脳種子』によって構成された生体統合式霊子コンピュータ。それが『阿頼耶識』だ。
『阿頼耶識』の登場によってこの国は大きく飛躍した。
二億人近い国民の、脳の未使用領域を『電脳種子』で演算素子化することで、理論上最大値となる10の68乗FLOPSに近い並列演算を実現。
この計算能力は科学技術の発展に大きく寄与し、科学技術だけでなく、文化、行政、司法、経済、軍事と、あらゆる面で斜陽となりつつあったこの日本を救うこととなったのだ。
「さて。君も知っての通り、『阿頼耶識』はこの国の根幹ともいえる枢密演算機だ。これが登場したからこそ、我が国は世界においても類を見ない程の高度情報化社会を実現できた」
局長は講釈でも垂れるように話し始めた。
高度情報化社会。それはつまり、『電脳種子』を介して、容易に情報をやり取りし、アクセスし、利用ができる社会。
『電脳種子』という演算素子を脳に埋め込まれた国民は今や、小学校高学年で位相空間論を理解し、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を諳んじることが出来る。
人工的に天才を生み出すシステム。
それが、『阿頼耶識』の持つもう一つの意義だ。
「一方で、深刻な欠陥も、当然ながら存在する」
局長は言葉を続ける。
深刻な欠陥。どれほど完璧に思えるようなシステムでさえ必ず存在する『蟻の一穴』。
『阿頼耶識』においてそれは、ある意味では最も根幹にあたる部分。『電脳種子』がそれだった。
「『電脳種子』は、人の脳を『阿頼耶識』と接続させる役割を持つとともに、その脳の未使用領域を利用して高度な演算を行う装置だ」
もちろん知っている。基礎教養だ。そして、この構造自体が欠陥そのものであった。
「前時代のノイマン型コンピュータが、『阿頼耶識』よりも優れていた点は何だね? 久瀬真邏」
「二進数を利用した、きわめて無機質かつ論理的な演算機構であったこと、です」
俺の回答に、局長は「よろしい」と満足気に頷いた。
「そう。その通り。ノイマン型コンピュータには無駄な変数が存在していなかった。あれは芸術品だよ、真邏君」
致命的な欠陥。深刻なセキュリティホール。その正体はノイマン式コンピュータではありえなかった『感情』という名の無駄な変数だった。
「感情という名の変数は、この国に新たな災害をもたらした」
正式名称、異常情報実体。
あるいは例えて曰く、『天魔』。
「人を、社会を狂わせる電子の病魔、『天魔』」
局長は忌々しそうにその名をつぶやく。
そういえば、局長のご家族は第一次特殊情報大災の折りに亡くなられたと聞いたことがあった。
「我々が築いた時にはもう遅かった。『阿頼耶識』は国全体に浸透し、『天魔』はひそかに蔓延していた」
二千三十七年一月四日の仏滅。正月気分の冷めやらぬ東京都新宿区の歌舞伎町で、その事件は起こった。
突如発狂した複数の男女によって引き起こされた凶行を皮切りに発生した一週間にも及ぶ一連の事件はのちに、第一次特殊情報大災として現代日本史に刻まれている。
死傷者数はざっと四千人を超える。
「元凶は、後にルーパ・マーラと呼称されることになった『天魔』だった」
局長がコンソールを操作すると、俺の網膜ディスプレイには一体の禍々しい化け物の姿が映し出された。
「正体にたどり着いた頃には、もう止めようがなかった」
『天魔』は、この時点で既に、人々に癒着し、浸潤していた。
原因は簡単に判明した。
感情という名の変数だった。
人々のストレスや悪感情が、『電脳種子』を通して『阿頼耶識』へと送られ、それが10の68乗FLOPSに近い計算能力によって幾何級数的に肥大化されたことで『天魔』は生まれた。
あまりにも皮肉な話だった。
『阿頼耶識』によってもたらされた繁栄は、『阿頼耶識』によっていとも簡単に崩壊した。
「しかし、今も。日本は、我々は今もこうして繁栄を享受している」
要するに、『天魔』を降しうる存在、『救世主』の誕生。
「何が切っ掛けだったのかは、今もなお判明していない。あるいは、救いを求める人々の祈念が、『阿頼耶識』に『天魔』への対抗手段を生み出させたのかもしれない」
「……『覚者』」
「その通りだよ」
最初の『覚者』は若い男性だったという。
『天魔』に対しての耐性を持ち、そしてそれを降す力を持った後天的な超能力者。
彼らがどのようなメカニズムでこの力を発現させているのか。それに関しては不明点が多い。
共通している点は、あらゆるものへの恐怖心と執着心が薄いこと。脳の特定領域が常人の三倍以上発達していること。そして、寿命が常人の半分ほどしかないことだ。
我々日本人の救世主。『天魔』への対抗手段をもった超越存在。
『覚者』とはつまり、護法善神。
——ただの人間兵器なのだ。
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「さて。長々と話してしまったかな」
局長は一息を吐くと、阿世知みくにへと視線を投げた。
俺は、今更こんな話をする意味が解らなかった。釈迦に説法と言っても過言ではない基礎的な話だからだ。
「なぜこんな話をしたのか。不思議に思っているね」
「ええ、まあ」
俺の表情から察したのだろう。局長が問うてくる。
「抜き打ちテスト、なんてわけではないでしょうに」
「君の今後に、ある意味では深くかかわってくることだからね」
「それは、どういう?」
みくにへの視線を外さずに、話しを続ける局長。
いまだにその意図はよくわからない。
「君にはこのみくにとバディを組んでもらう。それに伴って、局長室預かり……早い話が特命部署への異動を命ずることになる」
「ちょ……っと待ってください!? いきなり異動だなんて。それに、彼女がバディって、何の冗談なんです?」
阿世知みくにはどう見ても未成年だ。仮に『覚者』だと言っても、そんな彼女を戦わせることになるなんてありえない。法律はどうしたというのだ。
「その点は問題ない。内閣総理大臣肝いりの超法規的部署だ」
「!?」
頭がくらくらしてくる。まるで漫画か何かみたいな話だった。
なぜ、そこまでこの少女を特別扱いする? なぜ法すらも踏み越えて彼女を使う。何をもって、彼女は特別なのだ。
「『覚者』とは、つまり『電脳種子』を移植された存在だ」
「……常識ですね」
「けれども彼女。阿世知みくには違う」
「……え?」
信じられないものを見るような目で、阿世知みくにに視線を向ける。ちがう、とは? 論理的に考えるならば、『電脳種子』を移植されていないのだと、そう言っているように取れる。
けれどもそれは、ありえない。
「『電脳種子』の移植は法で義務付けられています。破れば重い罰則がある。ありえません」
もしこれが本当であるのなら、とんでもないことだ。
『電脳種子』の移植は、戸籍制度とも密接に関わっているのだから。
移植をしていないということは、つまり、『戸籍がない』ということだ。だからこそ、『電脳種子』の移植は絶対なのだ。
「察している通り、彼女は戸籍、人権がない」
何でもないことの様にいう局長の表情に、俺は強い違和感を覚えた。
「生まれついての『覚者』である彼女の特異性はそれだけではない」
呑み込めないまま話しは続く。これ以上なんだっていうのだ
「彼女は『天魔』を滅することが可能だ」
『天魔』を滅する。局長はそういった。『天魔』の登場から三十余年。どの『覚者』であれ、一時的に不活性化するに留まっていたそれを、完全に打ち滅ぼせると、そう言った。
「噂だけは聞いているのだろう? 彼女は特別だ。だからこそ、『Nobudy』でなければならない」
想像は簡単だ。彼女の情報が諸外国に知られてしまえば、狙われてしまうことは分かりきっている。
今の日本の状況を好く思っていない国などいくらでもいる。
「説明は以上だ。必要な資料は後ほど送る。今日はもう、帰り給え」
「ちょ、ちょっと」
聞きたいことは山とある。俺が、話しを打ち切ろうとする局長を引き留めようとしたときだった。
続く局長の言葉が、さらに追い打ちをかけてきた。
「みくにの引っ越しもしなくてはいけないからね」
……は?
「どういう、意味で?」
「荷物は、君の家へ一時間ほどで届くはずだ」
「まって。分からない」
「君には今日から、みくにの保護者として寝食をともにしてもらう」
本当に何を言っている?
俺の困惑など意にも介さず、話は進む。
「決して、みくにには手を出すんじゃないぞ」
殴るぞこのヒゲオヤジ。




