ノゥバディ
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「ねえ、真邏。結婚しよう」
真っ暗闇の世界で二人。俺と、そして向かい合わせになったまだあどけなさの残る顔の少女は、二人っきりで向かい合って立っていた。
少女の唐突なプロポーズに、俺は何も返せないでいる。
「パパでもいいよ。お兄ちゃんでも。叔父さんでも。おじいちゃんは……ちょっと難しいかな」
そんな俺に、少女は言葉を重ねる。
顔ははっきりと見えない。二つ結びにした髪と、名門の中高一貫校(俺の記憶が正しければ、女子校だったと思う)だけが嫌に印象的だ。
名前も、顔も。素性の一切を知らない。
そんな少女に、何故だか俺は特別な感情を向けている。その事実だけは、どうやら確からしい。
「なんでも差し出すから。だから」
——ずっと離れないでいてほしいんだ。
そんなことを宣う彼女は、はっきりとは認識できないその眼で俺を真っ直ぐに見据えている。
俺は言葉を紡げない。
彼女の切実で、懇願にも近いその言葉に。
見合うだけの誠実を見つけられない。
俺は彼女を傷つけたくないのだ。直感する。
俺は彼女を知らない。けれど、彼女は俺にとってかけがえのないほど大切な存在だ。それくらいのことは解る。
俺は何も答えない。応えられない。
そんな俺に少女は笑って言った。
「まだ答えなくていいよ」
でも。
「いつかきっと、私のことを」
——私のこの手をちゃんと握ってね。
ピピピピピ、と。
無機質なアラーム音が、俺の脳内に響き渡った。
同時に、まぶたにのしかかる太陽光が、俺に新しい朝が来たことを告げる。(もっとも、希望の朝ではないことは確かだ)
セットしていたタイマーによって全自動で開いたカーテンの向こうの窓。その先で燦燦と降りしきる太陽光を恨めし気に見つめながら俺はようやっと起き上がる。
すると今度は、俺の脳の覚醒を検出したAIによって、目覚めに最適な速度で部屋の電気が灯った。
「何だったんだ、あの夢は」
見ず知らずの少女にプロポーズされる夢。
それは決して、俺の脳に移植された『電脳種子』が見せた『明跡夢』なんかではなかった。(そもそも俺は設定していない)
嫌に現実感のある非現実的な夢だった。
何かしら、ストレスか何かが原因で見せられたものだったのだろうか。
夢占いなんて趣味はないが、その原因を解析しようとして、でもできなかった。
夢は、所々がおぼろげだった。
『電脳種子』が記録しているはずなのだが、しかし思い出せない。システムのバグだろうか? 週末に一度、電脳開発センターにでも行って見てもらったほうがいいかもしれない。
そんな風に思って、俺はベッドの上からのそりと動いた。
東京都千代田区霞が関。
この国の行政機関の中枢が集まるこの場所に、俺の職場である内閣特殊情報局もまた、存在している。
量子コンピュータ『阿頼耶識』の登場を機に二千三十九年に設置されたこの組織は、三十年たった今では、この日本において最も重要な組織に位置付けられていた。
存在意義は明瞭。
『阿頼耶識』の監理監督だ。
最も重要な組織。その言葉が意味するところはつまり、ここで働く官僚たちはこの国で最も優秀なエリートであるということに他ならない。
俺がエントランスの前に立つと、俺の脳に移植されている『電脳種子』がオフィスに設置された防犯機構に自動でアクセスし、そこに刻まれた個別情報を読み取る。
モノの一秒ほどで認証が完了すると、網膜ディスプレイには『お入りください』という事務的な文字の羅列が投影されて核兵器ですらびくともしない合金製の扉が重々しく開いた。
行きかう同僚たちに会釈をしながらオフィスの中央に鎮座するエレベーターに乗る数十秒で着いたのは、俺の配属先である『特殊情報災害対策室』だ。
「おはよう」
手短にそういうと、すでに働き始めていた同僚たちから軽い挨拶が帰ってくる。
それに応じつつ、俺が自分のワークスペースについてデスクトップの電源を入れた直後のことだった。
「久瀬さん。局長がおよびですよ」
背後からの声に振り向くと、そこには五つ下の後輩である妙典スズナが立っていた。
「何だ。妙典か。おはよう」
「おはようございます。局長がおよびですよ」
眼鏡に、パンツスーツ。黒い長髪をポニーテールにまとめた、いかにも仕事ができますよといった風体の妙典は、俺の随分な挨拶に気にする風でもなく要件を事務的に伝えてくる。
俺は、妙典が片手に持ったマグカップからコーヒーの匂いが漂ってくるのに気づく。
「なあ妙典。俺にもコーヒー淹れてくれよ」
「自分で淹れてください。異性にそれを頼むのは今時セクハラですよ?」
「堅いことを言うなよ。お前が淹れるとなんか旨いんだ」
俺の言葉に、妙典は「褒めても何も出ませんよ」と言いながら給湯室へと向かっていくのだから、何ともかわいい後輩である。その途中でこちらを振り向いて、「局長がおよびですよ」とか言わなければ完ぺきだった。
「おお、コーヒー飲んだら行くって言っといてくれ」
「それくらい自分で言ってください」
そう言って妙典は立ち去って行った。
局長ね。どうにも気が進まない話だ。
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妙典が淹れてくれたコーヒーをすすりながら、俺は網膜ディスプレイに映し出された新聞に目を通す。仕事柄、こういった情報メディアのチェックは欠かせないため、複数社の記事を読めるサブスクライブを契約している。『電脳種子』のおかげで、一度に全ての記事を読むことは、今や子供にだって出来ることだった。
目を通すのは特に、『特殊情報災害』関連の記事。
俺の仕事に直接関わっている部分だ。
幸いなことに、これに関連した記事は今日のところは少なかった。これが一面記事になっていた日には、一週間は家に帰れないことになる。
「局長がおよびですよ」
さっきも聞いた。
振り返ると妙典がいた。
「分かってるよ。飲んだら行くって」
「早くしてください。私が怒られるんですから」
「あーわかったわかった」
邪険に俺が手を振ると、妙典はさすがに気を悪くしたような表情を浮かべる。
「さっきから久瀬はまだ来んのかと、一分おきに電脳チャットに催促してくるんです」
「せっかちなことで」
「あれから三十分はたっています」
時計を見る。十時四十二分。三十分どころではなかった。
「あー、悪い」
さすがに居心地が悪くなった俺は、そそくさと冷めきったコーヒーをあおる。
「というか、俺に直接連絡してこればいいものを」
「こうするのが一番最適だって局長も理解されているのでしょう」
久瀬さん、平気で一時間は気づかないふりをするじゃないですか、と。妙典は非難がましく俺に言う。
「いい加減、いい迷惑なんです」
そう言われてしまっては極まりが悪い。
俺は顔をしかめてデスクから立ち上がる。
「ダッシュ」
そんな妙典の言葉を背に、俺はのそのそと局長室まで向かった。
「久瀬です」
局長室の前。俺は居住まいをただしてから扉の奥に声をかける。
ややあって、重厚な扉が自動で開くと、その向こうには内閣特殊情報局の局長である久遠善治と、中学生くらいの少女が立っていた。二つ結びの髪に、名門である女子校の制服。
今日の夢が一瞬だけ過った。
けれどもそれを一瞬で振り払った俺は、局長へと視線を向ける。
「それで、要件というのは」
とっとと話しを終わらせてこの場から立ち去りたい。
そんな想いで早速切り込んだ俺だったが、どうやら局長は甘くないらしい。
「随分と遅かったな」
「えーっと、少し腹の調子が悪くて」
恥も外聞もなく、腹をさすりながら応えると、局長はにこやかな笑みを崩さずに言う。
「それならコーヒーはよくないんじゃないかな」
妙典め。咄嗟に俺は悟る。チクったな。
「あーいや、その……」
「ん?」
「申し訳ございませんでした」
笑顔のままだというのに、このカイゼル髭は圧力が強い。
俺はその圧に屈して頭を下げる。
「私の呼び出しよりも新聞記事のほうが大事かね」
「重ねて、申し訳ございません」
嫌味な奴だ。怒るならば怒ればいいのに。
胃がキリキリと痛む。妙典の「自業自得ですね」の声が幻聴で聞こえてくる。
すぐ近くに、未成年の少女がいることすらも今は意識の外。
とにかく頭を下げ続ける。
「本当に、申し訳ございません」
「よろしい」
許された。
頭を上げた俺は、少女へと一瞥をくれてから局長へと向き直る。
「それで、要件というのは」
「君が最後に監査官として現場に出たのは一年前だったね?」
局長のその言葉、俺の表情は歪む。あまり思い出したくないことだったからだ。
「ええ、まあ」
「身体の調子は?」
「医者からはもう、十分に回復していると」
なんだ? 嫌な予感がする。これは、そこに立っている少女と関係しているのか?
「よろしい」
俺の言葉に局長は頷く。
ちょっと待て。待ってくれ。不味い。この流れはちょっと不味い。
額から冷や汗が垂れる。ワイシャツが汗ばんでぐしゃりと塗れた不快な感触が際立って感じる。
「きょ、ききょくちょ——
「君に、新しい『覚者』をつけることになった」
局長は俺の言葉を遮って続ける。
「ここにいる、彼女だ。挨拶をしたまえ」
局長に促された少女は一歩前に進み出ると、俺に頭を下げた。
「阿世知みくに。十四歳」
阿世知みくにと名乗った少女は、顔をあげる。その視線に俺は、情けないことに射すくめられる。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします。久瀬真邏さん」
喉がなった。
『阿世知みくに』
その名前には聞き覚えがあった。
曰く、『ノゥバディ』。
内閣特殊情報局の官僚ですら、名前を除いてもう一つの情報以外知らない。だからこそ『Nobody』。
今までにパートナーとなった監査官全てが一か月以内に殉職した『覚者』。だからこそ『NoBuddy』。
——俺たち監査官にとって最大級の厄ネタだ。




