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第9話「通れない方で行きます」


足音は、途中で四人分になった。


ぺたり。


こつ。


ぺたり。


ぺたり。


憂起ちゃんは止まった。


隣を歩いていたクルーも止まる。


廊下が静かになった。


「……増えた?」


「はい」


「どれ?」


憂起ちゃんは床を見る。


濡れた小さな足跡。


一つ。


二つ。


三つ。


それから、少し離れて四つ目。


「……分かりません」


「分かんないの?」


「私、足音ないので」


「それは知ってる」


「だから、三つとも知らないです」


相手が振り返った。


誰もいない。


古いパンデモニウムの廊下。


白かったはずの壁は黄ばんでいる。蛍光灯は一本おきに死んでいて、床を濡らした水だけが、残った灯りを細長く映していた。


ぺたり。


背後で鳴った。


「走る?」


「追います?」


「なんでそっちなの?」


憂起ちゃんは少し考えた。


「……気になるので」


「でしょうね」


だんだん理解されている。


少し嬉しい。


足跡が曲がった。


二人も追う。


角。


階段。


地下へ。


さらに地下へ。


古い案内板には『倉庫』とある。


その下へ、誰かが手書きで矢印を足していた。


↓

↓

↓


三つ。


階段はまだ続いている。


「こんな地下あった?」


「知りません」


「あなたの店でしょ?」


「たぶん違います」


「帰ってきたんじゃなかったの?」


「帰ってきてないことになってます」


「そうだった」


順応が早い。


階段の最後に、鉄扉があった。


取っ手。


鍵穴。


南京錠。


その横の壁には、子供の手で描いたような赤い丸。


足跡は扉の下で途切れている。


憂起ちゃんは扉へ顔を近づけた。


「待って」


「まだ入ってません」


「今から入る顔してる」


どんな顔なのだろう。


憂起ちゃんは壁へ手を入れた。


抜ける。


そのまま肘まで。


「入れる?」


「はい」


「じゃあ中見てきて」


憂起ちゃんは止まった。


相手を見る。


扉を見る。


もう一度、相手を見る。


「……来ないんですか」


「行けないでしょ」


「はい」


「だから見てきて」


一人で。


それなら簡単だった。


壁を抜ける。


危なければ戻る。


壊されても身体置き場へ帰る。


今までずっと、それでよかった。


憂起ちゃんは腕を壁から抜いた。


「……鍵、探しませんか」


「え?」


「たぶん、どこかにあります」


「いや、あなた入れるよね?」


「入れます」


「じゃあ」


「でも、一人になるので」


口から出てから。


憂起ちゃんは黙った。


相手も黙った。


言い直したかった。


違う。


別に寂しいわけではない。


一人は好きだ。


一人なら自由だ。


説明しなくていい。


待たなくていい。


壁も床も扉も関係ない。


ずっと、その方が楽だった。


「……鍵、探しましょう」


相手が言った。


それ以上、何も言わなかった。


助かった。


     *


鍵は見つからなかった。


代わりに地下二階の事務所から、錆びたバールが出てきた。


「これで壊す?」


「開けられます?」


「たぶん」


「じゃあお願いします」


「あなた、こういう時だけ人使い荒くない?」


憂起ちゃんはバールを持てない。


なので見ていた。


相手が南京錠へ差し込む。


力をかける。


金属が軋む。


憂起ちゃんは横から覗く。


「近い近い」


「見えないので」


「何が?」


「壊れるところ」


「そんなに見たい?」


「はい」


南京錠が弾けた。


床を跳ねる。


からん。


「おお」


思わず声が出た。


「そんな嬉しい?」


「自分ではできないので」


相手はバールを肩へ担いだ。


少し得意そうだった。


扉を開く。


冷たい空気が流れた。


向こうは倉庫ではなかった。


水だった。


扉のすぐ先から、暗い水が垂直に立っている。


床から天井まで。


一滴もこちらへ流れてこない。


境界だけが、硝子板のように揺れている。


その向こう。


濡れた小さな足跡が。


水中を歩いていた。


「……どうなってるの」


「面白いですね」


「感想それ?」


憂起ちゃんは顔を水へ入れた。


冷たくない。


呼吸もいらない。


視界が青黒く変わる。


奥に廊下が続いている。


水没している。


かなり長い。


途中に何か浮いていた。


赤と黄色の紙袋。


また。


憂起ちゃんは顔を戻した。


「行けます」


「私は?」


「……息、どれくらい止められます?」


「無理無理無理」


まただ。


憂起ちゃん一人なら簡単だった。


水は問題にならない。


どこまででも行ける。


相手には問題になる。


「別の道探す?」


憂起ちゃんは水を見る。


入りたい。


かなり。


紙袋も見たい。


足跡も追いたい。


その先に何があるのか。


今すぐ。


「……はい」


言った。


相手が少し笑った。


「偉いじゃん」


また褒められた。


悪くない。


     *


別の道は、さらに面倒だった。


換気ダクト。


閉鎖された搬入口。


途中で崩れた階段。


なぜか冷蔵庫の裏へ繋がる通路。


行き止まり。


行き止まり。


行き止まり。


憂起ちゃんだけなら、全部行き止まりではない。


壁の向こうが見える。


床の下も見える。


天井裏も通れる。


だから憂起ちゃんが先に顔だけ入れ、


「こっちは駄目です」


「なんで?」


「縦に三百メートルくらい落ちます」


「なんで店の地下にそんなものあるの?」


「分かりません」


別の壁。


「こっちは?」


顔を入れる。


戻す。


「海です」


「なんで?」


「分かりません」


また別。


「ここは?」


憂起ちゃんは壁へ入った。


三秒。


戻ってこない。


十秒。


「ゆうき?」


二十秒。


壁から頭だけ出た。


「すみません」


「びっくりした!」


「遠かったです」


「壁だよね!?」


「はい」


「何が!?」


「向こう側が」


それ以上は説明できなかった。


本当に遠かった。


     *


一時間ほど歩いた頃。


相手が床へ座った。


「休憩」


「はい」


憂起ちゃんも隣へ浮いた。


「あなた疲れないんだっけ」


「はい」


「お腹は?」


「空きません」


「喉」


「渇きません」


「ずるい」


「そうですか?」


「そうだよ」


相手はポケットから小さな菓子を出した。


包装を破る。


一つ食べる。


もう一つ。


憂起ちゃんへ差し出しかけて。


止まった。


「あ」


「食べられません」


「ごめん」


「大丈夫です」


相手が食べる。


さく。


静かな廊下に音が響いた。


憂起ちゃんはそれを聞いていた。


少し。


羨ましい。


味ではない。


渡されること。


受け取ること。


一緒に食べること。


たぶん、その辺り。


「……美味しいですか」


「普通」


「そうですか」


「帰れたらあげるよ」


「食べられません」


「身体に戻れば?」


憂起ちゃんは相手を見た。


「戻れるんでしょ?」


「……はい」


「じゃあ、その時」


菓子の袋を一つ、ポケットへ戻した。


憂起ちゃんは何も言わなかった。


何と言えばいいのか分からない。


だから。


「……ありがとうございます」


それだけ言った。


     *


水の廊下へ戻ったのは、そのさらに二時間後だった。


反対側から。


そこには普通の扉があった。


憂起ちゃんが見つけた。


相手が開けた。


二人で入った。


水はない。


さっきまで水没していたはずの廊下は乾いている。


赤と黄色の紙袋だけが、床の中央に置かれていた。


そして。


その横。


小さな子供が立っていた。


背を向けている。


憂起ちゃんは止まった。


相手も止まる。


来ないで。


感情が来る。


同時に。


待ってた。


憂起ちゃんは眉を寄せた。


「……感情だけ先に来るの、あまり好きじゃないです」


子供が振り返った。


顔は見えなかった。


そこだけ水面みたいに揺れている。


小さな手が上がる。


差し出された。


あの手。


憂起ちゃんは一歩進んだ。


隣から靴音。


もう一歩。


二人で近づく。


手が待っている。


憂起ちゃんは自分の手を見た。


触れない。


たぶん。


でも以前、握った感触を見た。


記憶か。


未来か。


分からない。


手を伸ばす。


指先。


触れた。


温かかった。


憂起ちゃんの目が少し開く。


握れる。


ちゃんと。


子供が握り返した。


次の瞬間。


景色が消えた。


     *


厨房だった。


油の匂い。


フライヤー。


換気扇。


知っている声。


知っているパンデモニウム。


憂起ちゃんは立っていた。


隣に、あのクルー。


子供はいない。


紙袋もない。


ただ。


握った右手だけに。


まだ温度が残っていた。


「帰れた?」


訊かれる。


憂起ちゃんは店内を見る。


今度は。


来ないで。


が来ない。


「……たぶん」


「じゃあ名前教える」


憂起ちゃんは振り返った。


「約束したでしょ」


そうだった。


ずっと知りたかった。


なのに。


憂起ちゃんは相手のポケットを見た。


「……その前に」


「何?」


「お菓子」


相手が目を丸くする。


憂起ちゃんは自分の身体を見る。


霊体のまま。


「……あ」


食べられない。


忘れていた。


相手が吹き出した。


憂起ちゃんは黙った。


かなり恥ずかしい。


「身体、取りに行く?」


「……遠いです」


「どこ?」


「安全なところです」


「どのくらい?」


憂起ちゃんは少し考えた。


「歩くと、たぶん三年くらい」


笑い声が厨房に響いた。


憂起ちゃんは俯いた。


それから。


少しだけ笑った。


遠回りも。


悪くなかった。

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