第8話「帰ってきてないことにします」
壁一枚向こうは、帰る場所のはずだった。
油の匂い。
換気扇。
食器が触れる音。
遠くで誰かが笑っている。
知っている。
パンデモニウムだ。
憂起ちゃんは壁へ半分だけ顔を入れた。
厨房。
見慣れた作業台。
フライヤー。
冷蔵庫。
いつもの床。
誰かが横切った。
知っているクルーだった。
帰ってきた。
普通なら、そういう場面だった。
でも。
来ないで。
感情がまた来た。
強い。
憂起ちゃんは顔を引っ込めた。
「どうしたの?」
隣で、知らないクルーが訊いた。
「……います」
「何が?」
「みんな」
「じゃあ帰れるじゃん」
「はい」
「行かないの?」
憂起ちゃんは壁を見る。
帰りたい。
少し。
店の匂いを嗅いだせいで、さっきより帰りたくなった。
誰かに「憂起ちゃん」と呼ばれて。
「……はい」
と答える。
それだけでいい。
それだけなのに。
来ないで。
「……ちょっと待ちます」
「何を?」
「分かりません」
「また?」
「はい」
知らないクルーが壁へ近づいた。
憂起ちゃんは反射的にその前へ出た。
「待ってください」
「え」
「そっちは」
言葉を探す。
危険。
かもしれない。
異常。
いつものこと。
何かいる。
何かは分からない。
全部、説明にならない。
「……私が先に見ます」
「壁の向こうなんでしょ?」
「はい」
「あなたの店なんでしょ?」
「はい」
「なのに?」
「はい」
知らないクルーが眉を寄せた。
憂起ちゃんはソウルハイドを使った。
自分の輪郭が薄れる。
気配も消える。
完全に。
ここからは慣れている。
誰にも見られない方が、ずっと楽だった。
「じゃあ、見てきます」
「ちょっと」
もう聞こえないふりをした。
壁へ入る。
厚さ。
二十センチほど。
抜ける。
厨房。
誰にも気づかれない。
当たり前だった。
ソウルハイド中だから。
憂起ちゃんは天井近くまで上がった。
まず見る。
クルー。
いつも通り。
客席。
いつも通り。
注文。
いつも通り。
冷蔵庫。
いつも通り。
床。
少し濡れている。
憂起ちゃんは止まった。
厨房の隅。
モップ掛けをしたような水跡。
でも。
その端に。
小さな足跡。
一つ。
ぺたり。
誰も気づいていない。
憂起ちゃんは近づいた。
足跡は厨房から客席へ続いている。
小さい。
裸足。
濡れている。
追う。
カウンターを抜ける。
客席。
昼時には少し早い。
客は三組。
誰も足跡を見ていない。
足跡はテーブルの間を通り。
窓際。
止まる。
椅子。
一脚だけ、少し引かれていた。
そこに誰かが座っている。
ように見えた。
何もいない。
憂起ちゃんは向かいの席へ浮かんだ。
「…………」
返事はない。
待っている。
来ないで。
二つの感情。
同じ場所から。
憂起ちゃんは首を傾げた。
「どっちです?」
返事はない。
「待ってるんですか」
待っている。
「来てほしくないんですか」
来ないで。
「……難しいですね」
人との会話より難しかった。
ベルの方がまだ分かりやすい。
椅子を見る。
座れない。
なので椅子の高さに合わせて浮いた。
向かい合う。
「私、帰ってきました」
来ないで。
「まだ帰ってきてないことにします?」
反応が止まった。
憂起ちゃんは少し待った。
五秒。
十秒。
嬉しい。
来た。
「……それでいいんですね」
たぶん。
かなり雑な合意だった。
でも、話が進んだ。
憂起ちゃんは厨房へ戻った。
壁を抜ける。
知らないクルーが腕を組んで待っていた。
「遅い」
「……すみません」
「何があった?」
「帰ってきてないことになりました」
「何?」
やっぱり説明すると長い。
「店の中に何かいます」
「何?」
「分かりません」
「子供?」
「たぶん」
「見えた?」
「見えません」
「じゃあ何で子供?」
「足が小さいので」
知らないクルーは黙った。
「それで?」
「私が帰ると嫌みたいです」
「なんで?」
「分かりません」
「あなた、本当に分かんないことばっかりだね」
少し傷ついた。
事実なので反論できない。
「でも待ってるんでしょ?」
「はい」
「誰を?」
「……たぶん、私を」
「帰ってきたら駄目なのに?」
「はい」
知らないクルーは頭を抱えた。
憂起ちゃんは少し安心した。
自分だけ分からないのではないらしい。
「じゃあどうするの」
憂起ちゃんは考えた。
自分が店へ戻ると「来ないで」。
戻っていないことにすると「嬉しい」。
つまり。
入らなければいい。
でも調べたい。
なら。
「……外から見ます」
「どうやって?」
憂起ちゃんは床を見た。
「下から」
知らないクルーが嫌な顔をした。
「私、壁抜けできないんだけど」
忘れていた。
一人なら簡単。
二人だと難しい。
まただ。
憂起ちゃんは少し考える。
「ここで待ってます?」
「嫌」
即答だった。
「じゃあ」
「普通の入口探そう」
普通。
その発想がなかった。
二人で廊下を戻る。
休憩室。
事務所。
古い厨房。
小さな扉。
その先。
知らないパンデモニウム。
そこから自分の店へ繋がる普通の入口を探す。
かなり遠回りだった。
憂起ちゃん一人なら、壁を抜ければ一秒。
でも。
少し楽しかった。
「あなた、名前は?」
歩きながら、知らないクルーが訊いた。
憂起ちゃんは止まった。
そういえば。
まだ名乗っていなかった。
向こうも名乗っていない。
一緒に宇宙の話をして。
変な扉へ入って。
子供の靴を拾って。
帰り道まで来たのに。
名前を知らない。
「……憂起です」
「ゆうき」
「はい」
「私は」
その瞬間。
ちりん。
ベル。
二人とも止まった。
「また?」
「……はい」
今度は近い。
廊下の壁。
その向こう。
ちりん。
知らないクルーが壁を見る。
「そこ?」
「たぶん」
憂起ちゃんは顔を入れた。
何もない。
配管。
断熱材。
コンクリート。
そのさらに向こう。
空間。
狭い。
人一人が通れるくらい。
「……道があります」
「扉は?」
「ないです」
「じゃあ無理じゃん」
憂起ちゃんは戻った。
知らないクルーを見る。
壁を見る。
知らないクルーを見る。
「何、その顔」
「……困りました」
「珍しいね」
失礼だった。
でも否定できない。
憂起ちゃんは壁の中へもう一度入った。
隠し通路。
奥を見る。
濡れた足跡。
続いている。
その先。
赤と黄色。
紙袋。
また。
そして。
その横に。
小さな手が見えた。
憂起ちゃんは止まった。
白い。
子供の手。
壁の奥から伸びている。
手首から先だけ。
こちらへ向いている。
待っている。
憂起ちゃんは近づいた。
前に見た感覚が蘇る。
小さな手。
温かい。
握れる。
あれは記憶だったのか。
未来だったのか。
分からない。
でも。
今。
目の前にある。
手が少し動いた。
指が開く。
憂起ちゃんも手を伸ばした。
触れる直前。
来ないで。
強烈に来た。
憂起ちゃんは止まる。
手は待っている。
感情は来ないで。
「…………どっちです?」
返事はない。
その時。
背後から。
どん。
鈍い音。
憂起ちゃんは振り返った。
壁の向こう。
知らないクルーが叩いている。
どん。
「ゆうきー?」
声はほとんど聞こえない。
憂起ちゃんは手を見る。
知らないクルーを見る。
手。
知らないクルー。
手。
困った。
かなり。
一人なら。
たぶん、もう握っていた。
でも今は。
向こうで待っている人がいる。
そのことが。
少しだけ判断を変えた。
憂起ちゃんは手を引いた。
「……先に、入口探してきます」
小さな手へ言った。
来ないで。
「はい」
待っている。
「あとで来ます」
嬉しい。
どうやら、それでいいらしい。
本当に難しい。
憂起ちゃんは壁から出た。
「何してたの?」
知らないクルーが訊く。
「手がありました」
「手?」
「はい」
「誰の?」
「分かりません」
「触った?」
「触ってません」
知らないクルーが驚いた。
「触ってないの?」
「はい」
「あなたが?」
「……はい」
なぜ二回確認されたのだろう。
「偉いじゃん」
褒められた。
憂起ちゃんは少し嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「で、入口は?」
「分かりません」
「そこは分かんないんだ」
二人で歩き出す。
少しして。
憂起ちゃんは気づいた。
「……名前」
「ん?」
「まだ聞いてません」
「ああ」
知らないクルーが笑った。
「帰れたら教える」
「なんでです?」
「その方が面白くない?」
憂起ちゃんは考えた。
少し。
似ている。
やっぱり。
「……分かりました」
廊下の先。
二人分ではない足音がした。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
知らないクルーの靴音。
その隣。
濡れた小さな足音。
憂起ちゃんには足音がない。
だから。
三人で歩いているのに。
聞こえるのは二人分だった。
憂起ちゃんは振り返らなかった。
今は。
帰ってきていないことになっている。
それならもう少しだけ。
この変な帰り道を歩いてみたかった。




