第7話「一緒に来るんですか」
「帰ってきた」
そう感じた。
声ではない。
耳にも入っていない。
それでも、その意味だけが胸の内側へ落ちてきた。
憂起ちゃんは小さな扉を見た。
扉の下には、一滴ぶんの水。
それ以上は出てこない。
「…………」
開けたい。
かなり。
問題が一つあった。
後ろに人がいる。
「ねえ」
知らないクルーが言った。
「それ、何?」
「……分かりません」
「分かんないの?」
「はい」
「なのに近づくの?」
憂起ちゃんは振り返った。
質問の意味が、少し分からなかった。
分からないから近づくのではないだろうか。
「……気になるので」
「いや、そうだけど」
知らないクルーは紫色のパティを持ったトングを置いた。
厨房の照明は白い。
フライヤーの油が鳴っている。
換気扇。
冷蔵庫。
作業台。
パンデモニウム。
よく知っているものばかりなのに、配置が少しずつ違う。
間違い探しの中にいるみたいだった。
そして、その間違い探しの奥に。
絶対に間違っている扉がある。
「触らない方がよくない?」
「……私は触れません」
「そういう意味じゃなくて」
憂起ちゃんは扉へ手を伸ばした。
指が取っ手を抜ける。
やっぱり触れない。
「ほら」
「ほら、じゃないよ」
少し怒られた。
知らない人に怒られるのは苦手だった。
何と返せばいいのか分からない。
憂起ちゃんは黙った。
三秒。
五秒。
相手も黙った。
助かった。
扉を見る。
入るだけなら簡単だ。
壁も扉も関係ない。
ただ。
前にこれを抜けた時は、向こう側から弾き出された。
今度はどうだろう。
帰還そのものはいつでもできる。
だから失敗は怖くない。
失敗した結果が分からないのが、少し面白い。
憂起ちゃんは顔を扉へ近づけた。
「ちょっと待って」
肩を掴まれた。
正確には。
掴もうとした手が、肩を抜けた。
知らないクルーの目が丸くなる。
憂起ちゃんも止まる。
「……すみません」
「なんでそっちが謝るの」
「なんとなく」
相手は自分の手を見る。
もう一度、憂起ちゃんを見る。
「本当に幽霊なんだ」
「はい」
「死んでる?」
「だいたい」
「だいたい?」
説明すると長い。
憂起ちゃんは扉へ向き直った。
「じゃ、行ってきます」
「待って待って待って」
また止められた。
面倒だった。
一人なら、もう入っている。
人と一緒にいると、扉一枚抜けるだけでも時間がかかる。
これが社会というものかもしれない。
たぶん違う。
「戻れるんですか?」
「最悪、戻れます」
「どこに?」
「身体置き場です」
「身体置き場」
「はい」
「何それ」
やっぱり説明すると長い。
憂起ちゃんは少し考えた。
「……家みたいなものです」
かなり違う気がした。
「じゃあ安全なの?」
「私は」
知らないクルーが扉を見た。
それから自分を指した。
「私は?」
憂起ちゃんも相手を見た。
「…………」
考えていなかった。
「分かりません」
「でしょうね」
呆れられた。
でも。
少しだけ、嬉しそうにも見えた。
変な人だった。
こちらが言えることではない。
「じゃあ開けない」
知らないクルーは言った。
「……開けたいです」
「開けない」
「少しだけ」
「駄目」
強い。
憂起ちゃんは困った。
物理的な障害なら抜けられる。
生き物なら避けられる。
攻撃なら当たらない。
でも「駄目」と言われると、抜け方が分からない。
「…………」
「そんな顔しても駄目」
どんな顔をしているのだろう。
憂起ちゃんには分からなかった。
たぶん、いつもと同じ顔だった。
その時。
ちりん。
扉の向こうでベルが鳴った。
二人とも黙った。
ちりん。
もう一度。
知らないクルーが一歩下がる。
憂起ちゃんは一歩近づく。
反対だった。
「待って」
「呼ばれてます」
「だから何で行く方向なの?」
「呼ばれたので」
「知らない何かに?」
「はい」
「怖くない?」
怖い。
少し。
行きたい。
かなり。
いつもの比率だった。
「……帰れますから」
口にしてから、少しだけ違うと思った。
自分は帰れる。
この人は帰れるか分からない。
それなら。
「ここにいてください」
憂起ちゃんは言った。
「私だけ見てきます」
知らないクルーは眉を寄せた。
「一人で?」
「一人でも、たぶん大丈夫です」
「さっき宇宙で迷子になった人が?」
「散歩です」
「それはもういい」
なぜか信じてもらえない。
憂起ちゃんは扉の前へ立った。
抜ける。
その瞬間。
後ろで金属音がした。
知らないクルーがトングを拾っている。
「……何してるんですか」
「行く準備」
「来るんですか」
「あなた一人で行かせる方が怖い」
意味が分からなかった。
憂起ちゃんは危険に強い。
少なくとも、この人よりは。
「でも、私、守れないです」
「私もあなたを守れる気しない」
「じゃあ」
「だから一緒に行く」
理屈が一周していた。
憂起ちゃんは考える。
一人の方が楽だ。
壁も抜けられる。
天井も行ける。
逃げる必要もない。
誰かがいると待たなければならない。
道を選ばなければならない。
説明もしなければならない。
かなり面倒だった。
「……嫌です?」
知らないクルーが訊いた。
憂起ちゃんは答えようとした。
嫌。
ではない。
面倒。
でも。
少し面白そう。
一人ではできないことが起きそうだった。
「……別に」
たぶん、了承になった。
知らないクルーが笑った。
「じゃ、決まり」
「決まったんですか」
「決まった」
勝手だった。
憂起ちゃんは、少しだけ気に入った。
問題は扉だった。
憂起ちゃんは通れる。
相手は通れない。
取っ手を回す必要がある。
「開けてください」
「結局それ?」
「私、触れないので」
知らないクルーが取っ手へ手を伸ばす。
憂起ちゃんは、その手を見る。
握る。
回す。
それだけ。
それだけのことを、自分はできない。
少し羨ましい。
でも。
自分には、この人が通れないところを通れる。
たぶん、それでいい。
取っ手が回った。
かちり。
扉が開く。
向こうには暗い廊下があった。
古い白タイル。
蛍光灯。
水滴。
知っている。
憂起ちゃんが前に見た、古いパンデモニウムの廊下。
『休憩室』
『事務所』
『搬入口』
札まで同じ。
「……ここ」
「知ってるの?」
「前に来ました」
「帰れる道?」
「分かりません」
「何なら分かるの?」
憂起ちゃんは少し考えた。
「……面白かったです」
知らないクルーが額を押さえた。
二人で入る。
今度は弾き出されなかった。
一歩。
二歩。
知らないクルーの靴が、水を踏む。
ぺたり。
憂起ちゃんには足音がない。
並んで歩いているのに、一人分しか音がしない。
不思議だった。
いつもなら気にしない。
今日は、相手の足音があるせいで、自分に足音がないことがよく分かる。
「静かだね」
「はい」
「あなたじゃなくて、ここ」
「……私も静かです」
「知ってる」
少しだけ笑われた。
憂起ちゃんは前を向いた。
嫌ではなかった。
廊下の先。
角を曲がる。
濡れた小さな足跡。
二人とも止まった。
憂起ちゃんは知っている。
知らないクルーは知らない。
「これ?」
「前にもありました」
「子供?」
「見てません」
「追った?」
「はい」
「でしょうね」
なぜ分かったのだろう。
足跡は続いている。
以前とは逆方向へ。
搬入口の方へ。
二人で追う。
搬入口。
シャッター。
積まれた箱。
台車。
全部、古い。
埃が積もっている。
なのに。
中央に一つだけ。
新しい赤と黄色の紙袋があった。
「また袋」
知らないクルーが言った。
「はい」
「入る?」
憂起ちゃんは紙袋を見る。
「……今回は、まだ」
少し成長した。
自分でもそう思った。
紙袋の横に、小さな靴があった。
片方だけ。
水没した街で見たものと似ている。
憂起ちゃんが近づく。
悲しい。
感情が来る。
次に。
嬉しい。
その次。
寂しい。
そして。
帰ってきた。
また。
憂起ちゃんはしゃがんだ。
靴へ手を伸ばす。
抜ける。
「触れないんだ」
「はい」
知らないクルーもしゃがむ。
「触っていい?」
憂起ちゃんは答えかけた。
自分に聞くのは変だと思った。
でも。
「……お願いします」
相手が靴を持ち上げる。
中から水が落ちた。
ぽたり。
床へ。
その瞬間。
憂起ちゃんの視界が白くなった。
笑っている。
誰か。
小さい。
走っている。
赤と黄色の紙袋を持って。
パンデモニウム。
でも知らない店。
扉。
ベル。
水。
暗い。
手。
誰かの手を握る。
嬉しい。
帰れる。
帰れる。
帰れる。
帰れない。
「憂起!」
肩を揺すられた。
揺すれなかった。
手が身体を抜ける。
それでも声で戻った。
憂起ちゃんは瞬きをした。
搬入口。
知らないクルー。
小さな靴。
「大丈夫?」
「……はい」
「今、何が」
「見えました」
「何が?」
憂起ちゃんは答えようとした。
言葉がまとまらない。
いつものことだった。
でも今回は、口下手だからだけではない。
見えたもの自体が、まとまっていなかった。
記憶。
感情。
未来。
過去。
どれなのか分からない。
一つだけ。
確かなことがある。
「……手を」
自分の右手を見る。
「手?」
「握ってました」
「誰の?」
分からない。
けれど。
あの感触だけは、妙に鮮明だった。
小さな手。
温かい。
霊体の自分が。
ちゃんと握っていた。
「……知らない子です」
その時。
知らないクルーが持っていた靴の中で。
ちりん。
小さな音がした。
二人とも靴を見る。
中には何もない。
もう一度。
ちりん。
今度は。
憂起ちゃんの背後から。
振り返る。
誰もいない。
ただ。
濡れた小さな足跡が一つ。
憂起ちゃんのすぐ後ろに増えていた。
そしてもう一つ。
ぺたり。
今度は横。
知らないクルーの隣。
さらに一つ。
二人の前。
足跡が進み始める。
搬入口の壁へ向かって。
「追う?」
知らないクルーが訊いた。
憂起ちゃんは少し驚いた。
今度は自分が訊く側だと思っていた。
「……怖くないんですか」
「怖いよ」
「じゃあ」
「気になる」
憂起ちゃんは相手を見る。
相手も見る。
少し。
似ている。
「……行きましょう」
足跡を追う。
壁の前。
止まった。
憂起ちゃんは壁へ顔を入れた。
その向こうを見て。
すぐ引っ込めた。
知らないクルーが訊く。
「何があった?」
憂起ちゃんは黙った。
もう一度、壁の中を見る。
間違いない。
「……壁じゃないです」
「え?」
「向こう」
憂起ちゃんは指差した。
「私の店です」
知らないクルーの目が開く。
憂起ちゃんも、少しだけ笑った。
帰り道を見つけた。
死に戻りではない。
ちゃんと歩いて。
寄り道して。
宇宙へ行って。
知らないパンデモニウムへ行って。
知らない人を一人連れて。
ようやく。
「帰れます」
嬉しい。
自分の感情だった。
たぶん。
けれど。
壁の向こう。
よく知っているはずの自分のパンデモニウムから。
同じ感情が返ってきた。
嬉しい。
その直後。
憂起ちゃんの笑みが消えた。
もう一つ。
来た。
誰のものか分からない。
強い。
はっきりしている。
来ないで。
壁一枚向こうは。
帰る場所のはずだった。




