第6話「配達先ではないみたいです」
紙袋の中へ入る。
紙。
バーガー。
底。
そのまま抜ける。
地面があるはずだった。
なかった。
「……あ」
憂起ちゃんは落ちた。
暗い。
上下も分からない。
骨の街の灯りは、もう見えなかった。
周囲を赤と黄色の紙袋が流れている。
一つ。
十個。
百個。
もっと。
どれも同じパンデモニウムの袋だった。
憂起ちゃんは落ちながら、その一つへ近づいた。
袋の中を見る。
バーガー。
次。
バーガー。
次。
空。
次。
中が海だった。
「…………」
戻る。
もう一度見る。
紙袋の口から、青い海面が見えている。
波まである。
憂起ちゃんは顔を入れた。
潮の匂い。
風。
遠くで鳥の声。
抜いた。
暗闇。
「……便利ですね」
何に使うものなのかは分からない。
でも便利そうだった。
紙袋が流れていく。
追う。
別の袋。
中は砂漠。
次は厨房。
知らないクルーがバーガーを包んでいる。
次。
真っ暗。
次。
巨大な目玉がこちらを見ていた。
憂起ちゃんは顔を抜いた。
少し考えた。
もう一度入れた。
まだ見ていた。
「……こんにちは」
瞼が閉じた。
袋ごと遠ざかっていった。
面白い。
かなり。
帰還ルートを探していたはずなのに、目的が急速に薄くなっていく。
でも、これは仕方がない。
こんな場所は初めてだった。
知らない世界が、紙袋の中を流れている。
あるいは。
紙袋の方が、知らない世界へ流れている。
どちらなのかは分からない。
憂起ちゃんは近くの袋へ手を伸ばした。
当然、抜ける。
掴めない。
なので自分から入る。
今度は雨だった。
身体を抜けて雨粒が落ちていく。
石造りの街。
誰もいない。
路地にパンデモニウムの紙袋が一つ落ちている。
その横に、白い花。
綺麗だった。
少し見ていたい。
でも、今入った袋を見失うと戻れない気がした。
戻れなくても帰還はできる。
だから問題はない。
ただし、今日の遊びが終わる。
それは困る。
憂起ちゃんは暗闇へ戻った。
紙袋はまだそこにあった。
「……よかった」
袋を掴めないので、目印もつけられない。
全部ほとんど同じ見た目だ。
一度見失えば、どれだったか分からない。
憂起ちゃんは少し考えた。
考えている間に見失った。
「…………」
似た袋が三百個くらい流れていた。
どれだろう。
分からない。
まあいい。
帰る必要が出たら戻ればいい。
それより。
三百個もある。
全部違うのだろうか。
確かめたくなった。
一つ目。
夜の森。
二つ目。
厨房。
三つ目。
海底。
四つ目。
誰かの寝室。
五つ目。
宇宙。
憂起ちゃんは止まった。
紙袋の向こうに星がある。
床も空気もない。
遠くに青い惑星。
そのさらに向こうを、細長い人工物が横切っていく。
憂起ちゃんは袋から半身を出した。
宇宙だった。
たぶん。
息はいらない。
寒さもよく分からない。
そのまま全部出る。
振り返る。
宇宙空間に紙袋が浮いていた。
「……すごい」
少し離れる。
紙袋も流れていく。
追う。
速い。
「……待って」
追いつけない。
紙袋は小さくなり。
消えた。
憂起ちゃんだけが宇宙に残った。
「…………」
星。
惑星。
何もない。
さすがに少し考えた。
戻る?
簡単だった。
ここなら致命的な状態を作る方法も、そのうち見つかる。
ただ。
目の前に青い惑星がある。
かなり遠い。
どれくらい遠いのか分からない。
行けるだろうか。
憂起ちゃんは惑星を見た。
帰還。
惑星。
帰還。
惑星。
「……ちょっとだけ」
惑星へ向かった。
速く進んでいるつもりだった。
十分経った気がする。
大きさが変わらない。
さらに進む。
変わらない。
「……遠いですね」
宇宙は広かった。
壁なら抜ければいい。
山なら越えればいい。
海なら潜ればいい。
宇宙には、抜けるものがなかった。
ただ距離だけがある。
これは少し苦手だった。
憂起ちゃんは止まった。
戻ろうかと思った。
その時。
横を紙袋が通過した。
赤と黄色。
「……あ」
追う。
今度は逃がさない。
掴めないので、そのまま身体を入れた。
抜ける。
床。
憂起ちゃんは顔から厨房へ出た。
揚げ物の匂い。
換気扇。
金属の作業台。
聞き覚えのある音。
帰った。
そう思った。
憂起ちゃんは床から身体を出した。
パンデモニウムだった。
ただし。
誰も知らない。
制服は似ている。
設備も似ている。
壁の色も似ている。
でも、クルーが違う。
カウンターの位置も少し違う。
メニューも読めない。
憂起ちゃんは厨房の隅に立った。
誰にも気づかれない。
ソウルハイドを切る。
やっぱり誰も気づかない。
「……違いますね」
帰還失敗。
でも。
パンデモニウムではある。
憂起ちゃんは少し嬉しくなった。
知らない世界にパンデモニウムがある。
骨の街にもバーガーがあった。
宇宙にも紙袋が流れていた。
さっきの暗闇には、無数の配達先らしい場所があった。
では。
自分の店も、あの中の一つなのだろうか。
厨房を見る。
知らないクルーがフライヤーから何かを上げる。
見たことのない色のパティだった。
気になる。
かなり。
でも。
今度こそ帰り道を探している。
憂起ちゃんは我慢した。
三秒。
フライヤーへ近づいた。
「……見るだけ」
パティを覗く。
紫色。
表面に小さな文字みたいな模様がある。
何だろう。
もっと近く。
その時。
知らないクルーが顔を上げた。
憂起ちゃんの方を見る。
どうせ見えていない。
そう思った。
クルーの目が。
憂起ちゃんを追った。
右へ動く。
視線も右へ。
左。
左へ。
「…………」
見えている。
憂起ちゃんは固まった。
知らない相手と話す準備を何もしていない。
こういう時。
幽霊として危険な場所へ入る準備なら、いくらでもできる。
会話の準備はできない。
相手が口を開いた。
「あなた、配達員じゃないよね?」
憂起ちゃんは考えた。
配達員ではない。
たぶん。
紙袋から来た。
でも説明すると長い。
「……違います」
「じゃあ、どこから入ったの?」
憂起ちゃんは紙袋が消えたあたりを見る。
「……袋です」
「袋?」
「はい」
会話が止まった。
憂起ちゃんは少し安心した。
向こうが困っている間は、自分が喋らなくていい。
知らないクルーは厨房を見回した。
「どの袋?」
憂起ちゃんも見回した。
ない。
「……なくなりました」
また会話が止まった。
とても助かった。
クルーはしばらく憂起ちゃんを見ていた。
それから。
「もしかして、迷子?」
違う。
帰れる。
いつでも。
迷子ではない。
ただ、自分の店がどこなのか分からないだけだ。
それを普通は迷子と呼ぶ気もした。
憂起ちゃんは少し悩んだ。
「……散歩中です」
クルーの眉が上がった。
その時。
厨房の奥で。
ちりん。
ベルが鳴った。
憂起ちゃんの顔から、わずかに力が抜けた。
知っている音。
第2話。
地下。
古い店。
紙袋。
ずっと追ってきた音。
知らないクルーが振り返る。
「今の、何?」
憂起ちゃんは答えなかった。
厨房の奥を見る。
そこには扉があった。
小さい。
店の設備には不自然なくらい、小さな扉。
表面に紙が貼られている。
日本語だった。
『はいったら、しめてください』
同じ。
憂起ちゃんは扉を見る。
それから、知らないクルーを見る。
「……あれ、前からあります?」
「え?」
クルーが扉を見る。
顔色が変わった。
「何、それ」
前からではないらしい。
扉の下から。
水が一滴。
床へ落ちた。
ぽたり。
憂起ちゃんは近づく。
帰還なら、いつでもできる。
だから。
怖い場所へ入ること自体は、あまり怖くない。
ただ。
今回は少し違った。
扉の向こうから来た感情が。
待っている。
ではなかった。
帰ってきた。
だった。




