第5話「見てるだけでも、楽しいです」
骨の街には、門がなかった。
正確には、門らしいものはあった。
巨大な肋骨が二本、互いにもたれかかるように組まれ、その下を石畳が通っている。
ただ、閉じるものがない。
憂起ちゃんには関係なかった。
門があっても壁から入れる。
門番がいても見つからない。
もし捕まっても抜ければいい。
本当にどうしようもなくなったら、戻ればいい。
とても観光しやすい街だった。
憂起ちゃんは入った。
最初に気づいたのは、匂いだった。
焼いた何か。
甘い。
少し焦げている。
通りの先に屋台が並んでいた。
骨を削った白い台。
吊された青い灯り。
黒い鍋。
串に刺さった丸いもの。
帰還しようと思えば、いつでもできる。
なので、その前に少しだけ見ることにした。
「……五分だけ」
さっきも言った。
屋台へ近づく。
店主らしい人物が鍋を混ぜていた。
人間に似ている。
腕が四本あることを除けば。
上の二本で鍋を混ぜながら、下の二本で客から硬貨を受け取っている。
憂起ちゃんは感心した。
便利そうだった。
自分は腕が二本あっても、今はどちらも物を持てない。
串焼きを覗く。
表面がぱりぱりしている。
たぶん。
食べてみたい。
かなり。
でも食べられない。
憂起ちゃんはそこについては、わりと諦めがよかった。
食べなくても困らない。
食べられないのは残念だけれど、匂いは分かる。
形も見える。
作っているところも見られる。
だったら半分くらいは楽しめる。
半分あれば十分だった。
店主が振り返った。
憂起ちゃんは反射的に姿勢を正した。
目が合う。
気がした。
店主の視線はそのまま憂起ちゃんの顔を通過し、背後の客へ向かった。
見えていない。
ソウルハイドを切ってみた。
「あの」
反応なし。
「……こんばんは」
やっぱり反応なし。
ソウルハイドの問題ではないらしい。
この世界の人たちは、そもそも自分を認識できない。
憂起ちゃんは少し考えた。
それから、またソウルハイドを使った。
意味はない。
でも、いつもの方が落ち着いた。
串焼きをもう一度見る。
「……美味しそうですね」
誰にも聞こえない。
それでも、言ってみると少し満足した。
次へ行く。
街は広かった。
巨大な骨の内側へ家が張りつき、骨と骨の間には細い橋が渡されている。
屋根の上を、尾の長い小動物が走った。
憂起ちゃんは目で追った。
今日は帰り道を探している。
正確には、死に戻りを使わない帰り道を探している。
だから寄り道はしない。
三歩。
屋根を見る。
まだいる。
五歩。
小動物が別の屋根へ跳んだ。
「…………」
十秒後。
憂起ちゃんは屋根の上にいた。
追った。
向こうは屋根から屋根へ跳ぶ。
こちらは壁も屋根も無視できる。
絶対に追いつけると思った。
見失った。
「……なんで」
煙突。
いない。
壁の中。
いない。
屋根裏。
いた。
正確には、別のがいた。
藁の巣で、小さな毛玉が三匹丸くなっている。
憂起ちゃんは動かなくなった。
一匹が鼻を動かした。
かわいい。
指を伸ばす。
抜ける。
分かっていた。
もう一度。
抜ける。
「……一回くらい」
三回目も抜けた。
当然だった。
親らしい毛玉が戻ってきたので、憂起ちゃんは屋根から出た。
逃げる必要はない。
見えてもいない。
でも、なんとなく悪いことをしていた気分になった。
通りへ戻る。
帰り道。
そうだった。
今度こそ探す。
市場を通った。
工房があった。
少しだけ覗いた。
骨を薄く削って、楽器を作っている。
その隣は学校らしかった。
少しだけ覗いた。
子供たちが空中へ光る文字を書いている。
その向かいは住宅だった。
少しだけ。
壁から顔を入れた。
家族が食卓を囲んでいた。
少しだけ、が増えていく。
憂起ちゃんは気づいていた。
気づいていたけれど、やめなかった。
家族が笑った。
言葉は分からない。
でも楽しそうなのは分かった。
憂起ちゃんは壁の中から眺めた。
こういうのは好きだった。
誰かの暮らしを見る。
自分がいなくても続いている時間を見る。
見つからない場所から、知らない生活を少しだけ借りる。
幽霊になってから見つけた遊びの一つだった。
楽しそう。
それで十分。
普段なら。
食卓の一人が何かを言った。
全員が笑う。
憂起ちゃんも、つられて少し笑った。
何が面白かったのかは分からない。
そこだけが、ちょっと残念だった。
パンデモニウムだったら。
誰かが変なことを言った時、意味くらいは分かる。
笑うかどうかは別として。
自分もそこにいる。
見えている。
名前を呼ばれれば。
「……はい」
くらいなら答えられる。
喋るのは苦手だ。
一人の方が楽だと思うことも多い。
でも。
一人でいることと。
誰も自分を知らないことは、同じではないらしい。
憂起ちゃんは壁から顔を抜いた。
少しだけ店が恋しくなった。
なら戻ればいい。
簡単だった。
身体置き場へ戻って、店へ行けばいい。
今すぐできる。
憂起ちゃんは考えた。
「…………」
戻らなかった。
まだ五分が終わっていないことにした。
その時。
嬉しい。
知らない感情が胸へ入ってきた。
すぐ近く。
憂起ちゃんは振り返る。
誰もこちらを見ていない。
でも感情は動いている。
通りの奥へ。
追った。
角を曲がる。
階段。
細い橋。
人混み。
感情だけを目印に進む。
嬉しい。
次に、寂しい。
また嬉しい。
誰かが何かを待っている。
第2話のベルとは違う。
もっと軽い。
そわそわしている。
橋を渡った先に、小さな広場があった。
人が集まっている。
中央には、白い布をかけた長い台。
料理が並んでいた。
祭りらしい。
期待。
嬉しい。
空腹。
懐かしい。
少し悲しい。
いくつもの感情が重なる。
憂起ちゃんは人々の間を抜けた。
串焼き。
煮込み。
青いパン。
知らない料理ばかり。
その中に。
赤と黄色があった。
憂起ちゃんは止まる。
紙袋。
パンデモニウムのものだった。
草原で見つけたものと同じ。
今度は一つではない。
十個。
二十個。
長い台の端まで並んでいる。
「……なんで」
一つから湯気が出ていた。
中身はバーガー。
ついさっき作られたみたいに温かい。
街の人が袋を取る。
開く。
食べる。
嬉しい。
感情が弾けた。
別の人。
懐かしい。
次。
悲しい。
次。
安心。
憂起ちゃんは少し離れて眺めた。
感情が先に来ているのではない。
今は、食べた人から来ている。
それなら分かる。
分かるのに。
一つだけ。
まだ誰も触っていない袋から。
寂しい。
憂起ちゃんはそちらを見た。
袋の底に、小さな水滴がついている。
地下の階段。
濡れた足跡。
古いパンデモニウム。
閉められなかった扉。
待っている。
憂起ちゃんは袋へ近づいた。
顔を入れる。
紙を抜ける。
バーガーの中まで見る。
バンズ。
肉。
野菜。
ソース。
見たところ普通だった。
その中心から。
待っている。
「……ここにいたんですか」
返事はない。
袋が、ほんの少し動いた。
憂起ちゃんは周囲を見る。
誰もこちらを見ていない。
誰にも自分は見えていない。
袋へ戻る。
側面に文字があった。
日本語。
『お持ち帰り』
憂起ちゃんは読んだ。
もう一度読んだ。
「……帰れます?」
袋は答えない。
帰れる保証はない。
でも、失敗しても別に困らない。
駄目なら戻ればいい。
身体置き場へ。
そう思うと、試さない理由の方がなかった。
問題は。
紙袋を持てないことだった。
憂起ちゃんは手を入れた。
抜ける。
もう一度。
抜ける。
知っていた。
「……持てないなら」
紙袋を見る。
その中を見る。
少し考える。
「中に入ればいいですね」
たぶん違う。
でも、やってみたい。
それで十分だった。
憂起ちゃんは紙袋の中へ身体を入れた。
帰れるかどうかは、まだ分からない。
帰れなくても問題ない。
だから。
帰れるかどうかを確かめるのが、面白かった。




