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第4話「帰るのは、いつでもできます」


閉め忘れた扉は、見つからなかった。


翌朝。


憂起ちゃんは昨日と同じ地下扉の前に立っていた。


開店準備まで、あと四十分ほどある。


四十分。


十分で行って、十分で確認して、十分で戻れば、十分余る。


完璧だった。たぶん。


憂起ちゃんは扉へ顔を入れた。


階段。コンクリート。古いタイル。黒い石。


七十段。九十段。百二十段。


そこで、最初の踊り場へ戻った。


「……あれ」


もう一度降りる。同じ。


今度は階段を無視して、壁を斜め下へ抜けた。


コンクリート。土。配管。黒い石。


そして、見覚えのある消火器。


「…………」


昨日の古いパンデモニウムへ行きたい。


正確には、あの小さな扉を閉めたい。


もっと正確には、閉めたあと、その向こうへ入りたい。


閉め忘れたことへの罪悪感より、そちらの方が大きかった。


何があったのか。どうして弾き出されたのか。あの足跡は誰だったのか。


考えるほど、行きたくなる。


「……入口が駄目なら」


憂起ちゃんは床へ沈んだ。


下から行けばいい。


土の中は暗い。


息はいらない。圧迫感もない。服も汚れない。


配管を抜ける。基礎杭を抜ける。地下水が身体を横切る。岩盤へ入る。


五分。十分。


古い店はない。


途中で、自分が本当に下へ進んでいるのか分からなくなった。


幽霊になって便利になったことは多い。


壁を抜けられる。水中でも平気。道がなくても進める。


そして、本当にどうしようもなくなったら戻ればいい。


少し乱暴だけれど、確実な方法がある。


霊体で致命的な状態になれば、身体置き場へ戻される。元通りになって。


だから憂起ちゃんにとって、迷子は遭難ではない。


散歩が長引くだけだった。


「……まだ戻るほどじゃないですね」


帰還を使えば、今日の散歩はそこで終わる。


せっかく知らないところまで来たのに、それはもったいない。


さらに下へ進んだ。


やがて身体が空洞へ抜けた。


巨大な洞窟。その底を溶岩が流れている。


赤い川が黒い岩を照らし、ごうごうという音が空洞を震わせていた。


憂起ちゃんは溶岩の真上まで降りた。


生身なら近づけない。


今は平気だった。


赤。黄色。黒。


表面が割れて、また赤く塞がる。


「……きれい」


腹ばいになる格好で浮かび、しばらく眺めた。


死んでから行ける場所は増えた。


触れないものも増えたけれど、今のところは得した気分の方が大きい。


「……写真、撮れないのだけ残念ですね」


端末を持ってきても、霊体では使えない。


覚えて帰ればいい。


帰った頃には細かいところを忘れている気もした。


まあいい。


上へ向かう。


古い店を探していたことは、半分忘れていた。


岩盤を抜け続けると、急に眩しくなった。


地面から頭を出す。


青空。


雲が自分より下にある。


「……あ」


雪山の頂上だった。


尖った峰がどこまでも続いている。


風が雪を巻き上げる。


知らない場所。パンデモニウムがどちらなのかも分からない。


またやった。


でも、帰ろうと思えば帰れる。


その事実があるだけで、知らない場所は怖い場所になりにくかった。


むしろ。


誰もいない。


憂起ちゃんは念のため周囲を確認した。


両腕を広げる。


「…………わー」


小さい。


もう一度。


「わー」


誰にも聞かれない。


少し楽しくなる。


「わーー」


笑った。


誰かがいたら絶対にやらない。


だから余計に楽しかった。


足元の向こうは崖だった。


覗く。雲しかない。


どれくらい高いのだろう。


石は落とせない。触れないから。


だったら。


「……私が行けばいいですね」


一歩出た。


落ちた。


山頂が遠ざかる。雲へ突っ込む。抜ける。


森が迫る。


枝も葉も幹も身体を通り抜け、そのまま地面まで抜けた。


「……行きすぎました」


少し上がる。


青い苔の森だった。


光る虫を見つけた。追った。見失った。


別の虫を追った。また見失った。


水音がした。


川。銀色の魚。


「……待って」


追う。


川底を抜ける。魚を見失う。


代わりに地下水脈を見つけた。


面白そうだったので入った。


途中で一度、開店準備のことを思い出した。


戻ろうと思えば、今すぐ戻れる。


でも魚を追っている途中だった。


「……あと五分」


誰も時間を測っていなかった。


暗い水路を進む。


水が上へ向かって明るくなる。


顔を出した。


夜だった。


憂起ちゃんは止まった。


さっきまで昼だった。


星が多い。白い帯が三本、空を横切っている。


川の両側には黒い草原。


遠くを巨大な生き物が歩いていた。


四本脚。背中に青く光る木が生えている。


怖い、より先に。


近くで見たい。


憂起ちゃんは水から出た。


巨大な生き物へ近づく。


向こうが止まる。こちらも止まる。


「……こんばんは」


返事はない。


また歩き始めたので、ついていった。


背中の木が歩調に合わせて明滅する。


綺麗だった。


やがて草原の先に灯りが見えた。


巨大な骨が何十本も地面から突き出し、その内側に家々がある。


骨と骨の間に布が張られ、橙色の灯りが連なっていた。


知らない街。


憂起ちゃんの足が自然と速くなる。


その時。


悲しい。


胸の奥へ落ちてきた。


自分のものではない。


次に、嬉しい。


怖い。懐かしい。寂しい。安心。


いくつもの感情が、街から流れてくる。


まだ何も起きていない。少なくとも、ここからは。


なのに感情だけが先にある。


水没した街の広場を思い出した。


小さな靴。


地下の濡れた足跡。


待っている。


来ないで。


似ている。


憂起ちゃんは街を見る。


行きたい。


かなり。


そこで、また開店準備を思い出した。


今度は少し真面目に考えた。


身体置き場へ戻る。


店へ行く。


何事もなかった顔で働く。


できる。簡単だった。


ただ。


目の前には、知らない世界の知らない街がある。


ここまで来るのに、溶岩も雪山も森も川も通った。


同じ道をもう一度見つけられる自信はない。


帰還はいつでもできる。


この街へ来られるのは、今だけかもしれない。


勤務と好奇心がしばらく戦った。


勤務が負けた。


「……あと五分だけ」


二回目だった。


その視界の端に、赤があった。


草の中。


赤と黄色の紙袋。


パンデモニウムのものだった。


憂起ちゃんは近づく。


袋は新しい。濡れてもいない。汚れてもいない。


ついさっき置かれたみたいだった。


骨の街から、また感情が来た。


今度は一つ。


待っている。


憂起ちゃんは街と紙袋を交互に見た。


帰還するのは簡単だ。


だから、帰り道を探す必要も本当はない。


それでも。


「……こっちから帰れたら、ちょっと面白いですね」


死に戻りを使わずに帰る。


いつの間にか、新しい遊びになっていた。


憂起ちゃんは骨の街へ歩き出す。


帰れなくなったのではない。


まだ帰らないことにしただけだった。

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