第3話「入ったら、閉めてください」
地下へ続く扉は、翌朝も鍵がかかっていた。
濡れた足跡は消えていた。
憂起ちゃんは開店前、その扉の前にしゃがんでいた。
鍵穴を見る。
取っ手を見る。
扉の下の隙間を見る。
それから立ち上がり、普通に壁へ顔を入れた。
昨日と同じ階段がある。
暗い。
静か。
ベルは鳴っていない。
「……います?」
返事もない。
昨日感じた「待っている」と「来ないで」も、今は薄かった。
だったら勤務に戻るべきだった。
憂起ちゃんは一度、扉から顔を抜いた。
三秒ほど考えた。
また入れた。
知らない階段があるのに、降りないのは気持ちが悪い。
正確には、もったいない。
誰かに報告することも考えた。
説明する場面を想像した。
昨日、ベルが鳴って、追いかけたら地下へ来て、足跡があって、感情が二つあって、そのうち片方は待っていて、片方は来るなと言っていて。
長い。
「……見てからでいいですかね」
誰にも許可を求めず、憂起ちゃんは扉を抜けた。
階段を降りる。
十段。
二十段。
三十段。
地下層なら、とっくに床へ着いている深さだった。
途中から壁の材質が変わった。
コンクリートが古いタイルになり、古いタイルが黒い石になり、黒い石の継ぎ目から細い水草が生えていた。
憂起ちゃんは一本を触ろうとした。
指が抜けた。
「……ですよね」
さらに降りる。
四十七段目に、小さな濡れた足跡があった。
昨日のものと同じ大きさだった。
四十八段目にはない。
四十九段目にもない。
足跡は一つだけだった。
憂起ちゃんはその横へ自分の足を並べてみた。
かなり小さい。
子供くらい。
こん。
下から音がした。
憂起ちゃんの顔が少し明るくなる。
「……いた」
走った。
足音はしない。
段差もほとんど意味がないので、途中から階段そのものを斜めに抜けた。
その結果、知らない部屋へ頭から出た。
止まる。
棚。
机。
古い冷蔵庫。
天井から吊られた照明。
壁際には、見覚えのある赤と黄色の意匠。
パンデモニウムだった。
ただし、古い。
店内らしき空間には誰もいない。
椅子はすべてテーブルへ上げられ、カウンターには白い布がかかっている。メニュー表示は消灯し、フライヤーには乾いた油が黒く固まっていた。
閉店後の店を、そのまま何年も放置したようだった。
憂起ちゃんは厨房へ入る。
壁を抜けようとして、やめた。
普通に入口から入った。
誰も見ていないので、そうしたかっただけだ。
カウンターの内側に、小さな呼び出しベルが置かれていた。
昨日のベルと同じ形。
憂起ちゃんが近づく。
ちりん。
勝手に鳴った。
「……おはようございます」
ベルは鳴らない。
「違います?」
ちりん。
合っているらしい。
憂起ちゃんは少し嬉しくなった。
カウンター越しに誰もいない客席を見る。
「ご注文は」
言ってから困った。
自分は作れない。
そもそも材料もない。
「……聞くだけなら」
ちりん。
その時、背後で冷蔵庫が開いた。
憂起ちゃんが振り返る。
扉がゆっくり開いている。
中は暗い。
何も入っていない。
冷気も出ていない。
ただ、奥の壁に子供の手形が一つあった。
濡れていた。
待っている。
感情が来た。
昨日より近い。
同時に、店のもっと奥から別の感情が叩きつけてきた。
来ないで。
強い。
憂起ちゃんは冷蔵庫の中へ顔を入れた。
奥行きは五十センチほどしかない。
その奥から、風が吹いていた。
「……変ですね」
頭をさらに入れる。
冷蔵庫の背板を抜ける。
その先に、廊下があった。
憂起ちゃんは目を丸くした。
細長い廊下。
左右にいくつもの扉。
天井の蛍光灯が一本おきに点いている。
床には、小さな濡れた足跡が続いていた。
楽しそうに追いかけようとして、一歩目で止まった。
一番近い扉に文字があった。
『休憩室』
次。
『事務所』
その次。
『搬入口』
今いるパンデモニウムと同じだった。
けれど配置がおかしい。
冷蔵庫の奥にあるはずがない。
憂起ちゃんは廊下へ完全に出た。
背後を見る。
冷蔵庫の四角い入口がある。
その向こうに古い厨房。
「……場所だけ覚えて」
言いながら、憂起ちゃんは床を見た。
足跡が一つ増えていた。
自分のすぐ前。
ぽたり。
何もない空中から水滴が落ちる。
次の足跡がつく。
ぽたり。
もう一つ。
見えない誰かが、廊下を歩いている。
憂起ちゃんは追った。
休憩室。
通過。
事務所。
通過。
搬入口。
通過。
突き当たりに、小さな扉があった。
足跡はその前で止まっている。
扉には紙が貼られていた。
手書きだった。
『はいったら、しめてください』
憂起ちゃんは読んだ。
取っ手には触れない。
だから、そのまま扉を抜けた。
瞬間。
身体を、ものすごい勢いで後ろへ引かれた。
世界が裏返る。
古い厨房。
黒い石の階段。
タイル。
コンクリート。
全部が一度に身体を通り抜ける。
次の瞬間、憂起ちゃんはバックヤードの壁から飛び出した。
勢いのまま反対側の棚を抜け、段ボール箱の中で止まった。
静かになった。
憂起ちゃんは箱から顔を出す。
何人かのクルーがこちらを見ていた。
ソウルハイドが切れている。
「……おはようございます」
誰も返事をしなかった。
憂起ちゃんは箱から出る。
身体を確認する。
異常なし。
戻された。
でも、いつもの帰還とは違う。
倒されてもいない。
何より。
「……閉めてない」
それが一番気になった。
地下のさらに下。
古いパンデモニウム。
冷蔵庫の奥の廊下。
その突き当たり。
誰もいなくなった小さな扉が、ゆっくりと開いた。
濡れた足跡が、一つ。
扉の外へ出た。




