第2話「それ、私じゃないです」
憂起ちゃんは、人の後をついて歩くのが好きだった。
本人は、そのことを誰にも言っていない。
言えばたぶん、少し怖がられる。
だから今日も言わなかった。
昼過ぎ、店の裏口から一人のクルーが出ていく。
憂起ちゃんは壁際からそれを見送った。
三秒。
五秒。
輪郭が消える。
それから裏口を使わず、壁を抜けた。
外は細い雨だった。
傘を差した背中が、路地の角を曲がっていく。
憂起ちゃんはその少し後ろを歩いた。
雨粒は身体を濡らすというより、輪郭を素通りしていく。水たまりも避けない。車止めも避けない。横断歩道では一応止まった。
車に轢かれて困るからではない。
みんなが止まっているからだった。
信号が青になる。
人の群れと一緒に渡る。
誰にもぶつからない。
ぶつかれない。
それでも人混みの中を歩くのは、少し楽しかった。
前を歩くクルーがコンビニへ入った。
憂起ちゃんも入る。
自動ドアは開かなかった。
「……ですよね」
横のガラスから入った。
買い物かごの中へ菓子、飲み物、乾電池が入っていく。
憂起ちゃんは後ろから覗き込む。
新商品の棚で相手が三秒止まった。
憂起ちゃんも止まった。
手に取る。
戻す。
もう一度取る。
また戻す。
憂起ちゃんは心の中で応援した。
買った。
小さく拳を握った。
自分では買えない。
財布を持っていないからではない。
端末もレジも、だいたい憂起ちゃんを客として認識しない。
以前それを忘れて、財布だけ持って出かけたことがある。
かなり遠くまで行ってから思い出した。
帰り道も迷った。
今日はついて歩くだけなので問題ない。
たぶん。
店を出たクルーは、今度は細い商店街へ入った。
憂起ちゃんは看板を読み、知らない店を覗き、途中で猫を見つけて三分ほど脱線した。
猫は憂起ちゃんのいた場所を見た。
目が合った気がした。
憂起ちゃんはしゃがむ。
「……見えます?」
猫はあくびをした。
分からなかった。
顔を上げると、ついてきた相手がいなかった。
「……あ」
また迷った。
商店街を一周した。
二周目で傘を見つけた。
何事もなかったように追いつく。
誰も見ていないので、何事もなかったことになった。
帰り道。
クルーが店の裏口へ戻る少し前に、憂起ちゃんは先回りした。
壁を抜ければ近道だった。
バックヤードへ入り、いつもの壁際まで戻る。
輪郭を戻す。
三十秒後、裏口が開いた。
憂起ちゃんは、ずっとそこにいたような顔で会釈した。
「……お疲れさまです」
完璧だった。
その直後。
休憩室で、ベルが鳴った。
ちりん。
小さな呼び出しベルだった。
誰もいない。
何人かが振り返った。
憂起ちゃんも振り返った。
ベルはテーブルの中央にある。
少し前なら、自分がやったと思われても仕方がない。
実際、似たようなことは何度かやった。
憂起ちゃんは黙って見ていた。
ちりん。
もう一度鳴った。
今度は、ベルの周囲に誰もいないことを皆が確認していた。
空調の風ではない。
台も揺れていない。
憂起ちゃんは少しだけ首を傾げた。
面白そうだった。
輪郭を消す。
誰にも気づかれないまま、テーブルの下へ潜る。
何もいない。
床の中へ顔を入れる。
配管だけ。
壁へ入る。
配線だけ。
天井。
何もいない。
戻る。
ベルのすぐ横に立った。
ちりん。
今度は近かった。
音が鳴るより、ほんの少し前。
知らない感情が触れた。
寂しい。
でも、前の水没した街で感じたものとは違う。
誰かを失った寂しさではない。
待っている感じだった。
憂起ちゃんはベルを見た。
「……誰か、呼んでます?」
返事はない。
代わりにベルが三度鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
憂起ちゃんは少し嬉しくなった。
返事をされた気がしたからだ。
「……どこですか」
ベルが鳴らない。
十秒。
二十秒。
今度は休憩室の外から音がした。
こん。
廊下の奥。
憂起ちゃんは追う。
こん。
搬入口。
こん。
冷蔵庫の前。
音だけが先へ進んでいく。
憂起ちゃんも壁を抜けて追った。
途中から、少し楽しくなった。
追いかけっこみたいだった。
地下へ続く階段の前で、音が止まった。
扉には鍵がかかっている。
憂起ちゃんには関係ない。
そのまま抜けようとして、止まった。
扉の向こうから感情が来ていた。
待っている。
さっきより強い。
その奥に、もう一つ。
来ないで。
正反対の感情だった。
憂起ちゃんは扉へ半分だけ顔を入れた。
暗い階段が下へ続いている。
誰もいない。
一段目に、小さな濡れた足跡があった。
二段目にも。
三段目にも。
下へ続いている。
憂起ちゃんは自分の足を見る。
濡れていない。
そもそも、足跡を残せない。
しばらく考えた。
それから顔だけを扉のこちら側へ戻した。
ちょうど廊下を通りかかったクルーが、半分だけ扉から生えた憂起ちゃんを見て足を止めた。
憂起ちゃんも止まった。
数秒、見つめ合う。
「……何してるの?」
憂起ちゃんは扉から抜け出した。
少し考えてから答えた。
「……確認です」
「何の?」
地下の向こうで、またベルが鳴った。
ちりん。
廊下にあるはずのない音だった。
憂起ちゃんはそちらを見る。
いつもの、眠たそうな顔に戻っていた。
「……それ、私じゃないです」




