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第1話「今日も、何もしていません」


憂起ちゃんは、今日も何もしていなかった。


少なくとも、そう見えた。


開店前。バックヤードの壁際に立って、搬入箱が運ばれていくのを眺めている。声をかけられれば小さく会釈し、頼まれた確認には「……はい」と答える。


注文が増えれば少し手伝う。途切れれば、また壁際へ戻る。


いつもの憂起ちゃんだった。


十一時四十七分。


誰も彼女を見ていない瞬間、憂起ちゃんの輪郭が消えた。


それだけだった。


音も光もない。


憂起ちゃんは、その場で両腕を上げた。


誰にも見えないまま、ぐっと伸びをする。


自由時間だった。


まず厨房へ行った。


行った、というより、壁を抜けた。


ステンレス棚の裏から顔だけ出して、焼成中のバンズを眺める。いい匂いはする。食べたい気もする。食べなくても困らない。


困らないことと、食べたくないことは別だった。


「……おいしそう」


誰にも聞こえない程度の声で言ってから、トレーの端へ指を伸ばす。


抜けた。


もう一度。


抜けた。


三度目で諦めた。


その代わり、カウンター脇に置かれていた注文票へ集中する。紙の角が、ほんの少し持ち上がった。


成功。


憂起ちゃんは嬉しくなって、もう少し動かした。


注文票はするすると横へ滑り、危うく床へ落ちかけた。


慌てて戻そうとして、今度は指が抜けた。


紙が落ちた。


近くにいたクルーが拾い上げ、首を傾げる。


憂起ちゃんは棚の中へ半分隠れた。


見えていないのに。


少しして、飽きた。


天井を抜ける。


配管と配線の間を上へ進み、普段なら点検口からしか入れない狭い空間へ出る。埃は積もっているが、足跡はつかない。頭上で空調機が低く震えていた。


奥に、知らない隙間があった。


昨日はなかった気がする。


たぶん。


憂起ちゃんは十秒ほど考えた。


戻って報告する、という選択肢も一応浮かんだ。


隙間の向こうから、冷たい風が吹いた。


「……ちょっとだけ」


入った。


壁の厚みを抜ける感覚が、途中で消えた。


次に見えたのは、水だった。


上にも、下にも、横にも。


巨大な水塊の中に、黒い建物が沈んでいる。窓らしき穴には青白い光が灯り、そのさらに向こうを、建物より大きな影がゆっくり横切った。


憂起ちゃんの髪だけが水流に遅れて揺れる。


息は苦しくない。


服も重くならない。


「わ」


声は泡にならなかった。


彼女は笑った。


誰も見ていなかった。


沈んだ街を歩いた。


正確には、歩いたり、泳ぐ真似をしたり、面倒になると建物を突っ切ったりした。


看板は読めない。扉は開かない。端末は触っても反応しない。


そのたびに、利用者として世界から数えられていない感じがした。


別にいい。


閉ざされた店の中へ壁から入り、棚に並ぶ透明な瓶を眺める。駅らしき場所では、改札を通ろうとして何も起きず、仕方なく床を抜けた。


そこで初めて困った。


帰り道が分からない。


憂起ちゃんは水中で止まった。


振り返る。


同じ色の建物が、どこまでも並んでいた。


「……あれ」


目印を置いていない。


物を置けないから、最初から考えていなかった。


十分ほど探した。


二十分ほど迷った。


途中で大きな魚の腹の中を通ってしまい、思ったより骨が多いことを知った。


三十分後、遠くに見覚えのある黒い塔を見つけた。


その瞬間。


まだ誰もいないはずの広場から、悲しさが来た。


音より先に。


景色より先に。


胸の奥だけが、誰かを失ったあとの形になった。


憂起ちゃんは止まった。


広場には何もない。


崩れたベンチ。


水草。


砂に半分埋まった、小さな靴。


巨大な影がまた遠くを横切った。


「……ここ、嫌ですね」


今度は笑わなかった。


場所だけ覚えた。


実体がないなりの覚え方で。


帰りの隙間は、黒い塔の裏にあった。


抜ける。


空調機の振動が戻る。


油とパンの匂いが戻る。


店内時計は十二時二十九分だった。


憂起ちゃんは天井からバックヤードへ降りた。


途中で帽子が棚に引っかかっているクルーを見つけ、少し直そうとして、逆に斜めにした。


直そうとして、さらにずれた。


諦めた。


壁際へ戻る。


輪郭が戻る。


少し後、近くを通ったクルーに今日の様子を聞かれた。


憂起ちゃんは考えた。


水没した街。


読めない看板。


魚の腹。


誰もいない広場から先に届いた悲しさ。


それから、落とした注文票。


「……特には」


小さく答えた。


その日の業務記録に、憂起ちゃんに関する異常は残らなかった。


ただ、閉店後。


誰も触っていないはずの注文票が一枚だけ、少し湿っていた。

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