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第10話「名前、まだ聞いてません」


笑い声が厨房に響いた。


憂起ちゃんは俯いた。


それから、少しだけ笑った。


遠回りも。


悪くなかった。


「で」


隣から声がした。


「ここ、本当にあなたの店?」


「はい」


憂起ちゃんは顔を上げた。


厨房。


見慣れた作業台。


壁際の冷蔵庫。


フライヤーから上がる油の音。


間違いない。


帰ってきた。


問題は。


知らないクルーも一緒に帰ってきたことだった。


向こうは珍しそうに厨房を見回している。


こちらのクルーは、もっと珍しそうに向こうを見ていた。


一人。


二人。


三人。


手が止まる。


トレーが止まる。


冷蔵庫を開けたまま止まっている人までいる。


憂起ちゃんは嫌な予感がした。


怪異ではない。


もっと苦手なもの。


説明だった。


「憂起ちゃん」


呼ばれた。


「……はい」


「その方は?」


来た。


憂起ちゃんは隣を見る。


知らないクルーもこちらを見る。


名前。


そういえば。


「……分かりません」


厨房が静かになった。


「分からない?」


「はい」


「一緒に帰ってきたんですよね?」


「はい」


「どなたですか?」


「……まだ聞いてません」


知らないクルーが吹き出した。


ひどい。


憂起ちゃんは少し睨んだ。


たぶん。


自分では睨んだつもりだった。


「ごめんごめん。だって、あれだけ一緒に歩いたのに」


「聞こうとしました」


「ベル鳴ったね」


「はい」


「二回目は?」


「帰れたら教えるって言いました」


「はい」


「帰れたね」


「はい」


そこで相手は黙った。


憂起ちゃんも待った。


厨房のみんなも待った。


換気扇だけが働いている。


「…………」


「…………」


「……名前」


憂起ちゃんが催促した。


「覚えてたんだ」


「ずっと気になってました」


相手は少し笑った。


それから、名札を指で隠した。


憂起ちゃんは初めて気づいた。


名札があった。


ずっと。


たぶん最初から。


見ればよかった。


「…………」


「今気づいた?」


「……はい」


「見せない」


「なんでです?」


「悔しそうだから」


「悔しくないです」


悔しかった。


少し。


「じゃあ当てて」


「無理です」


「即答?」


知らない世界の知らない人の名前を当てる方法などない。


たぶん。


でも。


少し面白そうだった。


「……何文字です?」


「そういうゲームじゃないでしょ」


「違うんですか」


「違う」


また笑われた。


その横で、こちらのクルーが口を挟んだ。


「とりあえず、客席へ行きませんか?」


助かった。


憂起ちゃんはすぐ頷いた。


説明会は延期になった。


     *


窓際の席。


あの濡れた足跡が止まっていた場所だった。


今は乾いている。


椅子も普通に収まっている。


知らないクルーが座る。


憂起ちゃんは向かいに浮いた。


その隣には、説明を聞くためこちらのクルーが一人座った。


テーブルの上。


紙コップが二つ。


一つは知らないクルーの分。


もう一つは。


憂起ちゃんの前に置かれた。


「……私、飲めません」


「知ってます」


「じゃあ、これは」


「なんとなく」


憂起ちゃんは紙コップを見る。


湯気が細く上がっている。


持てない。


飲めない。


でも。


自分の前にある。


少し嬉しい。


なので何も言わなかった。


「それで」


こちらのクルーが訊いた。


「どこへ行っていたんですか?」


難問だった。


憂起ちゃんは考えた。


地下。


古いパンデモニウム。


水没した街。


骨の街。


紙袋。


宇宙。


知らないパンデモニウム。


地下。


水。


子供。


帰還。


全部言うと長い。


「……散歩です」


「長くないですか?」


「少し」


「どこまで?」


「宇宙」


紙コップを飲みかけていた知らないクルーがむせた。


「そこだけ言う!?」


「行きました」


「行ったけど!」


こちらのクルーが額へ手を当てる。


「順番にお願いします」


憂起ちゃんは困った。


順番。


どこからだろう。


天井の穴からか。


ベルからか。


濡れた足跡からか。


そもそも厨房で誰にも見られず遊んでいたところからか。


そこまで言う必要はない。


たぶん。


「……地下に行きました」


「はい」


「知らない店がありました」


「はい」


「水の街に行きました」


「はい?」


「そのあと骨の街です」


「待ってください」


止められた。


やっぱり長くなりそうだった。


憂起ちゃんは紙コップを見る。


飲めたら間が持つのに。


知らないクルーは楽しそうだった。


ずるい。


     *


説明には四十分かかった。


かなり頑張った。


途中、知らないクルーが何度も補足した。


憂起ちゃんが、


「袋に入りました」


で済ませたところを、


「その袋がいろんな世界に繋がってたんだよ」


と足し。


「宇宙に行きました」


を、


「自分から惑星まで飛ぼうとしてた」


と余計に詳しくし。


「迷ってません」


には、


「めちゃくちゃ迷ってた」


と訂正した。


訂正ではない。


意見の相違だった。


「散歩です」


「迷子」


「帰れます」


「死なないとでしょ?」


「最悪の場合です」


「最悪を帰宅手段に数えるのやめなよ」


こちらのクルーは途中からメモを取るのをやめた。


賢明だった。


ただ。


子供の話になった時。


空気が変わった。


「触れたんですか?」


「はい」


憂起ちゃんは右手を見る。


もう温度は消えている。


それでも覚えている。


小さかった。


温かかった。


握り返された。


「普段は?」


「触れません」


「人にも?」


「抜けます」


知らないクルーが手を伸ばす。


憂起ちゃんの手へ。


指が抜けた。


何度見ても不思議そうな顔をする。


「なのに、その子だけ」


「はい」


「何者だったんでしょう」


「分かりません」


これはいつもの答えだった。


でも。


今までより少しだけ、言いにくかった。


分からない。


だから気になる。


それだけなら楽しい。


けれど、あの子については。


知りたい。


少し違う意味で。


また会いたい。


たぶん。


憂起ちゃんはテーブルの下を見た。


足跡はない。


感情も来ない。


ベルも鳴らない。


静かだった。


「探しますか?」


こちらのクルーが訊いた。


憂起ちゃんは顔を上げた。


「……今日はいいです」


二人とも驚いた。


「何ですか」


「いや」


「珍しいなって」


「……疲れました」


「疲れないんじゃなかった?」


知らないクルーが言った。


「身体は」


「じゃあ何が疲れたの?」


憂起ちゃんは考えた。


説明。


人と歩くこと。


待つこと。


相手が通れる道を探すこと。


誰かに合わせること。


どれも一人なら必要なかった。


「……いろいろです」


悪くはなかった。


ただ。


一人より大変だった。


それも本当だった。


     *


しばらくして。


知らないクルーが立ち上がった。


「じゃ、帰ろうかな」


憂起ちゃんは顔を上げた。


帰る。


そうだった。


この人にも店がある。


自分のパンデモニウムではない。


別のパンデモニウム。


「……帰れるんですか」


「来た道で帰れば」


「来た道」


二人で客席を見る。


厨房。


その奥。


壁。


古いパンデモニウムへ続いていた場所。


憂起ちゃんはソウルハイドを使った。


壁へ入る。


すぐ戻った。


「……ないです」


「え」


「普通の壁です」


「嘘」


知らないクルーが厨房へ走った。


壁を叩く。


こん。


こん。


ただの壁。


憂起ちゃんも顔を入れる。


断熱材。


配線。


向こうはバックヤード。


それだけ。


「閉じた?」


「たぶん」


「じゃあ私、帰れない?」


憂起ちゃんは少し考えた。


紙袋。


地下。


あの扉。


別の入口。


探せば、たぶん。


「……探します?」


「今から?」


「はい」


「何時間?」


「分かりません」


「嫌」


即答だった。


憂起ちゃんは少し驚いた。


自分なら探す。


むしろ喜んで探す。


でも。


この人は違う。


疲れる。


お腹も空く。


喉も渇く。


寝る必要もある。


壁も抜けられない。


それが普通だった。


「今日はここ泊まる」


「……ここに?」


「駄目?」


憂起ちゃんは答えようとした。


自分の店ではない。


自分が決めることではない。


なのでこちらのクルーを見る。


困った顔をしていた。


知らないクルーも見る。


三人で見る。


「……確認します」


こちらのクルーが立ち上がった。


正しい人だった。


     *


その間。


二人きりになった。


知らないクルーは椅子へ座り直した。


「名前」


憂起ちゃんが言った。


「まだ言う?」


「約束です」


「忘れてるかと思った」


忘れていない。


お菓子も。


憂起ちゃんは相手のポケットを見る。


「あ」


相手も気づいた。


「こっちも覚えてた?」


「はい」


菓子が取り出される。


小さな包み。


テーブルへ置かれた。


憂起ちゃんの紙コップの横。


食べられない。


今は。


「身体に戻ったら食べる?」


「……はい」


「じゃあ預けとく」


「ここに?」


「身体置き場まで三年なんでしょ?」


「歩けば」


「歩かない方法は?」


ある。


一番簡単な方法。


霊体の自分を壊す。


それだけ。


身体へ戻る。


完全な状態で。


今すぐでもできる。


憂起ちゃんは少し考えた。


身体へ戻れば。


菓子を食べられる。


それから。


この人とは別れる。


この人はここに残る。


憂起ちゃんは菓子を見る。


「……あとで食べます」


「今じゃないんだ」


「はい」


「なんで?」


「まだ、こっちにいるので」


相手は少しだけ目を細めた。


「そっか」


それ以上聞かなかった。


助かった。


憂起ちゃんは菓子を見ていた。


触れない。


でも。


置いてある。


自分のために。


これは、なくさない方がいい。


かなり。


問題は、自分では持てないことだった。


「……預かっててください」


「私が?」


「はい」


「帰るまで?」


「はい」


「じゃあ人質だ」


憂起ちゃんは顔を上げた。


「人質」


「これ返してほしかったら、私をちゃんと帰してね」


菓子をポケットへ戻す。


ひどい。


でも。


悪くない。


「……分かりました」


「よろしく」


相手が手を差し出した。


握手。


憂起ちゃんも手を出す。


抜ける。


「あ」


「……そうなります」


二人で手を見る。


少しして。


相手が笑った。


憂起ちゃんも。


ほんの少し。


笑った。


「そういえば」


相手が言う。


「まだ名前言ってなかった」


憂起ちゃんはすぐ顔を上げた。


今度こそ。


相手が名札から手をどける。


そこに名前が書いてあった。


憂起ちゃんは読む。


一度。


もう一度。


覚える。


今度は忘れないように。


「――っていうの」


「……はい」


「よろしく、憂起」


「……よろしくお願いします」


名前を知った。


それだけだった。


なのに。


知らないクルーではなくなった。


不思議だった。


相手が席を立つ。


宿泊の話を聞きに厨房へ向かう。


憂起ちゃんは残った。


テーブルの前。


飲めない紙コップ。


乾いた床。


誰も座っていない向かいの椅子。


静か。


一人になった。


いつもなら。


ここからが自由時間だった。


ソウルハイド。


天井。


壁。


どこへ行ってもいい。


今日はまだ、気になる場所がたくさんある。


地下も。


紙袋も。


あの子も。


憂起ちゃんは天井を見た。


行こうと思えば行ける。


いつでも。


「…………」


厨房から笑い声がした。


さっき名前を知った人の声。


憂起ちゃんは天井へ上がらなかった。


代わりに。


厨房の方へ浮いていく。


理由は。


別に大したものではない。


たぶん。


名前を知ったばかりなので。


もう少し。


呼ぶ機会があってもいいと思っただけだった。

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