第11話「今日は、消えないです」
宿泊は許可された。
問題は、寝る場所だった。
「休憩室でいいよ」
名前を知ったクルーが言った。
「毛布ある?」
「あります」
憂起ちゃんが答えた。
「枕は?」
「あります」
「シャワーは?」
「あります」
「着替え」
「……たぶん」
「たぶん?」
「見てきます」
憂起ちゃんは壁へ入った。
三秒後。
戻った。
「ありました」
「早」
「場所、知ってるので」
「じゃあ案内して」
憂起ちゃんは頷いた。
廊下へ出る。
角を曲がる。
壁へ入る。
「あ」
戻る。
相手が廊下の真ん中で立っていた。
「ごめんなさい」
「今、普通に置いていこうとしたよね?」
「……いつもこっちなので」
「私、壁抜けできないんだけど」
「はい」
知っていた。
数時間かけて、かなりよく知ったはずだった。
それでも身体が先に壁へ行った。
憂起ちゃんは廊下の先を見る。
普通に行くなら。
角。
階段。
バックヤード。
休憩室。
遠い。
壁なら七秒。
「こっちです」
「ちゃんと廊下で行ってね」
「はい」
歩く。
正確には、相手が歩く横を浮く。
靴音。
こつ。
こつ。
憂起ちゃんにはない音。
さっきまで、その隣には濡れた小さな足音があった。
今はない。
少し静かだった。
「ねえ」
「はい」
「あなた、いつもこんな感じなの?」
「こんな?」
「人を置いて壁に入る」
憂起ちゃんは考えた。
「……人と一緒に行かないので」
「ああ」
相手はそれだけ言った。
少し歩く。
「じゃあ私が初めて?」
憂起ちゃんは止まりかけた。
何が。
一緒に歩くのが。
遠回りするのが。
待つのが。
人に合わせて、通れる道を選ぶのが。
たぶん。
「……そうかもしれません」
「へえ」
「何ですか」
「別に」
気になる。
でも聞くと、また笑われそうだった。
聞かなかった。
少しだけ悔しい。
*
休憩室にはソファがあった。
毛布。
枕。
予備の制服。
名前を知ったクルーは借りた服を身体へ当てた。
「大きい」
「そうですか」
「そっちの店、みんなこれ着るの?」
「人によります」
「あなたは?」
憂起ちゃんは自分を見る。
白い、幽霊らしい服。
「……これです」
「制服?」
「たぶん違います」
「たぶん多いなあ」
憂起ちゃんは黙った。
相手が笑う。
服を畳む。
ソファへ置く。
毛布を広げる。
人が泊まる。
その準備を、憂起ちゃんは近くで見ていた。
自分には必要がないものばかりだった。
寝床。
着替え。
水。
食事。
温度。
鍵。
全部。
なくても困らない。
だから、気にしたことがなかった。
「夕飯どうしよう」
「厨房にあります」
「食べていいの?」
「確認した方がいいです」
「じゃあ聞いてくる」
相手が立つ。
憂起ちゃんもついていく。
「一人で行けるよ?」
「……はい」
「じゃあ、ここにいる?」
憂起ちゃんは休憩室を見る。
誰もいない。
壁。
天井。
閉じたロッカー。
知らない隙間が一つ。
入ってみたい。
かなり。
いつもなら、もう消えている。
ソウルハイド。
誰にも見えなくなって。
好きなところへ行く。
今日だって、気になるものは山ほどあった。
地下。
紙袋。
子供。
あの扉。
全部、途中だった。
「憂起?」
名前を呼ばれた。
「……行きます」
「そっか」
二人で廊下へ出た。
隙間はあとにした。
少し惜しかった。
でも。
なくなる穴ではなさそうだった。
たぶん。
*
夕食は、名前を知ったクルーだけが食べた。
憂起ちゃんは向かいに浮いていた。
トレー。
バーガー。
ポテト。
飲み物。
「見られてると食べにくい」
「すみません」
憂起ちゃんは横へずれた。
「そこじゃなくて」
「じゃあ、どこです?」
「普通に向かいにいていいよ」
戻る。
よく分からない。
相手は包み紙を開いた。
湯気。
焼けた肉の匂い。
ソース。
憂起ちゃんは食べなくても平気だった。
匂いは分かる。
見える。
音も聞こえる。
だから食事を見るのは嫌いではない。
むしろ好きだった。
食べられないものは、見ていても減らない。
相手のものは減るけれど。
一口。
二口。
「美味しいですか」
「美味しい」
「さっきのお菓子は普通って言いました」
「あれは普通」
「これは?」
「美味しい」
「どれくらい?」
「何その質問」
「食べられないので」
相手が少し考えた。
バーガーを見る。
「帰ったら、また食べたいくらい」
分かりやすかった。
「……そうですか」
相手がもう一口食べる。
憂起ちゃんはそれを見た。
帰ったら。
その言葉が少し引っかかった。
この人は帰る。
当たり前だ。
自分の店がある。
憂起ちゃんが帰ってきたように。
この人も帰る。
そのために道を探す。
約束した。
ポケットには、憂起ちゃん用のお菓子もある。
だから帰さなければならない。
それでいい。
「明日さ」
相手がポテトを一本取った。
「帰り道、探す?」
「はい」
即答した。
「やっぱり?」
「約束なので」
「真面目」
「普通です」
「じゃあ朝から?」
「いつでも」
「あなた寝ないもんね」
「はい」
「私は寝るから」
「知ってます」
「朝まで勝手にいなくならないでよ」
憂起ちゃんは相手を見る。
「……どうしてです?」
「起きた時、誰も知らない店で一人は嫌でしょ」
そういうものらしい。
憂起ちゃんは一人でも平気だった。
知らない店なら、むしろ少し嬉しい。
壁がある。
天井がある。
知らない部屋がある。
全部見に行ける。
でも。
この人は違う。
「分かりました」
「ほんと?」
「はい」
「ソウルハイド禁止」
「…………」
厳しい条件だった。
「朝まで?」
「朝まで」
長い。
「トイレは?」
「私には必要ないです」
「そうじゃなくて」
相手が笑った。
憂起ちゃんは少し考える。
朝まで。
何時間だろう。
その間、誰にも見つからない自由時間を使わない。
壁にも行かない。
地下にも行かない。
子供も探さない。
ただ。
いる。
「……分かりました」
「約束ね」
「はい」
*
閉店後。
休憩室。
照明が一つ消された。
相手はソファ。
憂起ちゃんは天井近く。
「そこにいるの?」
「はい」
「見えにくい」
少し下がる。
「そこ?」
「はい」
「まだ高い」
さらに下がる。
「……ここです」
「うん」
面倒だった。
でも。
少し面白い。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
相手が毛布を被った。
五分。
十分。
二十分。
寝息。
憂起ちゃんは浮いていた。
暇だった。
ものすごく。
時計を見る。
秒針。
一周。
また一周。
ロッカーを見る。
壁を見る。
天井を見る。
あの隙間。
昼に見つけたものとは別の隙間だった。
細い。
黒い。
たぶん配管の穴。
入りたい。
少しだけ。
いや。
かなり。
でも約束した。
憂起ちゃんは見ないことにした。
三十秒後。
また見た。
穴は逃げない。
たぶん。
相手は寝ている。
少しくらいなら。
いや。
駄目だ。
朝までいる。
そう言った。
憂起ちゃんは天井から降りた。
ソファの横。
床から少し浮く。
相手の寝顔を見る。
人が眠っているところを、こんなに近くで見ることはあった。
たくさん。
ソウルハイド中に。
誰にも気づかれず。
それは観察だった。
これは少し違う。
自分がここにいることを。
この人は知って眠っている。
変な感じだった。
憂起ちゃんは壁を見る。
行ける。
どこへでも。
行かない。
それは。
思っていたより難しかった。
*
ちりん。
憂起ちゃんは顔を上げた。
ベル。
遠い。
厨房。
相手は眠っている。
ちりん。
もう一度。
身体が動いた。
壁へ。
手が半分入る。
止まる。
約束。
憂起ちゃんは手を抜いた。
扉を見る。
普通に行く。
廊下。
厨房。
時間がかかる。
でも行ける。
相手を起こすべきか。
寝ている。
疲れていた。
三時間も遠回りをした。
水の道を避けて。
階段を上って。
バールを振って。
自分のせいで。
たぶん。
「…………」
一人で見て。
すぐ戻る。
それなら。
約束を破ったことになるだろうか。
たぶん、なる。
ちりん。
三度目。
今度は。
近かった。
休憩室の外。
憂起ちゃんは扉を見る。
起こす。
起こさない。
ベル。
扉。
眠っている人。
選ぶ。
その時。
ぺたり。
濡れた足音。
扉の外。
憂起ちゃんは動かなかった。
ぺたり。
近づく。
床と扉の隙間から、水が細く入ってきた。
相手の靴。
ソファの下。
毛布の端。
濡れる。
憂起ちゃんは手を伸ばした。
触れない。
毛布を上げられない。
靴を動かせない。
水を止められない。
こういう時。
自分は驚くほど何もできない。
壁なら抜けられる。
どこへでも行ける。
巨大なものの中にだって入れる。
死んでも帰れる。
でも。
濡れていく毛布一枚を。
持ち上げられない。
「……起きてください」
小声。
反応なし。
「……起きてください」
少し大きく。
寝返り。
起きない。
水が広がる。
ぺたり。
扉のすぐ向こう。
憂起ちゃんはソファへ手を入れた。
相手の肩へ。
抜ける。
触れない。
当然。
「…………」
なら。
別の方法。
憂起ちゃんは相手の身体へ入った。
一瞬。
感覚が混ざる。
重い。
眠い。
温かい。
心臓。
呼吸。
自分にはないものが、急に近い。
相手の指が動いた。
憂起ちゃんはすぐ抜けた。
「うわっ!」
相手が跳ね起きた。
「な、何!?」
「……すみません」
「今の何!?」
「起きなかったので」
「何した!?」
「入りました」
「人の中に!?」
「はい」
「起こし方!」
「すみません」
相手が肩を押さえる。
憂起ちゃんは少し反省した。
かなり効いた。
次からは最後の手段にしよう。
「それより」
「それより!?」
憂起ちゃんは床を見た。
相手も見る。
水。
毛布。
靴。
扉。
表情が変わった。
「……来た?」
「たぶん」
ぺたり。
扉の向こう。
一歩。
相手がソファから降りる。
濡れた床へ足をつく。
憂起ちゃんの隣まで来た。
「開ける?」
憂起ちゃんは扉を見る。
一人なら。
もう向こうにいる。
でも。
「……一緒に見ます?」
相手が眠そうな目のまま笑った。
「そのために起こしたんでしょ」
違う。
たぶん。
危ないから起こした。
一人にしないため。
約束したから。
でも。
それも少しある。
「……はい」
相手がノブへ手を掛ける。
憂起ちゃんは、その横に浮いた。
扉が開く。
廊下。
誰もいない。
水だけ。
濡れた小さな足跡。
一つ。
二つ。
三つ。
厨房とは反対方向へ続いている。
その先は。
店の出口だった。
「外?」
「みたいです」
二人で追う。
今度は憂起ちゃんも壁を抜けなかった。
*
自動ドアは開かなかった。
深夜。
施錠されている。
憂起ちゃんは抜けられる。
相手は抜けられない。
二人で止まる。
「まただね」
「……はい」
「鍵は?」
「あります」
「どこ?」
憂起ちゃんは考えた。
「……分かりません」
「そこから?」
「普段、使わないので」
相手が笑いを堪えた。
「笑わないでください」
「ごめん」
足跡はガラスの向こうへ続いている。
道路。
街灯。
夜。
濡れているのは足跡だけ。
雨は降っていない。
その先。
道路の中央。
小さな子供が立っていた。
顔は。
やっぱり見えない。
水面みたいに揺れている。
憂起ちゃんは近づこうとした。
ガラス。
抜けられる。
でも。
止まる。
隣を見る。
「行ってきていいよ」
言われた。
憂起ちゃんは相手を見る。
「待ってるから」
ガラスを見る。
子供を見る。
行ける。
すぐ。
「……鍵、探します」
「え?」
「一緒に行くので」
「でも」
「今日は」
憂起ちゃんは少し考えた。
うまく言えない。
人と一緒にいると。
遠い。
遅い。
面倒。
できないことが増える。
一人なら七秒の道に、三時間かかる。
それでも。
「……通れない方も、悪くなかったので」
相手は少し黙った。
それから。
「じゃあ探そっか」
「はい」
二人で踵を返す。
その時。
ガラスの向こうで。
子供が手を上げた。
憂起ちゃんは振り返る。
小さな手。
あの手。
握った手。
でも。
今度は差し出していなかった。
指が。
ゆっくり。
左右へ動いた。
ばいばい。
そう見えた。
「……帰るんですか」
子供は答えない。
感情も来ない。
憂起ちゃんはガラスへ近づいた。
抜けない。
その場から見る。
子供が一歩、後ろへ下がる。
もう一歩。
街灯の影。
輪郭が薄くなる。
消える。
足跡も。
そこで終わった。
「行かなくていいの?」
隣から訊かれた。
憂起ちゃんはしばらく外を見た。
行けば追えるかもしれない。
ソウルハイド。
壁。
道路。
建物。
どこまででも。
今ならまだ。
でも。
「……はい」
答えた。
少し残念だった。
かなり気になる。
たぶん明日になったら後悔する。
それでも。
今は。
「戻ります」
「休憩室?」
「はい」
「鍵探さないの?」
「朝でいいです」
相手が笑った。
「珍しい」
最近。
それをよく言われる。
二人で暗い客席を戻る。
今度は。
憂起ちゃんが少し先へ行って。
止まった。
相手が追いつくのを待った。
また進む。
待つ。
また進む。
とても遅い。
でも。
今日はそれでよかった。
休憩室へ戻る。
濡れた毛布。
濡れた靴。
消えた足跡。
相手が新しい毛布を取りに行く。
憂起ちゃんは一人になった。
天井。
壁。
黒い隙間。
まだある。
入りたい。
憂起ちゃんはしばらく見た。
それから。
入らなかった。
ソウルハイドも使わない。
相手が戻ってきた時。
ちゃんと見えるところにいた。
「いた」
「……はい」
「よかった」
その一言が。
思ったより。
少しだけ。
嬉しかった。
憂起ちゃんは天井を見上げる。
行ける場所は、昨日までと同じだけあった。
たぶん。
増えてすらいる。
でも。
行かない場所が。
一つ増えた。
自分で決めて。
増やした。
それは不自由というより。
少しだけ。
新しい遊び方に近かった。




