第12話「戻ってくるので」
朝。
憂起ちゃんは、まだ見えるところにいた。
休憩室のソファ。
新しい毛布。
眠っていたクルーが目を開ける。
最初に天井を見た。
次に壁。
最後に、ソファの横。
「……いた」
「はい」
憂起ちゃんは床から少し浮いていた。
「ずっと?」
「はい」
「一回も消えてない?」
「はい」
相手は毛布の中でしばらく黙った。
褒められると思った。
昨日も、待てた時は褒められた。
なので少し待った。
「……ごめん」
違った。
「何がです?」
「朝までいなくならないでって言ったこと」
憂起ちゃんは首を傾げた。
「約束です」
「うん。でも、そういう意味じゃなかった」
「どういう意味です?」
「起きた時に、帰っちゃってたら嫌だっただけ」
「帰ってません」
「知ってる。ずっといたんでしょ」
「はい」
「何時間?」
時計を見る。
かなり。
「……六時間くらいです」
相手が顔を覆った。
憂起ちゃんには、何が悪いのか分からなかった。
約束した。
守った。
途中でベルも鳴った。
子供も来た。
それでも戻った。
かなり上手くできたと思う。
「私、あなたに六時間じっとしててほしかったわけじゃないよ」
「でも、消えないでって」
「消えても戻ってくればいいじゃん」
憂起ちゃんは黙った。
戻ってくる。
それは。
考えていなかった。
*
朝食のあと。
二人は客席の隅にいた。
相手の前には紙コップ。
憂起ちゃんの前にも紙コップ。
昨日と同じ。
中身は冷めていた。
誰かが片づけようとして。
「それ、憂起ちゃんのだから」
と言われて戻されたらしい。
飲めないのに。
まだ自分のだった。
少し嬉しい。
「今日、帰り道探すんだよね」
「はい」
「どうする?」
憂起ちゃんは壁を見る。
昨日までなら、まず入る。
でも。
相手は入れない。
「……普通に探します」
「なんで?」
「一緒に行くので」
相手が紙コップを置いた。
「それ、やめない?」
「何をです?」
「私に合わせて、あなたまで不便になるの」
憂起ちゃんは少し考えた。
「でも、通れないので」
「私がね」
「はい」
「あなたは通れる」
「はい」
「じゃあ通ってよ」
簡単な話だった。
簡単すぎて、よく分からない。
「……一人になります」
「なるね」
「いいんですか」
「何が?」
「一人で」
相手は憂起ちゃんを見た。
「私、一人でトイレ行けるよ」
「知ってます」
「一人でご飯も食べられる」
「はい」
「一人で道も探せる」
「危ないです」
「あなたも一人で宇宙まで行ったでしょ」
言い返せなかった。
かなり危ないことをしていた。
でも平気だった。
自分だから。
「私が壁抜けできないのは、私の不自由でしょ」
「はい」
「あなたが壁抜けできるのは、あなたの自由」
「……はい」
「交換しなくていいよ」
憂起ちゃんは紙コップを見る。
湯気はもうない。
昨日。
自分の前に置かれたことが嬉しかった。
飲めないからといって、相手も飲むのをやめてほしいとは思わなかった。
たぶん。
そういうことなのだろうか。
「じゃあ」
憂起ちゃんは顔を上げた。
「見てきます」
「うん」
「すぐ戻ります」
「すぐじゃなくていい」
「でも」
「戻ってくればいい」
また。
その言葉。
憂起ちゃんは少しだけ考えた。
それから。
ソウルハイドを使った。
姿が消える。
気配も消える。
久しぶりだった。
一晩しか使っていないのに。
ものすごく久しぶりな気がした。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
返事があった。
消えたあとに。
それが少し変だった。
*
壁。
抜ける。
棚。
抜ける。
天井。
上がる。
配管の間。
狭い。
関係ない。
床。
下へ。
コンクリート。
その下。
空洞。
憂起ちゃんは笑った。
誰にも見えない。
誰にも待たなくていい。
壁を壁として扱わなくていい。
久しぶりの自由時間。
やっぱり楽しい。
まず、昨日の出口側。
鍵の位置。
知らない。
なので鍵ではなく、鍵の向こうを探す。
自動ドアを抜ける。
道路。
子供はいない。
足跡もない。
店の外壁に沿って回る。
搬入口。
倉庫。
閉じたシャッター。
全部抜ける。
三分で、昨日二人なら三十分かかった範囲を見終えた。
速い。
かなり。
少し嬉しくなって、もう一周した。
意味はない。
でも速かった。
次。
地下。
昨日見つけた黒い隙間。
入る。
配管ではなかった。
細い空間が、壁の中を斜めに下っている。
途中で三つに分かれた。
左。
冷蔵庫の裏。
右。
知らない客席。
下。
赤と黄色。
紙袋。
一つ。
憂起ちゃんは止まった。
入りたい。
かなり。
袋の口は開いている。
中は暗い。
以前と同じなら、どこか別の世界へ行ける。
行って。
少し見て。
戻る。
できる。
たぶん。
「…………」
憂起ちゃんは袋の横を通った。
我慢したのではない。
今は別のものを探している。
帰り道。
それが終わったら入ればいい。
自由は逃げない。
たぶん。
その考え方は、少し楽だった。
さらに下。
古い厨房。
使われていないフライヤー。
壁の向こう。
細い廊下。
その先。
扉。
赤い塗装。
取っ手。
鍵穴。
扉の向こうへ顔を入れる。
憂起ちゃんは止まった。
見覚えがある。
別のパンデモニウム。
あのクルーと出会った店。
厨房。
配置が少し違う。
読めないメニュー。
誰もいない。
でも。
帰り道だ。
見つけた。
憂起ちゃんはそのまま向こうへ入ろうとした。
一歩。
止まる。
行ける。
自分だけなら。
相手を呼ばなくても。
先に行って待つこともできる。
でも。
今は偵察だった。
帰るのは相手だ。
憂起ちゃんは戻った。
*
客席へ戻ると。
相手がいなかった。
憂起ちゃんは止まった。
紙コップ。
二つ。
椅子。
空。
「…………」
胸は動かない。
心臓がないので。
でも。
何かが一段、下へ落ちた気がした。
いない。
帰った?
どこへ。
一人で?
危ない。
だから。
やっぱり一緒にいた方が。
「憂起?」
後ろ。
振り返る。
相手がいた。
両手に何か持っている。
鍵束。
「戻ってたんだ」
「……はい」
「早いね」
「どこ行ってたんですか」
少し強くなった。
声が。
相手が目を丸くする。
「鍵探し」
「一人で?」
「うん」
「危ないです」
「店の人に聞いて、保管場所から借りただけ」
「でも」
「戻ってきたでしょ」
憂起ちゃんは黙った。
相手が鍵束を振る。
じゃら。
「そっちは?」
「……見つけました」
「帰り道?」
「はい」
「私も鍵見つけた」
二人で少し黙る。
憂起ちゃんは鍵を見る。
相手は壁を見る。
別々に探した。
別々の方法で。
両方、戻ってきた。
「じゃ、行こっか」
「はい」
*
地下。
憂起ちゃんは最短で行かなかった。
相手と同じ道を歩いた。
でも途中で。
「この先、階段長いです」
「どのくらい?」
憂起ちゃんは床へ顔を入れた。
下を見る。
戻る。
「三階分です」
「便利」
「はい」
少し嬉しい。
次の角。
「右、行き止まりです」
壁へ顔を入れる。
「左は?」
反対側へ。
「行けます」
「じゃ左」
一緒にいる。
でも。
同じことはしていない。
憂起ちゃんは壁を使う。
相手は鍵を使う。
憂起ちゃんが先を見る。
相手が扉を開ける。
速かった。
昨日より。
ずっと。
赤い扉へ着く。
相手が鍵束を一本ずつ試す。
一つ目。
違う。
二つ目。
違う。
三つ目。
回った。
かち。
「開いた」
「はい」
「向こう、私の店なんだよね?」
「はい」
相手の手がノブに掛かる。
でも開けない。
憂起ちゃんを見る。
「先、見てきて」
「……一緒に行かないんですか」
「扉は開く。もう行ける」
「はい」
「でも、向こうで何か起きてたら怖いから」
「はい」
「あなたなら見て戻れるでしょ」
憂起ちゃんは扉を見る。
「戻るまで、待ってます?」
「待つよ」
「一人で?」
「大丈夫」
少し前なら。
それでも一緒に行こうとしたかもしれない。
相手が通れる道を探して。
同じ速度で。
同じ場所を。
でも。
憂起ちゃんは扉へ入った。
向こう側。
知らない厨房。
昨日までいた店。
誰もいない。
客席。
照明。
入口。
異常なし。
ただ。
カウンターに。
小さな濡れた手形が一つあった。
憂起ちゃんは近づく。
感情。
来ない。
ベル。
鳴らない。
手形だけ。
その横に。
紙ナプキン。
黒いペンで。
丸が二つ描いてあった。
離れた丸。
その間に、一本の線。
子供の絵に見えた。
意味は分からない。
憂起ちゃんは少し見た。
持てない。
なので位置を覚えた。
それから。
戻る。
赤い扉。
壁を抜ける。
相手がいた。
床へ座っていた。
「おかえり」
「……はい」
「どうだった?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「手形はありました」
「大丈夫じゃないじゃん」
「それ以外は」
相手が立つ。
服の埃を払う。
「じゃあ帰れるね」
「はい」
相手が扉を開ける。
向こうの空気が流れてくる。
自分の店の匂いではない。
相手の店の匂い。
「憂起」
「はい」
「一緒に来る?」
憂起ちゃんは少し考えた。
行ける。
行きたい。
知らない店。
知らない壁。
まだ見ていない場所がたくさんある。
でも。
自分の店にも、見ていない穴がある。
紙袋もある。
子供もいる。
どちらも気になる。
前なら。
気になる方へ、そのまま行った。
最近なら。
相手がいる方へ行った。
今日は。
「……あとで行ってもいいですか」
相手が笑った。
「どうやって?」
憂起ちゃんは赤い扉を見る。
「ここから」
「閉じたら?」
「別の道探します」
「三年かかったら?」
「その時は、三年後に」
「長いなあ」
「でも、行きます」
相手は少しだけ黙った。
それからポケットを叩いた。
菓子。
まだ入っている。
「じゃ、これ預かっとく」
「はい」
「取りに来て」
「はい」
「約束」
「……はい」
相手が扉の向こうへ入る。
一歩。
二歩。
振り返る。
憂起ちゃんは、こちら側にいる。
「消えていいよ」
言われた。
憂起ちゃんは少し笑った。
たぶん。
今度はちゃんと。
「……行ってらっしゃい」
「いってきます」
扉が閉まる。
かち。
静かになった。
一人。
憂起ちゃんは天井を見る。
壁を見る。
床を見る。
どこへでも行ける。
それは昨日までと同じだった。
ソウルハイド。
輪郭が消える。
気配が消える。
久しぶりのようで。
今度は、少し違う。
誰にも見えない。
でも。
戻ってくる場所を知っている人が、一人いる。
憂起ちゃんは壁へ入った。
今度は。
待たせるためではなく。
また会うために。
好きな方へ行った。




