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皇太子の孤独、ヴァレンの記憶

 葉萌月十八日目、午後八時近く。

 ヴィスカルトは私室で、一人立っていた。

 元老院の演説の後、午後二時から約一時間四者会議。──そして午後三時、皇宮に戻ったヴィスカルトは過去五時間私室で一人長く考えていた。

 午前の議場の瞬間。──神崎の二十年の最も重い演説。──そしてヴィスカルト自身の二層構造の立場の表明。──公式の対立、しかし内面の深い賛同。──さらに、二階の傍聴席で立ったセレネ・アウレリア・アルヴェリア王女の十六歳のご挨拶。──二百年の両国の歴史で、初めての瞬間。

 ヴィスカルトは机の前に座っていた。──机の上に、兄ヴァレンの三つの遺品が並んでいた。──兄の絵。──兄の鞭。──そして銀の翼のブローチ。──ブローチは今ヴィスカルトの胸に。

 夕食はほとんど口にしなかった。──しかし深い空腹は感じなかった。──ただ内面で何かが徐々に整理されつつあった。──十九年、毎晩見続けた夢——兄の伸ばされた手と自分の止まった手——が昨夜の告白の後消えていた。──しかしその夢の奥に、もう一つの層があった。──兄ヴァレンとの幼い日の温かい記憶。──十二歳の自責の層に、覆い隠されていた層。

 ヴィスカルトは机の上の兄の絵を、長く見つめた。──兄が五歳のヴィスカルトを描いた絵。──幼いヴィスカルトの笑顔。──兄が優しい目で、弟の笑顔を見ながら丁寧に描いた絵。

 ヴィスカルトの目に深い温かさが宿った。

 扉のノックの音。

 二回。──静かな、しかし確かなノック。

 ヴィスカルトは振り返った。──時計を見た。──午後八時ちょうど。──セレネが来た。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは扉に向かって、ゆっくりと歩いた。──そして扉を自分の手で開けた。

 セレネが立っていた。──白絹のドレスではなく、簡素な紺の服。──首に母の真珠のネックレス。──そして深い覚悟の目。

 「殿下。──夜分、お伺いいたしました」

 セレネの声は静かだった。

 ヴィスカルトは深く一礼した。

 「セレネ殿下。──お入りください」

 セレネは私室に入った。──ヴィスカルトは扉を自分の手で閉めた。──二人だけの空間になった。

 ヴィスカルトは机の両脇の椅子の一つを、セレネに示した。──セレネはゆっくりと椅子に座った。──ヴィスカルトも机の向かい合いの椅子に座った。

 二人の間の机の上に、兄ヴァレンの三つの遺品の跡。──そして机の両脇に、二つの温かいハーブティー。──ヴィスカルトがセレネのために、用意していた。

 しばらく、二人は沈黙した。──私室の暖炉の橙色の火が、静かに爆ぜていた。──夜の静寂。──そして机の上の三つの遺品。

 ヴィスカルトは溜息をついた。

 「セレネ殿下。──今日午前、ハーゲン帝国の元老院の場でご挨拶をいただきありがとうございました」

 セレネは深く頷いた。

 「殿下。──こちらこそご演説の後のヴィスカルト殿下の二層構造のご立場の表明。──保守派の議員たちの視野で見ても、改革派の視野で見ても深いご決断の瞬間でした」

 ヴィスカルトは小さく頷いた。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは長く机の上の三つの遺品を見つめた。

 「セレネ殿下。──今日午前の議場で、私は父の肖像画の下に立ちました。──そして父の肖像画の視線を、深く感じました」

 ヴィスカルトの声は低かった。

 「──しかし不思議なことです。──十九年私は父の肖像画を見上げる度、深い苦悩を感じて来ました。──しかし今日初めて父の肖像画を見上げて苦悩ではなく、深い悲しみと理解を感じました」

 セレネは長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──十九年の自責の解放の後の新しい感覚ですね」

 ヴィスカルトは深く目を伏せた。

 「セレネ殿下。──そうです。──父も虐待の連鎖の被害者であること。──そして父の苦しみの根源が、千年の計画の構造的な歪みであること。──過去十日、私は深く整理して参りました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──しかしもう一つの層をお伝えする覚悟が、整いました」

 セレネの目が、長くヴィスカルトを見つめた。

 ヴィスカルトは深く息を吸った。

 「セレネ殿下。──兄ヴァレンの最後の瞬間。──稜殿の概要の共有と、別の形で私自身の声でお伝えいたします」

 セレネは深く頷いた。

 「殿下。──お伺いいたします」

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトはゆっくりと机の上の三つの遺品の一つを、両手で取った。──兄ヴァレンの絵。──兄が五歳のヴィスカルトを描いた絵。

 「セレネ殿下。──この絵は、兄ヴァレンが十二歳の時私が五歳の頃私の姿を描いた絵です」

 ヴィスカルトは絵をセレネに見せた。──セレネは長く絵を見つめた。──絵の中の五歳のヴィスカルト。──幼い笑顔。──そして兄の優しい視線が、絵に丁寧に込められていた。

 「殿下。──幼いヴィスカルト殿下の笑顔。──そして兄上の優しい視線」

 ヴィスカルトは深く頷きを返した。

 「セレネ殿下。──兄ヴァレンは十九歳で亡くなりました。──しかし亡くなるまでの十二年、彼は私の最も深い友でありました」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが宿った。

 「──兄は私を『ヴィス』と呼んでいました。──私が五歳の時、兄十二歳。──兄が私に、初めて馬の乗り方を教えてくれました。──私は馬から何度も落ちました。──兄は毎回笑いながら、私を起こしてくれました」

 ヴィスカルトは一度息を吐いた。

 「──兄は馬に乗るのが誰よりも上手でした。──皇宮の馬丁長が兄の乗馬を見て、いつもこう言っていました。『ヴァレン殿下の乗馬は千年に一人の才能』と」

 セレネの目に深い感慨が宿った。

 「殿下。──兄ヴァレン皇太子の明るい姿。──私は過去、夏萌月の対面の時以来何度も稜殿と神崎閣下から伺って参りました。──しかしヴィスカルト殿下ご自身の声でお伺いするのは、深い瞬間です」

 ヴィスカルトは何度か頷いた。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは長く考えた。

 「セレネ殿下。──兄と私の幼い日のもう一つの思い出をお伝えします」

 セレネは黙って頷いた。

 ヴィスカルトは目を閉じた。──十九年ぶりに、深く回想した。──しかし今度の回想は、自責の層ではなかった。──兄との幼い日の温かい記憶の層。

 「──私が八歳の時兄、十五歳。──ある夏の午後私たちは皇宮の中庭の噴水の横で、長く座っていました。──兄は私にこう言いました。『ヴィス。──いつか私が皇帝になる。──そしてお前が皇太子。──私たち二人でハーゲン帝国の新しい章を設計する』」

 ヴィスカルトの声は震えていた。──しかし奥に深い温かさが宿っていた。

 「──八歳の私は深く頷きました。──『兄上。──私は兄上の皇太子として、深くお支えいたします』」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──そして兄は笑いながらこう言いました。『ヴィス。──皇太子と皇帝、しかし私たちの関係はただの皇太子と皇帝ではない。──私たちは兄弟。──そして最も深い友。──いつまでもお前は、私のヴィスであってほしい』」

 ヴィスカルトの目に深い涙が滲んだ。──しかし自責の涙ではなかった。──兄への深い愛の涙。

 「セレネ殿下。──兄のその言葉を十九年、私は自責の層に覆い隠されて忘れていました。──しかし過去十日自責の解放の後、徐々に思い出して参りました」

 セレネは長くヴィスカルトを見つめた。──そして小さく頷いた。

 「殿下。──兄、ヴァレン皇太子の深い愛情の姿。──ヴィスカルト殿下の内面の奥に、深く生きておられた姿です」

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは深く息を吐いた。

 「セレネ殿下。──しかしその四年後。──兄、十九歳。──私、十二歳の春」

 ヴィスカルトの声が、徐々に深くなっていった。──最も深い層への入り口のとき。

 「──父が兄を皇宮の私室に呼び、山での狩猟を命じました。──そして私が兄に同行することを、お願いしました」

 セレネは頷いた。──稜殿の概要の共有で、聞いていた内容。──しかしヴィスカルト殿下ご自身の声で、改めて聞く瞬間。

 ヴィスカルトは続けた。

 「──翌日私と兄は父の付き添いの衛兵三人と共に、山に向かいました。──衛兵たちは明らかに父の腹心でした。──兄は馬に乗る前、自分の鞍を慎重に点検しました。──しかし気づきませんでした。──鞍の革紐に深い切り込みが内側に隠されていたこと」

 ヴィスカルトは長く息を吐いた。

 「──山の中腹で兄の馬が突然、暴走しました。──鞍の革紐が切れたようです。──兄は馬を止めようとしましたが馬は止まりませんでした。──兄の馬は崖の縁に向かって、走り続けました」

 ヴィスカルトの目から、涙が流れ始めた。──しかし止めなかった。

 「──兄の馬が崖の縁のすぐ手前でようやく止まりました。──しかし止まった瞬間、馬の勢いで兄が馬の上から前に飛び出した。──兄は崖の縁に、落馬しかけていました」

 「──兄の両足は崖の縁を超えていた。──しかし兄の両手が、崖の縁の土をしっかりと掴んでいた。──兄の体が崖の上で辛うじて止まっていた」

 ヴィスカルトは長く息を吐いた。

 「セレネ殿下。──私は馬から降りて、兄の方に走った。──兄の両手の指が白くなっていた。──兄の体が徐々に崖の下に滑りつつあった」

 ヴィスカルトの声が震えていた。

 「──兄の目が私を見上げました。──兄の口が開いて、こう言いました。『──ヴィスカルト助けて』」

 セレネの目に深い涙が滲んだ。──しかし流さなかった。──ヴィスカルト殿下の語りを邪魔しないように。

 ヴィスカルトは続けた。

 「──しかしその瞬間。──十二歳の私の頭の中で、一瞬思考が走りました。──三つの思考」

 ヴィスカルトの声は震えていた。

 「──第一の思考。──『兄が死ねば、次の皇太子は私』」

 「──第二の思考。──『私は父に愛される』」

 「──第三の思考。──『私は皇太子の地位を得る』」

 ヴィスカルトの目から、涙が止まらなくなっていた。

 「セレネ殿下。──三つの思考は一瞬しかし私の手の動きを止めました。──兄の手が私に向かって伸びている瞬間に、私は手を伸ばさなかった。──そして兄の両手の指が徐々に滑り土から離れた。──兄は崖から落ちた」

            ─── ─── ───

 セレネは長くヴィスカルトを見つめた。──稜殿の概要で聞いていた内容。──しかしヴィスカルト殿下ご自身の声で聞く瞬間、深さが別だった。──三十四歳の皇太子の十二歳の躊躇の深さ。──そして十九年の自責の深さ。

 セレネは静かに息を吐いた。

 「殿下」

 セレネの声は静かだった。──しかし奥に深い共感が宿っていた。

 「──十二歳のヴィスカルト殿下。──父、フリードリヒ二世皇帝の十年の虐待を受けて育った十二歳の少年」

 ヴィスカルトの目が、長くセレネを見つめた。

 セレネは続けた。

 「殿下。──稜殿がおっしゃったお言葉。『──殿下の十九年の自責は、罪ではなく深さです』。──私も深く賛同いたします」

 ヴィスカルトは頷きを返した。

 セレネは続けた。

 「殿下。──私は五年前母を毒殺で失いました。──しかし母の毒殺の真相を知ったのは最近です。──十一年、母の死の本当の意味を知らずに生きて参りました」

 セレネの声は低かった。──しかし奥に深い覚悟が宿っていた。

 「殿下。──しかし母は自分の毒殺の可能性を二十年の文通の活動の間、深く感じておりました。──そして自分の活動がトレスト家に察知される可能性を知っておりながら、活動を続けた。──娘の私を残して自分の命を危険に晒し続けた」

 セレネは続けた。

 「殿下。──私は最初母を深く悲しみました。──娘の私を残して、自分の命を賭けた母。──しかし徐々に私は母の選択を深く理解いたしました。──母は千年の歪みを内部から止めようと、二十年戦っていた女性」

 ヴィスカルトは長くセレネを見つめた。

 「セレネ殿下。──お母様の選択の深さ」

 セレネは静かに頷いた。

            ─── ─── ───

 セレネは深く息を吐いた。

 「殿下。──私の十六歳の覚悟。──そしてヴィスカルト殿下の十九年の自責。──両方を繋ぐ共通の層が、あるように感じます」

 ヴィスカルトの目が、長くセレネを見つめた。

 セレネは続けた。

 「殿下。──私たちはそれぞれの家族の枠的な歪みの内部で深く苦しんで、参りました。──私の母の毒殺。──そしてヴィスカルト殿下の兄の死。──両方とも千年の計画の構造の内部の犠牲者」

 ヴィスカルトは静かに頷いた。

 セレネは続けた。

 「殿下。──しかし私たちはそれぞれの家族の構造的な歪みの内部でただの被害者では、ありません。──私たちはそれぞれの家族の選択を引き受ける立場、です」

 セレネの声は、徐々に深くなっていった。

 「殿下。──ヴィスカルト殿下の十二歳の躊躇。──しかしその躊躇は十年の虐待を受けて育った、少年の内面の深い傷の結果。──そしてその傷は千年の計画の構造の内部の仕組み的な、歪みの一部」

 ヴィスカルトの目に深い感慨が、宿った。

 セレネは続けた。

 「殿下。──私の母の毒殺とヴィスカルト殿下の兄の死。──両方とも、千年の計画の構造の内部の犠牲。──そして私たち二人はその構造の内部でそれぞれの家族の最後の章を引き受ける立場、です」

 ヴィスカルトは無言で頷いた。

 「セレネ殿下。──お言葉の深さ」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は深く沈黙した。

 暖炉の橙色の火が、徐々に強くなっていた。──夜が、深まりつつあった。──そして月光が、皇宮の中庭を淡く照らしていた。──ヴィスカルトの私室の空気が、深い感慨で満ちていた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「セレネ殿下。──十六歳のあなたのお言葉。──私の十九年の自責の層を稜殿と神崎のお言葉と別の形で深く抱きしめてくださり、ました」

 セレネはわずかに頷いた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「セレネ殿下。──そしてもう一つお伝え、することがあります」

 セレネの目が、長くヴィスカルトを見つめた。

 ヴィスカルトは長く考えた。──そしてゆっくりと口を開いた。

 「セレネ殿下。──夏萌月の対面の時私は殿下にこうお伝え、しました。『年齢差十八歳。──殿下には別の若い幸せな道があるはず、です』」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──しかし過去十日十九年の自責の解放の後私の内面の姿勢が根本から変わり、ました。──そして葉萌月五日目の午前殿下が私の私室に訪ねてくださりました瞬間私は新しい決意を確認、いたしました」

 ヴィスカルトの声は、低かった。──しかし奥に深い決意が、宿っていた。

 「セレネ殿下。──私は殿下との結婚を深く希望いたします。──ただし政略結婚ではなく、同じ喪失を抱える者としての同盟として」

 セレネの目に深い感慨が宿った。

            ─── ─── ───

 皇宮の応接間に、深い沈黙が流れた。

 ヴィスカルトは机の上の三つの遺品──兄ヴァレンの絵、銀の翼のブローチ、母シモーネの最後の手紙──の前で、立ち上がっていた。──そして十六歳の王女の前で、十九年抱えてきた重みを開いていた。

 セレネは座ったまま、長くヴィスカルトを見つめた。──若い王女の目に、いくつもの感情が同時に動いていた。──十一歳で母を失った悲しみ。──皇太子の十二歳の躊躇への共鳴。──そして二人で千年の歪みを書き直す未来への、最初の予感。

 セレネの右手が、首の真珠のネックレスを無意識に握った。──母エリナの形見。──二十年の文通を続けて毒殺された母の、最後の遺品。

 (──母さん。──私は今、ヴィスカルト殿下のお申し出を受けようとしています。──母さんは二十年前、ハーゲン帝国に毒の手紙を送り続けた。──そして私は、ハーゲンの皇太子と結婚する。──母さんの戦いの最終形が、これかもしれません)

 セレネは深く息を吸った。

 そして真珠のネックレスから手を離した。

 「殿下。──私も深く希望いたします」

 セレネの声は静かだった。──しかし奥に深い覚悟が宿っていた。

 「殿下。──二年後、私は十八歳。──正式に結婚の判断をする瞬間。──私の覚悟が変わっていないなら、私は殿下のお申し出を深くお受けする覚悟です」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが宿った。

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「セレネ殿下。──二年後、十八歳のご決断深くお預けいたします」

 セレネは一度頷いた。

 「殿下。──そしてその二年の間私は女王候補として徐々に訓練を、深めます。──そして殿下との文通と公式の訪問の機会を増やし、ます」

 ヴィスカルトは無言で頷いた。

 「セレネ殿下。──そしてその二年の間私は千年の計画の書き直しの第二段階と第三段階の本格的な進行を、率います。──皇太子の立場で神崎宰相と稜殿と、共に進める」

 セレネは何度か頷いた。

 「殿下。──そして二年後十八歳私は女王として即位の可能性が、ある。──そして女王として殿下の皇太子との結婚の儀を迎える可能性が、ある」

 ヴィスカルトは頷きを返した。

 「セレネ殿下。──二人の王と、皇太子としての結婚ではなく同じ喪失を抱える者としての同盟としての結婚」

 セレネはゆっくりと頷いた。

 「殿下。──そうです。──二百年の両国の対立の枠組みの表面の奥の深い、絆を結ぶ結婚」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は深く沈黙した。

 ヴィスカルトは、机の上の兄ヴァレンの絵を長く見つめた。──そしてゆっくりと口を開いた。

 「兄上」

 ヴィスカルトの声は、低かった。──しかし深い温かさが、宿っていた。

 「──兄上が八歳の私に約束してくださった、こと。『──いつまでもお前は私のヴィスであって、ほしい』。──十九年ぶりに私はその約束を思い出し、ました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──兄上。──私は皇太子としてハーゲン帝国の千年の計画の書き直しの最終形を設計、する。──そして二年後セレネ殿下との結婚を迎える、覚悟です。──兄上の亡き後十九年の私の内面の再構成の後ようやく新しい章が、始まる」

 ヴィスカルトは長く絵を見つめた。

 「──兄上。──私はヴィスです。──そしてこれからも、ヴィスであり続けます。──皇太子、ではないただのヴィスとして深く生きて参ります」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿っていた。

 セレネは、長くヴィスカルトを見つめた。──そしてゆっくりと口を開いた。

 「殿下」

 セレネの声は、静かだった。

 「──ヴィスと、お呼びしてもよろしいでしょうか」

 ヴィスカルトの目が、長くセレネを見つめた。

 ヴィスカルトはわずかに頷いた。

 「セレネ殿下。──兄と稜殿と神崎しか私をヴィスと呼んだことが、ない。──しかし殿下にお呼びいただくこと、深く嬉しい」

 セレネは頷きを返した。

 「ヴィス。──二年後お会いする瞬間まで私たちは文通と公式の訪問で関係を深めて、参ります。──そして二年後私は十八歳としてヴィスの隣に立つ覚悟、です」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿った。

 「セレネ。──ありがとう、ございます」

 ヴィスカルトの声で、初めてセレネの名が。──ただ「セレネ」と呼ばれた、瞬間。──十六歳の王女と、三十四歳の皇太子の関係の新しい層が開かれた瞬間。

            ─── ─── ───

 夜、午後十時近く。

 セレネは、立ち上がった。

 「ヴィス。──そろそろ、失礼いたします」

 ヴィスカルトも、立ち上がった。

 二人は、扉までゆっくりと歩いた。──扉の前でセレネは、ヴィスカルトに深く一礼した。

 「ヴィス。──次のお手紙を、深く楽しみにしております」

 ヴィスカルトは深く一礼を、返した。

 「セレネ。──私もです。──そして近いうちに、次の訪問の機会を設計いたしましょう」

 セレネは黙って受け止めた。

 ヴィスカルトは、扉を開けた。──ヘルマン副宰相が、廊下で待っていた。──そして皇宮の馬車に向かった。

 セレネは、廊下でもう一度振り返った。

 「ヴィス。──十二歳のヴィスの躊躇は罪では、ありません。──そして十九年の自責はヴィスの深さです。──兄上、ヴァレン皇太子も深く頷いておられるはず」

 ヴィスカルトの目に深い感慨が、宿った。

 「セレネ。──ありがとう」

 セレネは深く一礼して、廊下に出た。──ヘルマンが、セレネを皇宮の正面玄関の馬車に案内した。

 ヴィスカルトは、扉の前で長く立っていた。──セレネの後ろ姿が、廊下の奥に徐々に小さくなっていく姿を見つめ続けた。

            ─── ─── ───

 セレネの姿が、完全に消えた後。

 ヴィスカルトは、ゆっくりと私室に戻った。──そして扉を、自分の手で閉めた。──一人、の空間になった。

 ヴィスカルトは、机の前に戻った。──そして机の上の兄、ヴァレンの絵を両手で取った。

 長く絵を見つめた。

 「──兄上」

 ヴィスカルトの声は、低かった。

 「──私は十九年ぶりに深く呼吸できて、おります。──そして十九年ぶりに新しい章を迎えて、おります」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──兄上。──セレネ殿下十六歳の王女。──兄上の目に似た、目を持つ女性。──そして二年後、私の隣に立つ覚悟を確認してくださりました」

 ヴィスカルトは長く絵を見つめた。

 「──兄上。──兄上が八歳の私に約束してくださった、こと。『──いつまでもお前は私のヴィスであって、ほしい』。──十九年私はその約束を忘れて、いました。──しかし今夜セレネ殿下が『ヴィス』と私を呼んでくださった瞬間私はその約束を十九年ぶりに深く思い出し、ました」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿った。

 「──兄上。──私はこれから皇太子としてハーゲン帝国の千年の計画の書き直しの最終形を設計、します。──しかしその皇太子の立場の奥にただのヴィスとして深く生きて、参ります。──兄上のお約束のように」

 ヴィスカルトは、絵を机の上にゆっくりと戻した。──そして窓辺に、立った。

 葉萌月、十八日目の夜空。──月は、徐々に満ちつつあった。──そして星が、無数に輝いていた。──皇宮の中庭の若葉が、月光の下で淡く輝いていた。

 ヴィスカルトは長く夜空を見つめた。

 胸の銀の翼のブローチを、両手で撫でた。

 「兄上。──十九年の自責から解放された後の新しい、章。──そしてセレネ殿下との新しい関係。──二つの層が、徐々に結実していく」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿っていた。──十九年、ぶりに彼の目に希望の光が宿りつつあった。

            ─── ─── ───

 夜、午後十一時近く。

 稜は、神崎の宰相公邸の書斎で神崎と向かい合いに座っていた。──セレネの馬車が、皇宮から戻って来る瞬間を待っていた。

 セレネが、午後十一時近く宰相公邸に戻って来た。──馬車から、降りたセレネの目に深い感慨が宿っていた。

 稜と、神崎は応接間でセレネを迎えた。──セレネは深く息を、吐いた。

 「師神崎閣下。──夜、ヴィスカルト殿下の私室で長くお話いたしました」

 稜は深く頷きを返した。

 「殿下。──いかがで、ございましたか」

 セレネは長く考えた。──そして一度頷いた。

 「師。──ヴィスカルト殿下ご自身の声で兄の最後の局面の話をお伺い、いたしました。──そしてもう一つお伺いしたのは兄ヴァレン皇太子の十二歳のヴィスカルト殿下、への深い愛情のお話」

 セレネは続けた。

 「師。──そしてヴィスカルト殿下ご自身の声で結婚のご希望をお伺い、いたしました。『政略結婚ではなく同じ喪失を抱える者としての同盟、として』。──私は深くお受けする覚悟を表明いたしました」

 稜の目が、長くセレネを見つめた。

 「殿下。──二年後、十八歳のご決断の確認」

 セレネは深く頷いた。

 「師。──そう、です」

 神崎が、小さく頷いた。

 「セレネ殿下。──十年私が見続けた、ヴィスカルト。──そして過去二週間の新しいヴィスカルトと、殿下の関係の深まり。──二人の関係の新しい章が本格的に始まる瞬間、ですね」

 セレネは小さく頷いた。

            ─── ─── ───

 夜、午後十一時半。

 稜は、客室に戻った。──そして革の手帳を開いた。最初の頁の裏に、新しい紙を添えた。

 書いた、一行。

 「──葉萌月十八日目夜。セレネ殿下、ヴィスカルト殿下の私室ご訪問。──ヴィスカルト殿下、ご自身の声で兄の最後の時の話の続きをお伝え。──兄、ヴァレン皇太子の幼い日の深い愛情の開示。──結婚のご希望の表明とセレネ殿下のご賛同。──二年後、十八歳のご決断の確認。──ヴィスカルト殿下がセレネ殿下を『セレネ』と呼びセレネ殿下がヴィスカルト殿下を『ヴィス』と呼ぶ、瞬間。──関係の新しい層」

 稜は、紙を革の手帳に挟んだ。

 窓辺に、立った。

 葉萌月、十八日目の夜空が徐々に深まりつつあった。──月光が、皇宮の白い塔のシルエットを淡く照らしていた。──皇宮の奥のどこかに、ヴィスカルトがいる。──三十四歳の皇太子。──十九年の自責の解放、の後新しい章を迎えた男。──そして十六歳の王女との関係の新しい、層を確立した男。

 稜は長く皇宮を見つめた。

 胸の中で、今日の葉萌月十八日目のひとときが徐々に整理されつつあった。──午前の元老院の演説。──午後の四者会議。──そして夜のヴィスカルト殿下と、セレネ殿下の関係の新しい層の確立。

 稜は深く息を、吐いた。

 新しい三人の関係の最も深い層が、葉萌月十八日目の夜、徐々に結実しつつあった。──そして明日葉萌月十九日目、神崎の宰相からの退任の本格的な開始の場面。──次の層が、もうすぐ来る。

 葉萌月、十八日目の夜が徐々に深まりつつあった。

 稜は長く夜空を見つめて、いた。

ヴィスカルトの私室、セレネの訪問。

E92では稜と神崎の前で語った兄の死の瞬間を、E97ではセレネ自身の前で語る。

「いつまでもお前は私のヴィスであってほしい」——兄ヴァレンの言葉。

十九年自責の層に覆い隠されて忘れていた、温かい記憶の一行。

書けて良かったです。

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