神崎、決戦を宣言
葉萌月八日目、午後二時。
神崎の宰相公邸の長い会議室。
四人が長机の周りに座っていた。
長机の奥の上座に、神崎四十一歳。──宰相の青い礼服。──そして机の両脇に、稜四十二歳とヴィスカルト三十四歳。──稜は簡素な紺の外套。──ヴィスカルトは黒の礼服、しかし胸に銀の翼のブローチ。──そして長机の最も奥、神崎の向かい合いにセレネ十六歳。──白絹のドレス。──首に母の真珠のネックレス。
四人。──稜と神崎、二人の参謀。──ヴィスカルト皇太子。──そしてセレネ王女。──四人だけの会議。
しかし今日の会議室の空気は、過去の対話とは違っていた。
四人の机の中央に、一通の書簡が置かれていた。白い羊皮紙。まだ書かれていない状態。羽ペンが二本、インク壺の横に並んでいた。
そして書簡の横に──小さな銀の杯が四つ、置かれていた。
稜の杯。神崎の杯。ヴィスカルトの杯。セレネの杯。──四つの杯の中に、わずかな赤い液体が注がれていた。深紅。──ハーゲン帝国の南部の最も古い葡萄酒。
稜は神崎の目を見つめた。
(──玲。──四人の杯。──お前は、今日何を切り落とすつもりだ)
神崎の目に、何か重いものが宿っていた。──過去二ヶ月半、稜が見たことのない神崎の目。──二十年の宰相の立場で抱えてきた何かを、今日ここで切り落とす男の目。
神崎は深く息を吸った。
「皆様」
神崎の声は低かった。──しかし奥に、これまでとは違う決意が宿っていた。
「──今日、皆様の前で私の宣言をいたします。──二十年の宰相の立場の終わりを告げる宣言です」
セレネの息が、わずかに止まった。
ヴィスカルトの目が、長く神崎を見つめた。
稜は神崎の目を、深く見つめ続けていた。
─── ─── ───
神崎は長く、四人を見渡した。──稜、ヴィスカルトセレネ。──三人の目が神崎を見つめていた。
神崎はゆっくりと息を吐いた。
「皆様。──私は十日後の葉萌月十八日目、元老院で公式な演説をいたします。──千年の計画の構造の最初の開示と、千年の計画の書き直しの必要性。──元老院の議員五十名の前で」
ヴィスカルトの目が長く、神崎を見つめた。
「神崎。──元老院での公式な演説。──過去二十年の宰相の立場では、初めての構造的な開示」
神崎は静かに目を伏せた。
「ヴィスカルト殿下。──そうです。──過去二十年の宰相の立場では私は千年の計画の構造を、内部の文書で扱って参りました。──しかし開示はしませんでした。──今回初めて元老院で公式に開示する」
神崎は続けた。
「殿下、稜、セレネ殿下。──そしてもう一つお伝えすることがあります。──私の演説はヴィスカルト殿下との公式な対立の形を取ります」
ヴィスカルトの目が、長く神崎を見つめた。
神崎は続けた。
「ヴィスカルト殿下。──元老院の議員五十名の内約半分は、改革派です。──ヘルマン副宰相とエリカ議員が過去十年徐々に育ててこられた議員、たち。──しかしもう半分は保守派です。──保守派の議員、たちは千年の計画の構造の開示に深く抵抗するはずです」
「殿下。──私は宰相として千年の計画の開示の必要性を議員、たちの前で訴えます。──しかしその訴えは皇太子である殿下との公式な対立の形を、取ります。──保守派の議員たちの視野では宰相と皇太子の対立として見えるように設計、いたします」
─── ─── ───
稜は長く神崎を見つめた。
「玲。──公式な対立の形と、内部の同志の関係。──二層構造を設計する、と」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──そうです。──表面の対立は保守派の議員たちを安心させる、構造。──しかし内部ではヴィスカルト殿下と私と稜と、セレネ殿下の四人の同志の関係。──二層構造の運用」
神崎は、続けてヴィスカルトを見た。
「ヴィスカルト殿下。──しかし表面の対立は敵としての対立では、ありません。──同志としての対立です。──元老院の議員たちの前で私と殿下は明確に異なる立場を表明、します。──しかしその対立の奥に共通の目的——千年の計画の書き直しの最終形民への公開——が、ある」
ヴィスカルトは長く神崎を見つめた。
「神崎。──表面の対立と内部の同志の関係。──そして最終的には、公式の対立自体が保守派の議員たちを徐々に改革派に引き寄せる構造の設計ということですか」
神崎はわずかに頷いた。
「殿下。──そうです。──保守派の議員たちは宰相の過激な主張と皇太子の慎重な立場の間で揺れ動く、はずです。──そしてその揺れの中で徐々に改革の方向に引き寄せられる可能性が、ある」
ヴィスカルトは長く考えた。
──しかし即座に頷きはしなかった。
「神崎」
ヴィスカルトの声には、わずかな躊躇いがあった。
「──私が公式に師と対立するということは、十年の師弟関係を、保守派議員たちの前で、表面的には裂くということだ」
ヴィスカルトは机の上の銀の杯を、ふと見つめた。──まだ口にしていない深紅の葡萄酒。
「──それを、保守派議員の中で『ヴィスカルトは神崎を裏切った』と読む者が出る。──私は、十年の師弟関係を、政治の道具として使うのか」
神崎の目が、ヴィスカルトを長く見つめた。
「ヴィスカルト殿下」
神崎の声は静かだった。
「──道具として使うのではありません。──二層構造の中で、表面的に対立を演じる。──しかし内部の同志の関係は、十年のまま、揺るがない」
ヴィスカルトは目を閉じた。──十秒の沈黙。──二十秒。
「──しかし、神崎」
ヴィスカルトの声が震えた。
「私が十二歳の時から十年、私を支え続けてくれた師との『公式な対立』を、私は完璧に演じきれるのか。──演説の場で、私の目が、保守派議員に『これは演技です』と読まれてしまわないか」
神崎は深く息を吐いた。──ヴィスカルトの懸念は、十九年の自責の解放の直後の、新しい不安だった。
「殿下。──演技を完璧に演じる必要はありません。──むしろ、迷いがある方が、保守派には自然に映ります。──皇太子が宰相に対して『深い議論の上の対立』を表明する。──それで十分です」
ヴィスカルトは長く考えた。──そして、ゆっくりと頷いた。
「神崎。──分かった。──私はあなたと公式に対立する。──そして元老院の中で、新しい秩序の設計を共に議論する」
ヴィスカルトの声は震えていた。──しかし覚悟を宿していた。
神崎の目に深い感慨が宿った。
「ヴィスカルト殿下。──ご決意、深い」
─── ─── ───
セレネが、長く聞いていた。──そして深く息を吸った。
しかしすぐには口を開かなかった。
セレネの右手が、無意識に首の真珠のネックレスを握っていた。──震えていた。──十六歳の王女が、ハーゲン帝国の元老院の議員五十名の前に立つ覚悟を、心の中で何度も問い直していた。
「神崎閣下、ヴィスカルト殿下、師」
セレネの声は、わずかに震えていた。
「──正直に申し上げます。──私は、怖い」
三人の男が、セレネを見た。
セレネは続けた。
「十六歳。──ハーゲン帝国の元老院の議員五十名の前に、アウレリア王国の女王候補として立つ。──二百年の両国の歴史で初めての場面。──私の小さな声が、議員たちにどう届くのか、私には分かりません」
セレネの目に、わずかに涙が滲んだ。
「──しかし、怖さの奥に、もう一つの感覚があります。──母エリナが二十年抱え続けた感覚。──『私が今ここで立たなければ、誰が立つのか』」
セレネは深く息を吐いた。
「──私も、葉萌月十八日目の元老院の演説の場に、アウレリア王女として同席します」
神崎の目が、長くセレネを見つめた。
「セレネ殿下。──ご同席、ですか」
セレネは頷きを返した。──怖さを抱えたままで。
「神崎閣下。──私は十六歳。──そして女王候補。──元老院の議員たちの前で、アウレリア王国の女王候補として立つ覚悟です」
セレネは続けた。
「神崎閣下。──私は神崎閣下の演説の後、短いご挨拶をいたします。──アウレリア王国の女王候補として、千年の計画の書き直しの、ハーゲン帝国の改革に深く賛同する立場の表明」
神崎は、長くセレネを見つめた。
「セレネ殿下。──十六歳の王女がハーゲン帝国の元老院の場で立つ、覚悟。──二百年の両国の歴史で初めてのくだり、です」
セレネは黙って頷いた。
ヴィスカルトが、長くセレネを見つめた。──そして深く息を、吐いた。
「セレネ殿下。──ご決意、深い」
ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿っていた。──三日前の私室での訪問と、別の形の深い温かさ。──十六歳の女王候補が、自分の足でハーゲン帝国の元老院の場に立つ覚悟を確認する瞬間に立ち会う、ヴィスカルトの深い感慨。
稜も長くセレネを見つめた。
「殿下。──ご覚悟の深さ。──十六歳の女王候補としての最大の外交的、挑戦」
セレネは静かに頷いた。
「師。──私は母の二十年の文通の活動の続きを引き受けます。──しかし母は、文通でした。──私は、対面で活動を続けます。──そして対面の場を、ハーゲン帝国の元老院の場にまで広げる覚悟です」
─── ─── ───
稜は長く四人を見渡した。
神崎の二十年の宰相としての最初の公式な、開示の瞬間。──ヴィスカルトの十九年の自責の解放の後の新しい、皇太子としての最初の公式な対立の瞬間。──そしてセレネの十六歳の女王候補としての最大の外交的、挑戦のとき。──三人の決意が、稜の前で形を取りつつあった。
稜は深く息を、吐いた。
「玲、殿下、セレネ殿下」
稜の声は、静かだった。
「──三人のご決意深く受け止め、ました。──私は参謀として三人のご決意の枠組みを丁寧に設計、いたします」
稜は続けた。
「玲殿下、セレネ殿下。──十日後葉萌月十八日目の元老院の演説のための最終的な設計をこれから四人で共に進め、ましょう」
神崎は頷きを返した。
「稜。──設計を、お預けする」
ヴィスカルトもわずかに頷いた。
「稜殿。──私の立場の設計を、お預けします」
セレネも一度頷いた。
「師。──私のご挨拶の設計を、お預けします」
稜は深く目を伏せた。
─── ─── ───
四人は、約二時間長く議論を続けた。
神崎の演説の枠。──千年の計画の構造の最初の開示の範囲。──ヴィスカルト殿下と、神崎の公式な対立の形の設計。──そしてセレネ殿下のご挨拶の内容。──四人の深い、議論。
午後、四時頃議論が徐々に終わりに向かいつつあった。
神崎は深く息を、吐いた。
「皆様。──設計ほぼ完成、しました。──十日後葉萌月十八日目元老院の場で四人のご決意が結実、する」
ヴィスカルトは深く頷いた。
稜と、セレネも何度か頷いた。
神崎は、続けて長く四人を見渡した。
「皆様。──そして私はもう一つお伝えすることが、あります」
稜の目が、長く神崎を見つめた。
神崎は深く息を、吸った。
「皆様。──過去二ヶ月私は稜と共に千年の計画の書き直しの組み方を進めて、参りました。──そして過去十日私はヴィスカルト殿下の十九年の自責の解放の局面に立ち会い、ました」
神崎の目に深い感慨が、宿った。
「皆様。──十年私はヴィスカルト殿下の師で、ありました。──しかし十年の間私の内面の深い層をヴィスカルト殿下に開示、しなかった。──二十年前の稜への罪の骨格。──私は十年その罪を抱えながらヴィスカルト殿下の師で、ありました」
神崎は続けた。
「皆様。──昨夜私は十年ぶりにヴィスカルト殿下の前で私の罪を開示しました。──そしてヴィスカルト殿下は私を深く受け止めてくださりました」
ヴィスカルトは無言で頷いた。
神崎は深く息を吐いた。
「皆様。──私の宰相としての二十年。──稜への罪を抱えながらの二十年。──十日後、元老院での演説で私は二十年の宰相の立場を深く超える瞬間を迎えると感じております」
─── ─── ───
稜は長く神崎を見つめた。
「玲。──二十年の宰相の立場を超える瞬間」
神崎は一度頷いた。
「稜。──そうだ。──二十年私は宰相として、千年の計画の構造の内部の保守の役を果たしてきた。──しかし過去二ヶ月、お前と共に書き直しの組み立てを進めて私は参謀の立場に戻った」
神崎は続けた。
「稜。──十日後の元老院の演説は、宰相の最後の公式な立場の瞬間。──そしてその後、私は宰相の立場を徐々にヘルマン副宰相に引き継ぐ覚悟です」
稜の息が止まった。
──二十年。
稜は心の中でその数字を反芻した。
前世で稜は神崎を十五年見続けた。──二十代の駆け出しの神崎から、彼が突然姿を消す三十代まで。──その後の異世界での二年半。──稜が知らない時間が、神崎の人生に二十年ある。
その二十年。神崎はずっと、千年の計画の構造の中で一人宰相として孤独に戦っていた。──稜への罪を抱えながら。──そして妻を喪い、孤児として育った皇族の少年の師として。──十二歳のヴィスカルトを十年、見守りながら。
(──玲。──二十年、お前は何を見てきたのか)
稜の胸の中で、神崎の二十年の重みが初めて立体的に立ち上がった。
ヴィスカルトの目も、長く神崎を見つめた。
「神崎。──宰相の立場を引き継ぐ」
神崎は静かに頷いた。
「ヴィスカルト殿下。──そうです。──二十年、私は宰相として千年の計画の内部の保守の役を果たしてきました。──しかし書き直しの第二段階以降は、改革派のヘルマン副宰相が宰相として率いる方がふさわしいと私は判断しました」
神崎は続けた。
「ヴィスカルト殿下。──そして私は参謀の立場に戻ります。──稜と共に書き直しの最終形——民への公開——の設えを進める、参謀の二人組」
ヴィスカルトは長く神崎を見つめた。
十年の師。──十二歳から二十二歳まで、ヴィスカルトを見守ってきた唯一の大人。──父からも母からも遠い場所で、神崎だけがヴィスカルトの心の支えだった。──そして今、その師が二十年の宰相の立場を降りる。
「神崎」
ヴィスカルトの声は震えていた。
「──師の二十年は私が想像する以上に、孤独な二十年でした」
神崎はゆっくりと頷いた。
「ヴィスカルト殿下。──しかし孤独はもう、終わります」
ヴィスカルトは深く頷きを返した。
「神崎。──ご決意、深い」
─── ─── ───
稜は長く、神崎を見つめた。
そして溜息をついた。
「玲」
稜の声は低かった。──しかし奥に、二十年分の感情が震えていた。
「──二十年、宰相の立場で孤独に戦ってきたお前」
神崎の目が稜を見つめ返した。
稜は続けた。
「──そして二十年の終わりに、参謀の立場に戻る瞬間」
神崎はゆっくりと頷いた。
「稜。──私の人生の最も深い転換点。──そしてお前と共に、参謀の二人組として立つ瞬間が二十年ぶりに戻る」
稜は深く息を吐いた。
(──玲。──二十年、お前は俺と再会する日を心の奥で待っていたのか)
しかし稜はそれを口には出さなかった。──ただ黙って頷いた。
「玲。──共に立つ。──十数年の参謀の二人組の、新しい章だ」
神崎の目に、初めて深い温かさが宿った。──二十年、宰相の冷たい立場で抑え込んでいた感情が、稜の前で初めて、対等の参謀仲間に向かって流れ出した瞬間。
セレネは長く二人を見つめた。
十六歳の王女には、二人の参謀の二十年の重みを完全には理解できなかった。──しかし二人の沈黙の中に流れる、深い兄弟のような絆をセレネは確かに感じ取った。
(──師、神崎閣下。──十数年離れていた二人の参謀が、ようやく再び一つの場所に立つ瞬間。──私はこの瞬間を、生涯忘れません)
─── ─── ───
しばらく、四人は深く沈黙した。
会議室の空気が、深い感慨で満ちていた。──神崎の二十年の宰相としての立場の最後の公式な、演説の宣言。──そしてその後の参謀への回帰の宣言。──十数年の参謀の関係の新しい、形への移行。
葉萌月、八日目の午後の温かい光が窓辺から長机の上を淡く照らしていた。──皇宮の白い、塔のシルエットが夏の午後の光で輝いていた。
稜は深く息を、吐いた。
「玲、殿下、セレネ殿下」
稜の声は、静かだった。
「──三人のご決意と私の参謀の立場を深く結合、します。──十日後元老院の演説の瞬間四人の新しい関係の骨格が完成、する」
神崎は何度か頷いた。
「稜。──そうだ。──そしてその骨格を、第七章以降の書き直しの第二段階第三段階の本格的な進行のための体系として活用する」
ヴィスカルトは静かに頷いた。
「神崎、稜殿、セレネ殿下。──四人の新しい関係の骨格。──ハーゲン帝国の皇太子、宰相参謀とアウレリア王国の女王候補。──二国の合同の改革の軸」
セレネも頷いた。
「殿下。──そうです。──そして第七章以降、第三段階——アウレリア王国の議会と改革派の共有——の本格的な進行のための仕組みと、なる」
─── ─── ───
会議は、午後五時頃終わった。
ヴィスカルトは、皇宮に戻る馬車に乗り込んだ。──しかし馬車に、乗る前ヴィスカルトは稜と神崎とセレネの前で深く一礼した。
「稜殿、神崎、セレネ殿下。──十日後元老院の場で四人のご決意が結実する、瞬間。──深く楽しみにしております」
稜と、神崎とセレネは深く一礼を返した。
ヴィスカルトの馬車が、宰相公邸の正門を抜けた。──皇宮へ、戻っていった。
稜と、神崎とセレネは宰相公邸の正門で長く馬車の後ろ姿を見送っていた。
神崎は深く息を、吐いた。
「稜、セレネ殿下。──ヴィスカルト殿下の新しい、姿。──三日前の自責の解放の後の姿勢」
稜は視線を返した。
「玲。──ヴィスカルト殿下、十九年の自責から解放された後徐々に本来の人格を取り戻しつつある」
セレネはゆっくりと頷いた。
「師神崎閣下。──ヴィスカルト殿下の本来の人格。──私は、三日前の訪問の瞬間わずかに感じました。──そして今日の会議でより、明確に感じました。──兄、ヴァレン皇太子に似た温かい感覚がヴィスカルト殿下の内面の奥にある」
神崎はわずかに頷いた。
「セレネ殿下。──十年私が師として見続けた、ヴィスカルト。──彼の本来の人格は十二歳の自責の層に覆い隠されて、いました。──しかし過去三日その層が徐々に解放されて本来の人格が徐々に表面に戻りつつ、ある」
─── ─── ───
しばらく、三人は宰相公邸の正門の前で長く立っていた。
葉萌月、八日目の夕方の光が徐々に傾きつつあった。──皇宮の白い、塔のシルエットが夕陽の金色の光で輝いていた。
神崎は深く息を、吐いた。
「稜、セレネ殿下。──応接間に戻り、ましょう。──夕食の用意ができて、おります」
三人は、応接間に戻った。
夕食は、簡素なものだった。──しかし温かい、肉と若葉月の葡萄酒。──ヘルマン副宰相と、エリカ議員マルセル書記官長が夕食に参加していた。
夕食の席で、神崎はヘルマンエリカマルセルに十日後の元老院の演説の計画を共有した。──そして神崎の宰相からの退任と、ヘルマン副宰相の宰相への就任の計画も。
ヘルマン副宰相は長く神崎を見つめた。
「神崎閣下。──宰相のご退任、ですか」
神崎は深く頷いた。
「ヘルマン。──二十年私は宰相として千年の計画の構造の内部の保守の役を果たして、参りました。──しかし書き直しの第二段階以降は改革派のお前が宰相として率いる方が、ふさわしい」
ヘルマンはゆっくりと頷いた。
「神崎閣下。──ご決断の深さ。──私は副宰相として十年お預けいただいて、参りました。──宰相としてお預けいただくご責務深くお受け、いたします」
エリカ議員も無言で頷いた。
「神崎閣下。──十年ご一緒いたしました。──宰相のご退任、深く感慨深いです」
マルセル書記官長も一瞬の沈黙の後、頷いた。
─── ─── ───
夕食が、終わった頃午後八時近く。
稜は、宰相公邸の庭に出た。
庭は、広く美しい英国風の庭だった。──白い、石のベンチがいくつか置かれていた。──そして庭の中央に、噴水。──夜の月光の下で、噴水の水が淡く輝いていた。
稜は、ベンチに座った。──そして長く空を見上げた。
葉萌月、八日目の夜空。──月は、徐々に満ちつつあった。──そして星が、無数に輝いていた。
稜は深く息を、吐いた。
胸の中で、今日の会議の場面がまだ残っていた。──神崎の二十年の宰相からの退任の宣言。──ヴィスカルトの公式な、対立の形の受諾。──そしてセレネのハーゲン帝国の元老院の場、への立つ覚悟。──三人の決意の結集。
扉の外で、足音が聞こえた。──稜は、振り返った。──神崎が、庭に出てきたようだった。──しかし神崎は、稜の横のベンチに座らなかった。──少し、離れた場所で立っていた。
稜は、神崎に向かって頷いた。
神崎は深く頷きを、返した。──しかし何も、言わなかった。──ただ、稜と共に夜空を見上げていた。
十数年の参謀の相棒。──二年前の嵌めの罪と、和解。──そして過去、二ヶ月半の千年の計画の書き直しの共同作業。──全てが、二人の間の深い信頼の温かさで結ばれていた。
稜は長く月を見上げた。
「──セレネ、ヴィスカルト神崎そして私」
稜の声は、低かった。──しかし奥に深い決意が、宿っていた。
「──四人の参謀と、王族の新しい物語がここから始まる」
神崎は長く稜を見つめた。──そして静かに頷いた。──しかし何も、言わなかった。──ただ、稜の決意の瞬間に立ち会っていた。
─── ─── ───
稜は長く夜空を見つめた。
胸の中で、過去二ヶ月半の出来事の全体像が、徐々に形を取りつつあった。
契約更新日からの神崎の暗殺未遂と戦時体制の骨格作り。霧峰の二十年の真相、フィオナの最期、ルクレティウスの手稿、カイルとの和解。帝都での神崎の弟子団との出会い、ブランの解放、前皇帝の書簡、エリカの調査、ヴァレンの死の外形的真相、写真立ての紋章。アウリオンに戻り、裏の冥書庫の最深部の奥のもう一つの扉、トルメアスの予言書の断片、アレクの真の遺書、エリナ前王妃の毒殺の真相、トレスト家の全貌、セレネの最初の手紙、女王候補としての宣言。再び帝都に戻り、セレネとヴィスカルトの最初の対面、皇宮の地下深部の初代バスタンの墓室、神器との接触、トルメアスの記憶の流入、千年前のアドレアンとザラフの対話の断片、九人の会議、民への公開の宣言、クロヴィスがアレク王弟の子孫であることの確認。そしてヴィスカルトの十九年の自責の解放、セレネの訪問による関係の転換、神崎の宰相からの退任の宣言、四人の新しい関係の骨格の確立。
稜は深く息を、吐いた。
二ヶ月半の間に、千年の計画の書き直しの骨格が徐々に組み上がってきた。──そして十日後、元老院の演説で次の段階が本格的に始まる。
稜は長く月を見上げた。
「──そしてその後第三段階——アウレリア王国の議会と改革派の共有——が徐々に進んで、いく。──私はアウリオンに戻る必要が、ある」
─── ─── ───
神崎が、稜の横に来た。──そしてベンチに、座った。
二人は長く月を見上げた。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──第六章の終わり、だ」
神崎はわずかに頷いた。
「稜。──そして第七章——新しい、三人——の始まりだ」
稜は深く頷いた。
神崎は続けた。
「稜。──十日後の演説の後私は宰相から徐々に退任、する。──そしてお前はアウリオンに戻り第三段階の構想を、進める。──私たちは二つの首都で並行して第二段階と第三段階を、進める」
稜は一度頷いた。
神崎は続けた。
「稜。──そして第七章以降第二段階と第三段階が徐々に結実して、いく。──そして第四段階——両国の有識者の共有。──第五段階——両国の貴族と商人の共有。──第六段階——両国の民への最終公開。──全六段階、完了までに約五年から八年」
稜は小さく頷いた。
神崎は深く息を、吐いた。
「稜。──私たちは長い年月を、共に進む。──二十年前の最初の相棒の関係から新しい形の関係、へ」
稜は何度か頷いた。
「玲。──そうだ。──二人の参謀の関係の新しい章」
─── ─── ───
しばらく、二人は無言で月を見上げていた。
そして神崎が、ふと立ち上がった。
「稜。──応接間に戻ろう。──もう一つ、儀式が残っている」
稜は神崎の目を見つめた。──午後の会議の冒頭、机の上に置かれていた四つの銀の杯。──まだ口にしていない深紅の葡萄酒。
(──玲。──あの杯)
稜は頷いた。
二人は応接間に戻った。
応接間にはヴィスカルトとセレネが既に戻っていた。──そして机の上に、四つの銀の杯がそのまま置かれていた。──午後二時から六時間、四人は誰もその杯に口をつけなかった。──最後の儀式のために残されていた。
神崎は四つの杯の前に立った。
「皆様」
神崎の声は静かだった。──しかし奥に、二十年の宰相としての立場の最後の瞬間の重みが宿っていた。
「──ハーゲン帝国の南部、ヴァランディン家の所有する千年の葡萄畑から造られた最も古い葡萄酒。──私の宰相就任の日に、当時の皇帝陛下から賜ったものです。──二十年、私の書斎の最も奥に保管していた」
神崎は四つの杯を、それぞれ稜ヴィスカルトセレネ自分の前に並べた。
「皆様。──二十年、私はこの葡萄酒を一人で飲むことはありませんでした。──いつか、本当に共に立つ者たちと飲むために保管していました」
四人の前に置かれた銀の杯。
深紅の液体が、ランプの橙色の光を受けて静かに揺れていた。
神崎は一度息を吐いた。
「──今夜、皆様と共に飲みます。──二十年待ち続けた瞬間です」
四人は同時に、銀の杯を手に取った。
神崎は四人を見渡した。──稜、ヴィスカルト、セレネ。──二十年宰相として孤独に立ち続けてきた男の目が、初めて三人の同志を映した。
「──私たち四人、千年の歪みを書き直すために、ここに集った」
神崎の宣誓の声。
四人の銀の杯が、机の中央で軽く触れ合った。
澄んだ金属の音。──四つの音が一つの音として、応接間の空気の中に静かに溶けた。
四人は同時に、葡萄酒を口に運んだ。
深紅の液体が、四人の喉を静かに通った。──二十年熟成された葡萄酒。──舌に残る深い苦味と、奥に滲む甘さ。──ハーゲン帝国の千年の土が育てた葡萄の味。
セレネは目を閉じた。
──十六歳の王女が、ハーゲン帝国の千年の葡萄酒を初めて口にした瞬間。──母エリナが二十年前、ヴァランディン家との文通で知り得たかもしれない、しかし飲むことはなかった葡萄酒。──娘のセレネが、母の代わりに飲んだ。
(──母さん。──私、母さんの代わりに飲んだ)
セレネの目に涙が滲んだ。──しかし口の中の葡萄酒の苦味と甘さの奥で、母の二十年の文通の意味が静かに開いていた。
ヴィスカルトは目を開いていた。
──二十年前、宰相就任の日に父帝が神崎に贈った葡萄酒。──父帝もまた、千年の歪みの被害者だった。──兄ヴァレンを殺すことを選ばざるを得なかった父帝が、二十一歳の若い宰相に贈った酒。──その父帝の贈り物を、十九年の自責から解放されたヴィスカルトが今、神崎と共に飲んでいた。
(──父さん。──兄さん。──私は今、神崎と共にこの酒を飲んでいる)
ヴィスカルトの胸の中で、十九年の重みが葡萄酒の苦味と共にゆっくりと溶けていった。
稜は神崎の目を見つめていた。
──二十年前、神崎が宰相として孤独に保管し続けた酒。──二年前、嵌めた稜への罪を抱えながらも捨てなかった酒。──そして二年半前、月の庭で稜と再会した夜にも、神崎はこの酒を一人で飲もうとはしなかった。──「いつか、本当に共に立つ者たちと飲むために」。──神崎は二十年、待ち続けた。
稜は小さく息を吐いた。
(──玲。──二十年、お前はこの一杯のために生きていた)
神崎は四人を長く見渡した。
そして低く呟いた。
「──二十年待った」
神崎の目に、初めて涙が滲んだ。──稜の前で見せる、二十年の重みの最後の一滴。
稜は深く目を伏せた。
「玲。──二十年、よく待った」
稜の目にも涙が滲んだ。
ヴィスカルトの目にも。
セレネの目にも。
四人の目に、それぞれの二十年、十九年、十六年、四十二年の重みが、葡萄酒の最後の一滴と共に静かに滲んでいた。
四人の銀の杯は、机の中央で空になっていた。
月光が、応接間の窓辺から机の上を淡く照らしていた。──四つの空の銀の杯。──そして机の中央に置かれた白い羊皮紙。──十日後の元老院の演説の草稿が、これから書かれる紙。
四人は深く沈黙した。
しかしその沈黙は、これまでの戦略議論の沈黙ではなかった。──四人が同志として、千年の歪みを書き直すために共に立つ覚悟を確認した新しい沈黙だった。
─── ─── ───
四人は応接間を辞した。──ヴィスカルトとセレネは皇宮へ。──稜と神崎は宰相公邸の庭のベンチへ。
夜空には満ちつつある月が出ていた。──月光が、英国風の庭を淡く照らしていた。
稜と神崎はベンチに並んで座った。
「玲」
稜は静かに告げた。
「──二十年、お前はよく一人で立ち続けた」
神崎の目が、初めて二十年の重みを稜の前で開いた。
「稜」
神崎の声は震えていた。
「──二十年の重みを、今夜お前と共に下ろした」
稜は黙って受け止めた。
月光の中で、二十年ぶりに二人の参謀が並んで座っていた。
稜は深く息を、吐いた。
「玲。──そして十年後またはそれ以上、後。──民への最終公開の刹那。──私たちは千年の計画の書き直しの最終形を、共に迎える」
神崎は深く頷きを返した。
「稜。──そしてその瞬間神器が、もう一度起動する。──千年前のアドレアンとザラフの対話の最後の層が開封、される」
稜は静かに頷いた。
「玲。──私たちの転生の根本の最も深い層。──ザラフ殿の千年前のメッセージ。──『我らの意志の最後の形が、彼らに宿る』」
神崎は一度頷いた。
「稜。──十年後またはそれ以上、後の瞬間。──私たちは千年の計画の書き直しの最終形を迎える瞬間に私たち自身の転生の根本も明らかに、なる」
稜は無言で頷いた。
─── ─── ───
夜、午後九時。
稜は、客室に戻った。──そして革の手帳を開いた。最初の頁の裏に、新しい紙を添えた。
書いた、一行。
「──葉萌月八日目。神崎の宰相からの退任の宣言と、ヘルマン副宰相の宰相への就任の計画。──十日後葉萌月十八日目、元老院の演説。──ヴィスカルト殿下と神崎の公式な、対立の形。──セレネ殿下十六歳ハーゲン帝国の元老院の場に、立つ。──四人の新しい関係の骨格、確立。──第六章終了」
稜は、紙を革の手帳に挟んだ。
窓辺に、立った。
葉萌月、八日目の夜空。──月は、徐々に満ちつつあった。──そして星が、無数に輝いていた。──皇宮の白い、塔のシルエットが月光の下で淡く輝いていた。──皇宮の奥のどこかに、ヴィスカルトがいる。──三十四歳の皇太子。──十九年の自責の解放の後、新しい章を迎えた男。
稜は長く皇宮を見つめた。
胸の中で、ヴィスカルトの十九年の自責の解放の余韻が、まだ残っていた。──そして新しい三人の関係への、橋渡しの場面。
稜は深く息を、吐いた。
扉が、ノックされた。
「師。──セレネ、です」
稜は、扉を開けた。──セレネが、立っていた。──白絹のドレス、ではなく簡素な寝間着の上に紺の外套を羽織っていた。──夜が、深まりつつあったためだった。
「殿下。──お入り、ください」
セレネは、客室に入った。──稜の机の向かい合いに、座った。
「師。──夜、突然お伺いして申し訳ございません」
セレネは黙って頷いた。
「師。──十日後私はハーゲン帝国の元老院の場に、立ちます。──覚悟の最終的な確認のため夜、伺いました」
稜はゆっくりと頷いた。
─── ─── ───
セレネは長く稜を見つめた。
「師。──私は、十日後何をお話すればよろしいでしょうか」
稜は深く考えた。
「殿下。──ご挨拶の内容は長くする必要はありません。──しかし深くする、必要があります」
稜は続けた。
「殿下。──三つの要素を、組み込んでください」
セレネは何度か頷いた。
「師。──三つの要素」
稜は頷いた。
「殿下。──第一の要素。──アウレリア王国の女王候補として、千年の計画の書き直しに深く賛同する立場の表明」
「殿下。──第二の要素。──二百年のハーゲン帝国と、アウレリア王国の対立の構造の表面の奥にある兄弟の国の構造の開示」
「殿下。──第三の要素。──民への公開の最終形の設計の共同の責任の宣言」
セレネは長く稜を見つめた。
「師。──三つの要素を、組み込んで深く短いご挨拶」
稜は無言で頷いた。
「殿下。──そうです。──十六歳の女王候補としてのご挨拶。──しかし二百年の両国の歴史で、初めてのくだりです」
セレネはわずかに頷いた。
─── ─── ───
しばらく、二人は深く沈黙した。
葉萌月、八日目の夜空が徐々に深まりつつあった。──月光が、客室の白い石壁を淡く照らしていた。
セレネは長く稜を見つめた。
「師。──私は、十日後ヴィスカルト殿下の姿をご演説の場で見つめます」
稜は頷きを返した。
セレネは続けた。
「師。──ヴィスカルト殿下と神崎閣下の公式な、対立の形。──しかしその対立の奥に深い同志の関係。──私は、その二層構造の内部で十六歳の王女として立つ覚悟です」
稜は一度頷いた。
「殿下。──そうです。──十六歳の王女が二層構造の内部で立つ、瞬間。──二百年の両国の歴史で初めての瞬間」
セレネは小さく頷いた。
セレネは、立ち上がった。──そして扉の前で一度、振り返った。
「師。──ありがとう、ございました」
セレネは深く一礼して客室を出て、いった。
稜は長く扉を見つめた。──そして再び窓辺に戻った。
葉萌月、八日目の夜空が深く深まりつつあった。──月光が、皇宮の白い塔のシルエットを淡く照らしていた。
稜は長く皇宮を見つめて、いた。
ヴィスカルトの十九年の自責の解放が、葉萌月八日目の夜、静かに終わりを迎えていた。
新しい三人の関係の本格的な始まりは、十日後の葉萌月十八日目、元老院の演説の場で待っていた。
稜の目に、静かな決意が宿っていた。
四者同盟の確立。
神崎が十日後の元老院で公式演説。
表面の対立は保守派議員を安心させる構造、内部では同志の関係——この二層構造、第二部の核心です。
セレネが二百年の両国の歴史で初めて元老院に同席。
書きながら、自分も議場にいる気持ちでした。




