兄ヴァレンの最後の瞬間
葉萌月四日目、深夜午前零時。
ヴィスカルトは皇宮の自分の私室で、一人机の前に座っていた。
机の上に、三つの遺品が並んでいた。
一つ目。──兄ヴァレンが十二歳の時に描いた絵。──幼いヴィスカルト、五歳の姿。──馬の横で、小さなヴィスカルトが笑っていた。──兄の線は若く、しかし温かく弟への深い愛情が滲んでいた。
二つ目。──兄が生前使っていた、乗馬用の鞭。──黒い革の柄。──柄の中ほどに、わずかに変色した染み。──十九年前のその日、兄が最後に手に握っていた鞭。
三つ目。──小さな銀のブローチ。──翼の形。──兄が十九歳の最後の日、礼服に付けていたもの。──兄のご逝去の後、十九年机の引き出しの奥にしまわれていたもの。
ヴィスカルトは三つの遺品を、一つずつ撫でた。
絵を撫でた瞬間、十九年前の兄の温かい姿が心の中に流れた。──鞭を撫でた瞬間、兄の最後の日の朝の姿が流れた。──ブローチを撫でた瞬間、兄が礼服にブローチを付ける姿が流れた。
ヴィスカルトの目に深い深い痛みが宿った。
しかし今夜十九年で初めて、その痛みを誰かに共有する覚悟だった。
扉がノックされた。
二回。──静かな、しかし確かなノック。
ヴィスカルトは深く息を吸った。
「──お入りください」
扉が開いた。──稜と神崎が入って来た。──二人とも簡素な姿。──稜は白いシャツに紺の外套。──神崎は宰相の青い礼服ではなく、白いシャツに紺の外套。──二人とも夜中の私室を訪ねるための簡素な姿だった。
─── ─── ───
稜と神崎は、ヴィスカルトの整然とした姿勢を見て深く覚悟を感じ取った。──十九年抱えてきた層を、今夜開く覚悟の姿勢。
ヴィスカルトは深く一礼した。
「稜殿、神崎。──深夜、お越しいただきありがとうございます」
稜と神崎も深く一礼を返した。
「殿下。──ご決意の深さ、深く敬意を表します」
ヴィスカルトは机の前の三つの椅子を、二人に示した。──既に対等に用意されていた。──皇太子の上座ではなく、三人で対等に向き合う配置。
稜と神崎は椅子に座った。──ヴィスカルトも自分の椅子に座った。──三人の間に机。──そして机の上に、三つの遺品。──ランプの橙色の淡い光が、三つの遺品を淡く照らしていた。
しばらく、三人は沈黙した。
ヴィスカルトは一度息を吸った。
「稜殿、神崎」
ヴィスカルトの声は震えていた。──しかし奥に深い覚悟が宿っていた。
「──今夜私は、十九年誰にも話せなかったことをお二人の前でお話します」
稜は無言で頷いた。
「殿下。──お話ください。──私たちは。──ただ聞きます」
神崎も小さく頷いた。
「ヴィスカルト。──俺は、君の側にいる」
ヴィスカルトの目が、長く神崎を見つめた。──十年の師の神崎が初めて皇太子の敬称ではなく、「ヴィスカルト」と名前で呼んだ瞬間。──そして「俺は、君の側にいる」という、対等の男としての宣言。
ヴィスカルトは黙って頷いた。
「神崎。──ありがとう」
ヴィスカルトは深く息を吸った。──そして机の上の三つの遺品を指差した。
「兄ヴァレンは、十九歳で亡くなりました。──公式には狩猟中の落馬事故。──しかし真相は二層構造でした」
─── ─── ───
稜と神崎の息が、わずかに止まった。
ヴィスカルトは続けた。
「稜殿、神崎。──まず、第一層の真相をお話します。──父フリードリヒ二世が仕組んだ事故です」
ヴィスカルトの目が、ランプの橙色の光の中で深い痛みを宿していた。──そして彼はゆっくりと十九年前のある春の朝の記憶を語り始めた。
「十九年前ある春の朝。──父、フリードリヒ二世は兄ヴァレンと私を皇宮の私室に呼びました。──兄、十九歳。──私十二歳」
ヴィスカルトの声は、徐々に深くなっていった。
「父は兄にこう命じました。『──ヴァレン。──お前は皇太子として、国の山の管理を直接見てくる必要がある。──明日一人で山へ行け』」
「兄は深く頷きました。──皇太子の責務として、父の命令を受け入れました」
ヴィスカルトは続けた。
「──しかし私は違和感を感じました。──なぜ、父は兄を一人で行かせるのか。──なぜ、私を連れて行かせないのか」
ヴィスカルトの声が、わずかに震えた。
「──私は父に、お願いしました。『──父上。──私も兄上と一緒に行きたい、です』」
「父は長く沈黙しました。──そしてようやくこう、おっしゃいました。『──良いだろう。お前も、行け』。──しかしその声に何か不自然な重みが宿って、いました」
稜は、長くヴィスカルトを見つめた。
神崎も深く息を、吐いた。
─── ─── ───
ヴィスカルトは続けた。
「翌日兄と私は父の付き添いの衛兵三人と共に山へ向かい、ました。──衛兵たちは明らかに父の腹心、でした。──彼らの目は冷たく私と兄を見て、いました」
ヴィスカルトの声は、低かった。
「兄は馬に乗る前自分の鞍を慎重に点検、しました。──皇太子として訓練されていた、習慣。──しかし兄は気づきません、でした。──鞍の革紐に深い切り込みが内側に隠されていたこと、を」
稜の息が、止まった。
ヴィスカルトは続けた。
「私たちは山の中腹まで進み、ました。──兄は父の命令で狩猟用の鹿を追って馬を、走らせ始めました。──私と衛兵たちは徐々に兄の後ろに遅れて、いきました」
ヴィスカルトの目が、長く机の上の鞭を見つめた。
「兄の馬が突然暴走、し始めました。──鞍の革紐が切れて、いた」
ヴィスカルトの声が、震えた。
「兄は、崖の縁に向かって落馬しかけて、いました」
ヴィスカルトは深く息を、吸った。
「私はその瞬間兄のすぐ後ろに、いました。──兄の手が私に向かって伸び、ました」
ヴィスカルトの目に、十九年分の痛みが宿った。
「──『ヴィスカルト、助けて』」
ヴィスカルトの声が、震えた。──そして長く沈黙、した。
「ここまでが第一層の真相です。──父が、兄の鞍に細工をさせた。──父は、兄を皇位継承の調整として消す計画を仕組んでいた」
稜は深く息を、吐いた。
神崎は、目を閉じた。
─── ─── ───
しばらく、三人は沈黙した。
ヴィスカルトの目に深い痛みが、宿っていた。──しかし彼はまだ最も深い層を開いて、いなかった。──第一層は、表面の真相。──第二層、こそが十九年抱えてきた最も深い層だった。
ヴィスカルトは長く深く息を、吐いた。
「稜殿、神崎」
ヴィスカルトの声は、震えていた。
「──しかし兄の死の真の核心は第二層に、あります。──それは父が仕組んだ事故では、なく」
ヴィスカルトは深く息を、吸った。
「──私自身の一瞬の躊躇、でした」
稜と、神崎の息が止まった。
ヴィスカルトは、目に十九年分の涙を滲ませて続けた。
「兄の手が、私に向かって伸びていた瞬間。──『ヴィスカルト、助けて』という兄の声」
ヴィスカルトは目を深く閉じた。──そして十二歳の自分の心の中の思考を、ゆっくりと語り始めた。
「──十二歳の私の心の中で、一瞬こう考えました」
ヴィスカルトの声が震えた。
「──『──兄が死ねば、次の皇太子は私』」
稜と神崎の目が止まった。
ヴィスカルトは続けた。
「──『──私は父に愛される』」
ヴィスカルトの目から、初めて涙が流れた。──十九年ぶりの皇太子の涙。──しかし流すままにした。
「──『──私は皇太子の地位を得る』」
─── ─── ───
ヴィスカルトは長く長く沈黙した。
涙が止まらなかった。──しかし彼は語り続けた。
「稜殿、神崎。──この三つの思考は、一瞬でした。──しかしその一瞬が私の手の動きを止めました」
ヴィスカルトの声は深く震えていた。
「兄の手は私に向かって伸びていました。──私の手も、兄に向かって伸びるはずでした。──しかしその一瞬の躊躇の間に兄の手は届きませんでした」
ヴィスカルトは目を深く閉じた。
「兄は崖から落ちました」
稜の目に深い深い痛みが宿った。
神崎の目から、涙が滲んだ。
ヴィスカルトは続けた。
「父の仕組んだ事故でした。──しかしもし、私が手を伸ばせば兄は助かったかもしれません」
ヴィスカルトの声が低くなった。
「──一瞬の躊躇」
ヴィスカルトは続けた。
「『──兄が死ねば次の皇太子は私』という幼い、醜い思考。──その一瞬が兄を殺しました」
ヴィスカルトの目から、涙が止まらなかった。──十九年抱えてきた層。──十九年、誰にも話せなかった層。──今夜初めて開かれた層。
─── ─── ───
ヴィスカルトは深く息を、吸った。──そして続けた。
「稜殿、神崎。──父の罪と、私の罪は別々です。──父は、仕組みました。──私は、助けませんでした」
ヴィスカルトの声が、震えた。
「私は十五歳のある日。──父の書斎で、『ヴァレンの事故の指示書』を発見しました。──父が、兄を殺す計画を仕組んでいた事実を知りました」
稜の目が、長くヴィスカルトを見つめた。
ヴィスカルトは続けた。
「しかしその場面私の自責は消えません、でした。──むしろ深くなり、ました。──『──父が仕組んだ事故でも私が手を伸ばせば兄は助かったかも、しれない』」
ヴィスカルトの目に、十九年分の深い痛みが宿った。
「十九年、私はこの真実を一人で抱えて、参りました」
ヴィスカルトは深く息を、吐いた。
「『──私は兄殺し、だ』。──しかし父もまた兄を、殺した。──『──私と父は同じ穴の狢、だ』」
ヴィスカルトの声が、震えた。
「この二重の自責が私を冷たい皇太子に変え、ました。──過去五年のトレスト家との関係もその構造の別の形の再現だった可能性が、ある」
稜は長く深くヴィスカルトを見つめた。
神崎は、目を深く閉じて長く沈黙していた。
─── ─── ───
ヴィスカルトは続けた。
「稜殿、神崎。──兄、ヴァレンの顔を毎晩夢で見ます。──兄はいつも手を伸ばして、います。──そして私はいつも手を止めています」
ヴィスカルトの目から、涙が止まらなかった。
「兄の最後の声『ヴィスカルト、助けて』。──十九年毎晩夢の中で聞き続けて、参りました」
ヴィスカルトの声が、震えた。
「兄は私の夢の中で、何度も私を見つめます。──しかし責めません。──ただ悲しい目で私を見つめる、だけです。──兄のその悲しい目が私を十九年最も深く苦しめ続け、ました」
ヴィスカルトは長く長く沈黙、した。
涙が、机の上に落ちた。──ランプの橙色の光の中で、涙の雫が淡く輝いた。
稜の目に深い深い痛みが、宿っていた。
稜は長く長くヴィスカルトを見つめた。──そして深く長く息を吐いた。
「殿下」
稜の声は静かだった。──しかし深い深い温かさが、宿っていた。
「──十二歳の少年が、崖の縁で兄に手を伸ばさなかった。──それは殿下の罪ではありません」
─── ─── ───
ヴィスカルトの目が、長く稜を見つめた。
「稜殿。──しかし私は手を伸ばせたはずです」
稜はゆっくりと頷いた。
「殿下。──人間は一瞬の躊躇をします。──それは人間の悲しい一面です。──罪ではありません」
稜は続けた。
「殿下。──私も前世で同じ経験をしました」
神崎の目が、長く稜を見つめた。──そして深い感慨が宿った。
「稜、お前も」
稜は深く頷いた。
「ああ、玲」
稜は長く深く息を吐いた。──そしてゆっくりと語り始めた。
「玲、殿下。──前世のある日。──俺はある後輩が、会社で精神的に追い詰められているのを見た。──彼は二十六歳の若い男。──私の部署の後輩だった」
稜は続けた。
「俺はその瞬間、心の中でこう思った。『──助けるべきだ』。──しかしその次の刹那、もう一つの思考が流れた。『──自分の仕事が忙しい』。──俺はその後輩を見過ごした」
稜の目に深い痛みが、宿った。
「その後輩は翌月会社を、辞めた。──そしてその後彼の消息は分からなく、なった」
稜は深く息を、吐いた。
「玲殿下。──俺は、今でも時々その後輩の顔を夢で見る。──彼の悲しい目が、俺を見つめる。──十五年経った今でもその夢を、時々見る」
神崎は長く稜を見つめた。──そして何度か頷いた。
ヴィスカルトの目が、長く稜を見つめた。
「稜殿。──お前も、同じ躊躇を」
稜は頷きを返した。
─── ─── ───
稜は続けた。
「殿下。──人間は不完全です。──一瞬の躊躇で、大切な人を失うことがあります」
稜の声は、深い温かさが宿っていた。
「殿下。──しかしその躊躇を、『罪』として十九年抱え続けることは人間にできる最大の誠実さです」
稜は、深くヴィスカルトを見つめた。
「殿下。──十九年、抱えてこられたご自責は罪ではなく深さです」
ヴィスカルトの目から、涙がまた流れた。──しかし今度の涙は、別の涙だった。──十九年の痛みの涙、ではなく十九年抱えてきた層が初めて別の人間の温かさに触れた瞬間の涙。
稜は続けた。
「殿下。──十二歳のヴィスカルトが一瞬の思考をした、こと。──それは十二歳の少年として自然な、ことです。──父に虐待され続けてきた十二歳の少年が、『──父に愛される』、『──皇太子の地位を得る』と思考した、こと」
稜は深く息を、吐いた。
「殿下。──それは虐待を受けてきた、子の深い痛みの表れです。──十二歳のヴィスカルトは。──ただ父に愛されたかった、のです」
ヴィスカルトの目から、涙が止まらなかった。──しかしその涙は、深い安らぎを含んでいた。
「稜殿。──お前は、私の深い層をようやく整理してくださった」
ヴィスカルトの声は、震えていた。
「十九年私は自分自身を責め続けて、参りました。──十二歳の私の思考を許せませんでした。──しかしお前は、その思考を虐待を受けてきた子の痛みの表れとして整理してくださった」
稜は頷いた。
─── ─── ───
しばらく、三人は沈黙した。
ヴィスカルトの涙が、徐々に落ち着き始めていた。──しかしまだ止まらなかった。──十九年、抑え続けてきた層がようやく解放された瞬間。──涙は長く続くはず、だった。
神崎が、深く息を吐いた。──そしてゆっくりと口を開いた。
「ヴィスカルト」
神崎の声は、低かった。──しかし深い覚悟が、宿っていた。
「──俺も、告白する」
ヴィスカルトの目が、長く神崎を見つめた。
神崎は続けた。
「俺は、前世で高木稜を嵌めた男、だ」
ヴィスカルトの息が、止まった。──十年の師の神崎の過去の最も深い層を、初めて聞く瞬間。
神崎は深く息を、吸った。
「ヴィスカルト。──二十年前稜と俺は現代日本のコンサルティングの世界の相棒、だった。──十五年共に戦った。──しかし二年前、俺は稜を嵌めた。──ある、研究プロジェクトの責任を稜に押し付けた。──稜は、会社を追われた」
神崎の目に深い痛みが、宿った。
「ヴィスカルト。──俺の罪は稜の罪より遥かに、深い。──稜の後輩への躊躇は一瞬の思考。──しかし俺の稜への嵌めは、長期の計画。──俺は稜を意識的に、嵌めた」
ヴィスカルトは長く神崎を見つめた。
「神崎。──しかしお前は、二年半前稜殿と共に転生して再会された」
神崎は深く頷いた。
「ヴィスカルト。──そうだ。──そして二ヶ月前月の庭の夜稜と俺は和解、した。──俺の罪は消え、ない。──しかし稜は俺を許して、くれた」
神崎は長く稜を見つめた。──そして静かに頷いた。
「ヴィスカルト。──俺の罪は消え、ない。──しかし俺は稜と共に千年の計画の書き直しの参謀として立つ、覚悟だ。──罪を抱えながら新しい関係を、築く」
─── ─── ───
ヴィスカルトは長く神崎を見つめた。──そして何度か頷いた。
「神崎。──罪を、抱えながら新しい関係を築く」
ヴィスカルトの目に深い感慨が、宿った。
「神崎。──私の十九年の自責の層とお前の二十年前の罪の層。──別々の層、だが同じ深さを持つ」
神崎は深く頷いた。
稜は長く深く神崎と、ヴィスカルトを見つめた。──そして深く息を、吐いた。
「玲、殿下」
稜の声は、深い温かさが宿っていた。
「──三人の男がそれぞれの罪と躊躇を抱えて、いる。──しかし三人で共に罪と躊躇を抱えて進む覚悟を確認できた、瞬間」
神崎は頷きを返した。
ヴィスカルトも黙って頷いた。
しばらく、三人は深く沈黙した。──ランプの橙色の光が、三つの遺品の上を淡く照らしていた。──そして三人の男の深い信頼の空気が、私室に満ちていた。
ヴィスカルトは深く息を、吐いた。
「稜殿、神崎。──十九年、初めて呼吸が楽になりました」
稜は一瞬の沈黙の後、頷いた。
神崎も同意の表情を浮かべた。
ヴィスカルトの目が、長く机の上の三つの遺品を見つめた。──兄の絵。──兄の鞭。──そして兄の銀のブローチ。
ヴィスカルトは、ブローチを手に取った。
─── ─── ───
ブローチは、小さな銀の翼の形。──兄、ヴァレンが十九歳の最後の日礼服の胸に付けていたもの。──そして十九年、机の引き出しの奥にしまわれていたもの。
ヴィスカルトは、ブローチを長く見つめた。
「兄上」
ヴィスカルトの声は、震えていた。
「──僕、十九年あなたを一人で背負って参りました」
ヴィスカルトは続けた。
「──今夜二人の友が現れて、──僕ようやく呼吸ができるように、なりました」
ヴィスカルトの目から、涙がまた流れた。──しかしその涙は、深い安らぎの涙だった。
ヴィスカルトは、長くブローチを見つめた。──そしてゆっくりと口を開いた。
「兄上。──これからは、あなたを背負うのではなくあなたを胸に抱くことにします」
ヴィスカルトの声は、深い覚悟が宿っていた。
「あなたは、僕の罪ではなく僕の兄、です」
ヴィスカルトは、ブローチを自分の礼服の胸にゆっくりと付けた。
十九年、机の引き出しにしまわれていたブローチが今夜初めてヴィスカルトの胸に戻った。
稜と、神崎は静かにヴィスカルトを見守っていた。
ヴィスカルトは深く息を、吸った。──そして稜と、神崎を見た。
「稜殿、神崎」
ヴィスカルトの声は、徐々に安定していた。
「──明日から千年の計画の公開の設計に、本格的に入りましょう。──私はもう逃げません」
稜はわずかに頷いた。
「殿下。──お待ちしており、ました」
神崎も一度頷いた。
「ヴィスカルト。──一緒に、やろう」
─── ─── ───
稜は、ふと机の上の兄ヴァレンの絵を長く見つめた。
兄が、十二歳の時に描いた五歳のヴィスカルト。──馬の横で笑っている、幼いヴィスカルト。──兄の線が、温かく弟への愛情が深く滲んでいた。
稜は、ヴィスカルトを見た。
「殿下。──兄上は、殿下を深く愛しておられました」
ヴィスカルトの目が、長く絵を見つめた。
「稜殿。──そうです。──兄は私を深く愛して、くれました。──私の五歳の頃馬の乗り方を教えてくれた、夏の日」
ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿った。
「兄は私を『ヴィス』と呼んで、いました。──皇室の誰も私を、ヴィスと呼ばなかった。──兄だけが」
ヴィスカルトの声が、震えた。
「兄ヴィスと呼んで、くれた。──十九年誰も私をヴィスと呼んで、くれなかった」
稜は、長くヴィスカルトを見つめた。
稜は、ふと無言で頷いた。──そして低く呟いた。
「ヴィス」
ヴィスカルトの目が、長く稜を見つめた。
「稜殿」
ヴィスカルトの声は、震えていた。
「──私を、ヴィスと呼んでくださりますか」
稜は静かに頷いた。
「殿下がお許しに、なれば。──兄上の温かさを私と玲二人が引き継ぐ、瞬間」
ヴィスカルトの目から、涙が止まらなかった。──十九年、誰もヴィスと呼んでくれなかった男。──今夜稜と、神崎二人が兄の温かさを引き継ぐ瞬間。
神崎もわずかに頷いた。
「ヴィス」
神崎の声は、低かった。──しかし深い温かさが、宿っていた。
ヴィスカルトの目に深い深い安らぎが、宿った。
「稜殿、神崎。──兄の温かさを、お二人が引き継いでくださる瞬間」
ヴィスカルトは一度頷いた。
「私は十九年兄を一人で背負って、参りました。──しかし今夜お二人が兄の温かさの一部を引き継いでくださる、瞬間。──兄はようやく私の内部だけではなくお二人と私の間で生き続ける、瞬間」
─── ─── ───
しばらく、三人は深く沈黙した。
窓の外で、夜が深まりつつあった。──しかし徐々に夜明けの最初の光が、窓辺に滲み始めていた。──紫の空が、徐々に淡い橙色に変わりつつあった。
ヴィスカルトは長く、夜明けの光を見つめた。
「兄上」
ヴィスカルトの声は低かった。
「──夜明けが来ました」
ヴィスカルトは続けた。
「──十九年ぶりの夜明け」
ヴィスカルトの目に、深い深い安らぎが宿った。──そして彼の胸の銀のブローチが、夜明けの最初の光の中で淡く輝いた。
稜と神崎は椅子に座ったまま、ヴィスカルトを長く見守っていた。
稜はゆっくりと立ち上がった。──そしてヴィスカルトの横に移動した。
稜はヴィスカルトの肩に、静かに手を置いた。
─── ─── ───
しばらく、三人は窓辺で並んで立っていた。
夜明けの光が、徐々に強くなっていった。──皇宮の中庭の若葉の緑が、明るく浮かび上がった。──春芽月の終わりから既に二ヶ月。──若葉月の半ば。──皇宮の中庭は、夏の入り口の緑に包まれていた。
ヴィスカルトは深く息を吸った。
「稜殿」
「はい、殿下」
「──兄が亡くなった日の翌朝、私は十二歳でした。──私は皇宮の中庭で一人、立っていました。──夜明けの空を見上げて、こう思いました。──『──私はもう、二度と兄と一緒にこの空を見ることはない』」
ヴィスカルトの声が、わずかに震えた。──しかし涙は流さなかった。
「──そして十九年。──私は毎朝、夜明けの空を見上げる度その十二歳の朝を思い出していました。──兄を失った朝。──そして自分が、兄を見殺しにした朝」
稜は黙ってヴィスカルトの肩に置いた手の力を、わずかに強めた。
「──しかし今朝、私は十九年ぶりに別の夜明けを見ています」
ヴィスカルトの目から、ようやく一筋の涙が流れた。──十九年抱えていた涙。
「──兄を失った朝の夜明けではなく、──兄と再会した朝の夜明け」
稜の手の力が、もう一段強まった。
神崎も椅子から立ち上がった。──そして窓辺に来た。──ヴィスカルトの反対側に立った。
三人の男が並んで、夜明けの皇宮の中庭を見つめた。
ヴィスカルトの胸の銀のブローチが、朝の光の中でゆっくりと温度を持ち始めた。──夜の冷たさが消え、生きている人間の体温が銀の翼に染み込んでいった。
「兄上」
ヴィスカルトはもう一度、低く呟いた。
「──ヴィスは、もう大丈夫です」
兄ヴァレンが十二歳のヴィスカルトを呼んだ愛称。──そして十九年、ヴィスカルトが自分を許せずに使えなかった愛称。──今朝、ヴィスカルトは自分自身でその愛称を口にした。
夜明けの光が、ヴィスカルトの頬の涙の跡を金色に照らした。
そしてその時。
ヴィスカルトの胸の中で、十九年ぶりに兄の声が響いた。
──夢でも、幻でもなかった。──ただヴィスカルト自身の中に、十九年閉じ込めていた兄の声の記憶が今朝初めて自由に響いた。
──ヴィス。
兄の声は、十二歳のヴィスカルトを呼んだあの夏の午後の声と同じ温度だった。
──お前は十九年、私を一人で背負ってくれた。しかし今夜、お前は二人の友人と一緒に私を胸に抱いた。私は、もうお前の夢の中で悲しい目をしなくていい。
──ヴィス。お前の夜明けに、私は満足している。
──兄上。
ヴィスカルトは胸の中で答えた。
──兄上。──ありがとうございました。──十九年、毎晩私の夢に来てくださってありがとうございました。──しかし今夜、私はあなたを夜明けにお返しします。
兄の声は、もう何も言わなかった。
しかしヴィスカルトの胸の中で、十九年閉じ込めていた兄の温度が夜明けの光の中で静かに解けていった。──十九歳の兄が、ようやく死後の安らぎへ向かう瞬間。
ヴィスカルトの目から、新しい涙が一筋流れた。
しかしそれは、十九年抱えてきた自責の涙ではなかった。──別の涙だった。──兄を、自分の内部の闇から夜明けの光の中に解放する別れの涙。
稜の目にも、わずかに涙が滲んだ。──しかし稜はそれを拭わなかった。──ヴィスカルトの肩から手を離さなかった。
神崎は窓の外を見つめていた。──十年の弟子の解放の朝。──十数年の参謀の戦友の朝。──そして自分自身の前世の罪の重みも、わずかに軽くなった朝。
三人の沈黙が、夜明けの空気の中で深く溶けていった。
─── ─── ───
窓の外、徐々に満ちつつある月が徐々に消えつつあった。──そして夜明けの最初の太陽が、徐々に皇宮の白い塔のシルエットの後ろから昇り始めていた。
葉萌月四日目の夜明け、午前五時。
最も深い人間ドラマの局面が、ここで完了した。
しかしヴィスカルトの十九年の解放は、終着点ではなかった。──それは新しい人生の出発点だった。──三十四歳のハーゲン皇太子の、本来の人格の回復の最初の朝。
夜明けの太陽が、ようやく皇宮の塔の上に完全に姿を現した。
三人の男の胸に、その光が静かに届いた。
第二部の最強バズ回。
深夜午前零時、ヴィスカルトの私室。
机の上に三つの遺品(兄の絵、鞭、銀のブローチ)。
「二層構造」の宣言——第一層は父の罪、第二層はヴィスカルト自身の一瞬の躊躇。
「兄が死ねば、次の皇太子は私」「私は父に愛される」
12歳の一瞬の躊躇が、十九年の自責になる。
この回、書ききるのに三晩かかりました。
読者の皆さんに届いていれば、本当に嬉しいです。




