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皇太子の私室

 葉萌月二日目の夕刻、午後五時。

 稜はハーゲン皇宮の廊下を、ゆっくりと歩いていた。

 昨日の午前、正式な会議室でヴィスカルト皇太子と四者会議。──そして会議の最後に、ヴィスカルトが稜にこう告げた。──「明日夕刻、私の私室にお一人でお越しいただけますか。──十九年、誰にも話せなかったことがある」。

 稜はその依頼を受けて、今日夕刻皇宮を訪れていた。

 午後五時。──葉萌月の夕陽の最後の光が、皇宮の長い廊下の白い大理石の床を淡く照らしていた。──廊下の両脇の壁に、ハーゲン帝国の歴代皇帝の肖像画。──その肖像画の下を、稜は一人ゆっくりと歩いていた。

 ヘルマン副宰相がヴィスカルトの私室の扉の前まで、稜を案内した。──そして深く一礼して退いた。──近衛兵も扉から十歩離れた。──ヴィスカルトの命令だった。──「稜殿と二人だけで対話したい」。

 稜は扉の前で深く息を吸った。

 稜は扉をノックした。

 「殿下。──稜です」

 扉の向こう側から、低い声が聞こえた。

 「──お入りください」

            ─── ─── ───

 稜は扉をゆっくりと開けた。

 ヴィスカルトの私室。──先日、セレネが初めて訪れた空間。──しかし今日の私室は、夕刻の光で別の表情になっていた。──夕陽の最後の光が、窓辺の白い薄絹のカーテンを淡く染めていた。──そして暖炉に橙色の火が灯されていた。──火の温かさと夕陽の光が混ざって、部屋を温かく照らしていた。

 ヴィスカルトが机の前で立っていた。──黒の礼服。──金髪、灰色の目。──しかし今夜のヴィスカルトの姿勢には、深い緊張が宿っていた。──そしてその奥に、深い覚悟も。

 ヴィスカルトは稜の入室を見て、深く一礼した。

 「稜殿。──お越しいただき、ありがとうございます」

 稜は深く一礼を返した。

 「殿下。──お招き、ありがとうございます」

 ヴィスカルトは、机の片側の椅子を稜に示した。

 稜は、ゆっくりと椅子に座った。──ヴィスカルトも、机の反対側の椅子に座った。──二人の間に、机。──そして机の上に、二つの温かいハーブティーが置かれていた。──ヴィスカルトが、稜のために用意していたようだった。

 扉が、静かに閉まった。

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は沈黙した。

 暖炉の火が、静かに爆ぜていた。──夕陽の最後の光が、徐々に薄くなっていった。──部屋の外の空が、紫に変わりつつあった。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿」

 ヴィスカルトの声は、低かった。

 「──最初にお伝えしておきたいことが、あります。──私はお前を敵として見て、いない。──しかし味方と断言することも、できない」

 ヴィスカルトの目が、長く稜を見つめた。

 「稜殿。──お前は、私の何なのか」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。──そして深く息を、吸った。

 「殿下。──私はあなたの敵でも味方でも、ない。──ただの参謀です」

 ヴィスカルトの目が、わずかに止まった。

 稜は続けた。

 「殿下。──参謀という立場は敵と、味方の二項対立の外側にある。──私は千年の計画の書き直しのための参謀として立って、いる。──そしてその書き直しの構造の内部で殿下と対話、している」

 ヴィスカルトは長く考えた。

 「稜殿。──二項対立の外側」

 稜は無言のまま視線を返した。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。──そして低く呟いた。

 「稜殿。──十九年私の人生は敵と味方の二項対立の内部で生きて、来ました。──父フリードリヒ二世。──兄、ヴァレン。──宰相神崎。──全ての人間関係を敵と味方の構造で見る習慣が私の心の中に深く根付いていた」

 ヴィスカルトの目に、わずかに感慨が宿った。

 「稜殿。──しかしお前は二項対立の外側に立って、いる。──そしてその立場が私の心の中の何かを徐々に解いて、行く」

            ─── ─── ───

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。──そして続けた。

 「稜殿。──昨日の午前の会議の後王女殿下と皇宮の中庭で二時間半お話、いたしました。──そして王女殿下は私の内面の変化の瞬間に立ち会って、くださった」

 稜は深く頷いた。

 「殿下。──昨日伺いました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──そして昨日の夜お前と対話した後私は深く考え、ました。──私の十九年の自責の構造の最も深い層を開く覚悟を確認、いたしました」

 稜は同意の表情を浮かべた。

 ヴィスカルトは長く稜を見つめた。

 「稜殿。──お前は、私の父を知っているのか」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。──そして頷きを返した。

 「殿下。──直接お会いしたことは、ありません。──しかし神崎から過去何度もお聞きして、おります。──そして神崎の書斎で見た書簡の内容も知って、おります」

 ヴィスカルトはわずかに頷いた。

 稜は続けた。

 「殿下。──しかしもう一つお伝えしておきたいことが、あります。──前世の私の世界にも同じような父親は、いました」

 ヴィスカルトの目が、長く稜を見つめた。

 稜は続けた。

 「殿下。──前世の私の父も若い頃深い苦しみを抱えて、いました。──その苦しみが家族への態度に現れる瞬間が、ありました。──私は息子としてその苦しみの体系を十代から二十代の半ばまで受け止め続けて、いました」

 稜は続けた。

 「殿下。──しかしある日私は気づきました。──父の苦しみは、父自身の人生の仕組みの結果。──私が、引き受ける必要はないと」

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「稜殿。──父の苦しみを、息子が引き受ける必要はない」

 稜は深く頷きを返した。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは長く考えた。

 そして深く息を、吐いた。

 「稜殿。──今夜私は、お前に十九年誰にも話せなかったことをお話する覚悟です」

 稜は静かに頷いた。

 「殿下。──お聞かせ、ください」

 ヴィスカルトは長く考えた。──そしてゆっくりと語り始めた。

 「稜殿。──私が八歳の時。──父は、酒に酔って私の部屋に現れました。──そしてこう、言いました。『お前はヴァレンの影だ。──ヴァレンのように、なれ。──お前自身は何の価値も、ない』」

 ヴィスカルトの目に深い痛みが、宿った。

 「稜殿。──八歳の私はその夜深く傷つき、ました。──父の声と表情は私の心の中に深く刻まれ、ました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──十歳の時。──私は皇室の若い皇子として毎月教師による試験を受け、ました。──歴史政治戦略、外国語。──多岐にわたる、分野」

 ヴィスカルトの目に、わずかに暗い影が宿った。

 「──十歳のある月の試験。──私は、戦略の試験で低い点数を取りました。──兄、ヴァレンの十歳の頃の点数より低い点数。──父は、その結果を知って激怒されました」

 ヴィスカルトの声が、わずかに震えた。

 「──父は私にこう命じ、ました。『お前は兄の点数に達するまで食事を、与えない』。──そして三日私は自分の部屋に閉じ込められて食事を与えられません、でした」

 稜の目が、長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──十歳のお子さまに、三日食事を与えない」

 ヴィスカルトは深く頷いた。

 「稜殿。──三日目の夜私は空腹で震えて、いました。──そして誰かが密かに私の部屋の扉の下からパンを差し入れてくれ、ました」

 稜は長く考えた。

 「殿下。──誰、ですか」

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿。──兄ヴァレンです。──十七歳の兄が、夜深くまで起きて私の部屋の扉の下からパンを差し入れてくれました」

 ヴィスカルトの目に深い温かさと悲しみが混ざり合って、宿った。

 「──兄は扉の向こう側から低い声でこう私に告げ、ました。『ヴィス。──私はここに、いる。──父の命令に逆らったら私も、罰される。──しかしお前を見捨てることはできない。──このパンを、食べろ』」

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは長く長く深く息を、吐いた。

 「稜殿。──兄ヴァレンは私の唯一の味方、でした。──父が私を虐待する瞬間兄はいつも後で密かに私を慰めてくれ、ました。──兄自身も父から虐待を受けて、いました。──しかし兄は自分の痛みより私の痛みを優先してくれ、ました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──十四歳の時。──ある夜。──父が、酒に酔って私の部屋に入って来ました」

 ヴィスカルトの声が、わずかに震えた。

 「──父は私にこう告げ、ました。『お前は兄の影だ。──ヴァレンのように、なれ』。──そして父は机の横の杖を取り私の肩を強く殴り、ました」

 ヴィスカルトの目に深い痛みが、宿った。

 「稜殿。──十四歳の私の肩は深く傷つきました。──しかし父は、止まりませんでした。──さらに、何度も杖で殴り続けました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──兄ヴァレンが私の部屋に駆け込んで来、ました。──そして父と私の間に立ちこう叫び、ました。『父上。──ヴィスを止めてください。──私の弟を、これ以上傷つけないでください』」

 ヴィスカルトの目に深い涙が、滲んだ。

 「──父は兄の姿を見て瞬間止まり、ました。──しかし父の目には深い闇が宿っていました。──父は、兄にこう告げました。『ヴァレン。──お前は、私の跡継ぎだ。──しかしお前もヴィスも私の足元には、及ばない』」

 ヴィスカルトの声が、震えた。

 「──父はその夜私の部屋を出ていき、ました。──兄ヴァレンは私の傷ついた肩を長く長く撫でてくれ、ました。──そしてこう私に告げ、ました。『ヴィス。──私がいつか皇帝になったらお前を誰よりも自由に、する。──父の影をお前から、外す』」

            ─── ─── ───

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 兄、ヴァレンの誓い。「私が、いつか皇帝になったらお前を誰よりも自由に、する」。──しかしヴァレンは、十九歳で亡くなった。──十四歳のヴィスカルトの誓いを、果たすことなく。

 稜は深く息を、吐いた。

 「殿下。──兄、ヴァレン皇太子の誓い。──そしてその五年後のご逝去」

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「稜殿。──そうです。──兄は十九歳で亡くなり、ました。──兄の誓いは果たされません、でした。──そして私は兄の影として生き続けることに、なりました」

 稜は一度頷いた。

 ヴィスカルトは長く考えた。──そして深く息を、吐いた。

 「稜殿。──しかし父の虐待はここで終わりません、でした。──父は最後の十五年酒に依存して、深く苦しみました。──そしてその苦しみが徐々に家族への暴力に変わって、いきました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──しかし兄の死の後父の態度はわずかに変わり、ました。──兄を失った後父は私をもう虐待することができなく、なりました。──私が唯一の跡継ぎとなったためです。──父の暴力は、徐々に自分自身に向かうようになりました。──酒、夜更かし悪夢」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──兄の死で、虐待が止まった」

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「稜殿。──そうです。──しかし父の苦しみは徐々に深くなっていき、ました。──そして五年前父はようやく亡くなり、ました。──最後の十五年父は何かにずっと苦しんで、いた」

 稜はわずかに頷いた。

 (──そして私たちは、その苦しみの原因が三十五年前のアウレリア前王アドラム王の毒殺の罪であることを神崎の書斎の書簡で知って、いる)

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は長く沈黙した。

 夕陽が、徐々に沈んでいった。──部屋の外の空が、紫から深い藍色に変わりつつあった。──暖炉の橙色の火が、徐々に私室の唯一の光になりつつあった。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿」

 ヴィスカルトの声は、震えていた。

 「──父はひどい人、でした。──しかし私が父を憎めないのは父もまた同じ父の虐待を受けて育ったから、です」

 稜は黙って頷いた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──祖父前々皇帝ヴィルヘルムは千年の計画の内部の最も深い駒で、した。──ハーゲン帝国の皇帝として千年の構図の内部で生きる、ことの苦しみ。──そしてその苦しみを自分の息子——父フリードリヒ二世——に虐待の形で、向けた」

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿。──祖父もご自身の父——前々々皇帝——から同じような虐待を受けて育っていた可能性が、あります。──そうすれば虐待の連鎖は三代ではなく四代五代またはそれ以上まで遡る可能性が、あります」

 稜は長く考えた。

 「殿下。──虐待の連鎖の構造。──千年の計画の内部で皇帝家の父子関係が、深く歪んでいた可能性」

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「稜殿。──そうです。──ハーゲン皇室の千年の構造の最も、深い闇の一つが父子関係の虐待の連鎖である可能性があります」

 稜は頷きを返した。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは長く稜を見つめた。

 「稜殿。──十八歳の時。──私はある、決意をしました」

 ヴィスカルトの目に深い決意が、宿った。

 「──私は心の中でこう誓い、ました。──『私は父のようには、ならない。──私の代で虐待の連鎖を断ち切る』」

 稜は小さく頷いた。

 「殿下。──十八歳でのご決意」

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──しかし十八歳のご決意の後十六年私は父を憎むことができません、でした。──父はひどい人でしたしかし父も自分自身の父から同じ苦しみを受けて、育った。──父は加害者であると同時に被害者で、もあった」

 ヴィスカルトの声が、震えた。

 「稜殿。──父を憎めないことが私を十六年苦しめ続け、ました。──父の虐待を虐待として認めない、私の心の中の構造。──そしてその組み立ての奥に私自身の自責の層が徐々に深くなって、いきました」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──父の苦しみの原因を理解することと父の行為を虐待と呼ぶことは両立、します。──理解しつつ虐待を虐待と呼ぶ。──それがご自身を守るための最初のステップ、です」

 ヴィスカルトは長く稜を見つめた。──そして静かに頷いた。

 「稜殿。──父の虐待を虐待と呼ぶ。──そしてその虐待の原因を、父自身の人生の構造の中に見る」

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿。──十八歳の決意。──『私の代で虐待の連鎖を断ち切る』。──しかし十六年、私はその決意を果たすことができるか自信がありませんでした」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──私は今三十四歳。──まだ結婚、しておりません。──子も、おりません。──十八歳の決意の形をまだ現実の形にする機会が来て、おりません」

 ヴィスカルトの目に、初めてわずかな温かい光が宿った。

 「稜殿。──しかし王女殿下とお会いして私の心の中で何かが徐々に変わりつつ、あります。──十八歳の決心の形を王女殿下と共に現実の形にする可能性が見え始め、ました」

 稜は無言で頷いた。

 「殿下。──セレネ殿下と、お子さまをお持ちになる瞬間十八歳のご決意が現実の形になる」

 ヴィスカルトは黙って頷いた。

 「稜殿。──そうです。──私は私の子に虐待を、しない。──私の子は誰の影でも、ない。──私の子自身として、生きる」

 ヴィスカルトの目に深い温かさが、宿った。

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。──そして深く頷いた。

 「殿下。──十八歳のご決意の形が、千年の計画の書き直しの内部の最も深い軸の一つとなります」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は長く沈黙した。

 暖炉の火が、机の上で静かに揺れていた。──夜が、徐々に深まりつつあった。──夏の終わりの夜空が私室の窓の外で深い藍色に変わりつつあった。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿。──過去二日お前と対話して私の心の中の何かが徐々に整理されて、参ります。──しかし最も深い層はまだ開けない」

 稜は静かに目を伏せた。

 「殿下。──最も、深い層」

 ヴィスカルトは長く考えた。

 「稜殿。──兄ヴァレンの死の瞬間。──十二歳の私が、見た何か。──十九年、私はその何かを心の中に封じて参りました」

 稜は頷いた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「稜殿。──しかしその何かはまだ私自身開くことができない。──過去、二日お前と対話して心の入り口は徐々に開いて参りました。──しかし最も、深い層はまだ」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──ご自身のペースで結構です。──私は、お待ちいたします」

 ヴィスカルトは何度か頷いた。

 「稜殿。──ありがとう、ございます」

            ─── ─── ───

 夜、午後九時。

 稜と、ヴィスカルトは長く対話していた。──四時間の対話。──ヴィスカルトの八歳から、十四歳までの虐待の記憶。──兄ヴァレンの誓い。──三代の虐待の連鎖の枠。──そして十八歳のご決意。──しかし最も、深い層——兄ヴァレンの死の場面——にはまだ達していなかった。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「稜殿。──今夜は、ここまでとしましょう」

 稜はゆっくりと頷いた。

 ヴィスカルトは、立ち上がった。──そして窓辺に、立った。──夏の終わりの夜空。──月はまだ新月に、近かった。──しかし星が、無数に輝いていた。

 ヴィスカルトは長く夜空を見つめた。

 「稜殿」

 ヴィスカルトの声は、低かった。

 「──明日もう一度来て、くれるか」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──話したいことがある。──十九年、誰にも話せなかったことが」

 稜は、長くヴィスカルトを見つめた。──そして静かに頷いた。

 「殿下。──伺い、ます」

            ─── ─── ───

 稜は、私室を出た。──皇宮の廊下を、ゆっくりと戻り始めた。──夜の廊下。──両脇の壁の歴代皇帝の肖像画が、月光の下で淡く見えていた。──しかし今夜の稜の目には肖像画の皇帝たちの目に別の何かが宿っているように、見えた。──全員、千年の計画の内部の駒として生きた男たち。──そして虐待の連鎖の内部に組み込まれていた、男たち。

 稜は深く息を、吐いた。

 皇宮を、出て神崎の宰相公邸に戻った。──午後、十時。

 神崎が、応接間で待っていた。

 「稜」

 神崎の声は、低かった。

 「──ヴィスカルトの私室、ご報告は」

 稜は小さく頷いた。

 稜は、神崎にゆっくりと報告した。──ヴィスカルトの八歳から、十四歳までの虐待の記憶。──兄ヴァレンの誓い。──三代の虐待の連鎖の構造。──十八歳のご決意。──しかし最も、深い層——兄ヴァレンの死のくだりに十二歳のヴィスカルトが見た何か——はまだ開かれていないこと。──そしてヴィスカルトが、明日もう一度対話を希望していること。

 神崎は長く聞いて、いた。──そして静かに頷いた。

 「稜。──ヴィスカルトの内面の最も、深い層が明日開かれる可能性がある」

 稜は深く頷きを返した。

 「玲。──私は、明日夕刻もう一度ヴィスカルト殿下の私室を訪ねる」

 神崎は何度か頷いた。

 「稜。──十九年、ヴィスカルトの心の中に封じられていた何かが明日開かれる」

            ─── ─── ───

 夜、稜は宰相公邸の客室に戻った。

 革の手帳を開いた。最初の頁の裏に、新しい紙を添えた。

 書いた、一行。

 「──ヴィスカルト殿下第二夜の対話、完了。八歳から十四歳までの父帝の虐待の記憶、開示。三代の虐待の連鎖の認識(祖父ヴィルヘルム→父フリードリヒ二世→殿下)。兄ヴァレンの十四歳の夜の誓い。十八歳のご決意。──最も深い層は明日開かれる、可能性」

 稜は、紙を革の手帳に挟んだ。

 窓辺に、立った。

 葉萌月、二日目の夜空。──夏の終わりの星空。──皇宮の白い、塔のシルエットが夜空の奥で淡く見えていた。

 稜は長く皇宮を見つめた。

 胸の中で、ヴィスカルト殿下の八歳の夜の姿が浮かんでいた。──「お前は、ヴァレンの影、だ」。──「お前、自身は何の価値も、ない」。──酒に、酔った父帝の声。──そして十歳の夜の扉の下から、密かにパンを差し入れた十七歳の兄ヴァレン。──十四歳の夜の杖の暴力から、十四歳のヴィスを守った十九歳の兄の誓い。

 稜は深く息を、吐いた。

 明日ヴィスカルト殿下の最も、深い層が開く瞬間。──兄、ヴァレンの死の瞬間に十二歳のヴィスカルトが見た何か。──十九年、誰にも話せなかった何か。

 葉萌月、二日目の夜が徐々に深まりつつあった。

 稜は長く夜空を見つめて、いた。

稜とヴィスカルトの私室での対話。

「私はあなたの敵でも味方でもない、ただの参謀です」

この一行を書くために、第一部から積み重ねてきた気がします。

ヴィスカルトの八歳・十歳・十四歳の虐待の記憶、書くのが本当に辛かったです。

扉の下から十七歳の兄が密かにパンを差し入れる夜「ヴィス。私はここにいる」——この場面、何度も書き直しました。

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