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『俺を嵌めた相棒が、異世界で敵国の宰相になっていた ─ 戦略コンサルタント、銀貨五枚で王国を買う』  作者: MU
【第二部】【第五章】セレネとヴィスカルト、皇宮の地下深部
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セレネと、ヴィスカルトの最初の対面

 セレネは馬車の中で、母の真珠のネックレスを指先でそっと撫でていた。

 アウレリア王女の正装。白絹のドレス。簡素だが品のある仕立て。襟元の真珠のネックレスは、母エリナ前王妃から譲り受けたもの。母は五年前、トレスト家の陰謀で毒殺された。セレネは十六歳。今日初めて、ハーゲン帝国皇太子ヴィスカルトと直接対面する。馬車の窓の外、帝都ヴェルデンの朝の喧騒。石畳の上の馬の蹄の音。商人の声。子どもの笑い声。セレネはその全てを、胸に静かに吸い込んだ。

 胸の中で、母の言葉が反響した。「セレネ。──人に会う時は、相手の痛みを最初に見なさい」。母が生前、繰り返しセレネに教えた言葉。セレネは深く呼吸した。馬車が皇宮の正門に近づく。衛兵がアウレリアの紋章を確認する。正門が開く。セレネの内心が震える。

 (──殿下。──今日私は、あなたの痛みを見に行く)

 セレネの十六歳の決意。──誰にも言わない言葉。

 馬車の隣の座席に、稜が座っていた。──稜はセレネの緊張を感じていた。──しかし何も言わなかった。──ただ横で静かに座っていた。──十六歳の王女の覚悟の瞬間に必要なのは、言葉ではなく共にいることだった。

 セレネは深く息を吐いた。

 「師」

 セレネの声は静かだった。

 「──皇宮の入り口までお送りいただき、ありがとうございます」

 稜は深く頷いた。

 「殿下。──ご対面の間、私たち四人は別の場所で行動します。──しかし夕刻、再びお会いします」

 セレネはわずかに頷いた。

            ─── ─── ───

 馬車が、皇宮の内の正面玄関の前で止まった。

 ヘルマン副宰相が玄関の前で待っていた。──四十五歳。中肉、銀色の目。改革派の副宰相。──しかし今朝のヘルマンの目には深い敬意が宿っていた。──十六歳の王女の覚悟の瞬間に立ち会う、副宰相としての姿勢。

 セレネは馬車を降りた。──白絹のドレスが、夏萌月の午前の光の中で淡く輝いた。

 ヘルマンは深く一礼した。

 「王女殿下。──ヴィスカルト殿下は私室でお待ちです」

 セレネは深く一礼を返した。

 「ヘルマン副宰相。──ありがとうございます」

 稜が馬車から降りた。──稜とヘルマンが、目で深く頷き合った。──そして稜は別の馬車に戻った。──地下深部への潜入のため、礼拝堂に向かう。

 セレネは長く稜の馬車を見送った。──そして深く息を吸って、ヘルマンに向き直った。

 「ヘルマン副宰相。──ご案内ください」

 ヘルマンは一度頷いた。

 二人は皇宮の長い廊下を、歩き始めた。

            ─── ─── ───

 皇宮の廊下は、長かった。

 白い、大理石の床。両脇の壁。──その壁の両側に、ハーゲン帝国の歴代皇帝の肖像画が整列していた。──二百年の皇帝、たち。初代、バスタン。二代目、フリードリヒ一世。三代目、ヴィルヘルム。──そして十数代の皇帝が、廊下の両脇からセレネを見下ろしていた。

 セレネは、ゆっくりと廊下を進んだ。──白絹のドレスの裾が、大理石の床の上で淡く揺れた。──首の真珠のネックレスが、午前の光でわずかに輝いた。

 廊下の途中。

 セレネの足が、一瞬止まった。

 壁のある、肖像画の前。──前皇帝、フリードリヒ二世。ヴィスカルトの父。──三十五年前、アウレリア前王アドラム王の毒殺を命じた男。──そして十九年前、長子ヴァレン皇太子の暗殺を命じた可能性がある男。

 肖像画は、冷たい目の威厳ある顔をしていた。──しかし目の奥に深い闇が、あった。

 セレネは長くその肖像画を見つめた。

 (──殿下のお父上。──あなたの歪みを、殿下が十九年背負ってこられた)

 セレネの心の中で、深い感情が流れた。──怒り、ではなかった。──同情、でもなかった。──理解の感情。──千年の歪みが、一人の男をここまで変えた構造への深い理解。

 ヘルマンは、セレネの横で静かに立っていた。──十六歳の王女が、前皇帝の肖像画の前で深く何かを感じる瞬間を邪魔しなかった。

 セレネは深く息を、吐いた。──そして再び廊下を、進み始めた。

            ─── ─── ───

 ヘルマンが、廊下の奥の扉の前で立ち止まった。

 扉は、樫の扉。──両脇に、青い礼服の近衛兵が二人立っていた。──ヘルマンが、近衛兵に頷いた。──近衛兵は深く一礼、した。

 「王女殿下」

 ヘルマンの声は、低かった。

 「──ヴィスカルト殿下はお一人で、お待ちです。──私は扉の外で待機、します。──ご対話の間近衛兵も扉から十歩、離れます。──二人だけの対話をご希望です」

 セレネはゆっくりと頷いた。

 「ヘルマン副宰相。──ありがとう、ございます」

 近衛兵が、扉から十歩離れた。──ヘルマンも、廊下の少し離れた場所に移動した。──扉の前は、セレネ一人。

 セレネは深く息を、吸った。──そして扉を、自分の右手でノックした。

 二回。──静かな、しかし確かなノック。

 扉の向こう側から、低い声が聞こえた。

 「──お入り、ください」

 ヴィスカルト殿下の声、だった。

 セレネは、扉をゆっくりと開けた。

            ─── ─── ───

 扉の向こう側、ヴィスカルトの私室。

 部屋は、広かった。──しかし装飾は、最小限。──中央に、楢の机。机の両脇に、二つの椅子。──壁の書架には、千冊の本。──暖炉。──そして窓。──窓の外に、皇宮の中庭が広がっていた。

 部屋の中央、机の前にヴィスカルトが立っていた。

 三十四歳。──金髪、灰色の目。──黒の礼服。──一見、冷たい美男子。──しかし目の下には浅い隈が、あった。──過去、数日ほとんど眠れなかった痕跡。

 ヴィスカルトは、セレネの入室を見て頭を下げた。

 「──王女殿下。──お待ちしておりました。──お入り、ください」

 ヴィスカルトの声は低くしかし丁寧、だった。──そしてその奥に深い緊張も、宿っていた。

 セレネは深く一礼を、返した。

 「ヴィスカルト殿下。──お初にお目に、かかります。──セレネ・アウレリア・アルヴェリアと申し上げ、ます」

 セレネは、部屋に入った。──ヴィスカルトは、扉を自分の手で閉めた。──二人だけ、の空間になった。

 ヴィスカルトは、机の前で立ったままセレネを見つめた。──金髪、灰色の目が長く十六歳の王女を見つめた。──そして深く息を、吐いた。

 「王女殿下。──こちらへ、お座りください」

 ヴィスカルトは、机の片側の椅子をセレネに示した。

 セレネは、ゆっくりと椅子に座った。──ヴィスカルトも、机の反対側の椅子に座った。──二人の間に、机。

 そして机の上に、何かが置かれていた。

 セレネの目が、机の上の紙に止まった。

            ─── ─── ───

 セレネの手紙、だった。

 若葉月、半ばの満月の夜にセレネが書いた最初の手紙。──四枚の羊皮紙。──開かれた、状態で机の上に置かれていた。──そして最後の頁の裏面の一行——「殿下の兄上のために、祈らせてください」——に鉛筆で小さな印が付けられて、いた。

 セレネの目が、長くその印を見つめた。

 ヴィスカルトは、セレネの視線に気づいた。

 「王女殿下」

 ヴィスカルトの声は、低かった。──しかしわずかに、震えていた。

 「──あなたのお手紙を、私は十九年ぶりに涙で濡らしました」

 セレネの息が、止まった。

 長くヴィスカルトを見つめた。──三十四歳の皇太子。──冷たい、美男子の外見の奥に深い深い痛みがあることをセレネは感じた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「王女殿下。──二週間前。──あなたのお手紙を、神崎の使者から受け取りました。──私は、最初の頁を開いた瞬間何かが心の中で止まりました。──そして最後の頁の裏の一行を読んだ、瞬間私は十九年ぶりに涙を流しました」

 ヴィスカルトの目に、わずかに涙が浮かんだ。──しかし流さなかった。──制御、していた。──十九年、誰にも見せなかった涙。

 セレネは深く息を、吐いた。

 「殿下」

 セレネの声は、静かだった。

 「──殿下が、お手紙を深く受け止めてくださったこと深く感謝いたします」

 ヴィスカルトは深く頷いた。

 「王女殿下。──手紙を読んだ後私は三日私室に、閉じこもりました。──食事もほとんど取りません、でした。──私は自分の心の中で何が起こっているのか整理する必要が、あったのです」

 ヴィスカルトは続けた。

 「王女殿下。──そして四日目の朝私は神崎を呼び、ました。──そして神崎にこう、告げました。──『神崎。──セレネ殿下と直接対面、したい。──彼女の手紙を読んで私の心の中の何かが、深く揺れた』」

            ─── ─── ───

 セレネは、長くヴィスカルトを見つめた。

 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。──窓の外で、皇宮の中庭の鳥の声が微かに聞こえていた。──夏萌月の午前の光が、机を淡く照らしていた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「王女殿下。──あなたは、なぜ私の兄のことをお手紙に書いてくださったのですか」

 セレネは深く息を、吸った。

 「殿下。──稜殿と神崎閣下から殿下のご家族のご事情を伺い、ました。──そして殿下が十二歳の時お兄上ヴァレン皇太子様をお失いになったことを知り、ました」

 セレネは続けた。

 「殿下。──私も五年前十一歳の時、母を失いました。──しかし母の死の真相を知ったのは最近です。──十一年、母の死の本当の意味を知らずに生きて参りました」

 「私たちは年齢が十八離れて、おります。──しかし同じ喪失を抱える、者です。──私たちは同じ喪失の別の側に立って、おります」

 ヴィスカルトの目が、長くセレネを見つめた。

 そして深く息を、吐いた。

 「──王女殿下。──十九年、私は誰にも兄の話をできませんでした」

 ヴィスカルトの声が、ここでわずかに震えた。

 「──兄ヴァレン。──十九年前、十九歳で亡くなりました。──公式には、狩猟中の事故。──しかし十九年私はその事故の瞬間の記憶を抱えて生きて、来ました」

 セレネは無言で頷いた。──静かに。──ヴィスカルトの語りを、邪魔しないように。

 ヴィスカルトは続けた。

 「──十九年誰にも兄の名を口にすることができません、でした。──兄の名を口にする度に私は息が詰まり、ました。──兄ヴァレンという二つの音節を口に出すたびに十二歳の私の何かが私を責め続け、ました」

 セレネは深く息を、吸った。

 「殿下。──息が詰まるその感覚私も知って、おります。──母の名エリナを口にする度に今でも胸が、痛みます」

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは、長くセレネを見つめた。

 二人の間に、また沈黙が流れた。──窓の外で、鳥の声が続いていた。──夏萌月の午前の温かい空気が、窓辺の白い薄絹のカーテンを淡く揺らしていた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「王女殿下。──兄の思い出を、少しお話してもよろしいですか」

 セレネは小さく頷いた。

 「殿下。──お聞かせ、ください」

 ヴィスカルトは長く考えた。

 「──兄ヴァレンは私の七歳年上、でした。──私が生まれた時兄はすでに、七歳。──兄は私のことを最初から可愛がって、くれました」

 ヴィスカルトの目が、わずかに温かくなった。

 「──兄は私を『ヴィス』と呼んで、いました。──私が五歳の時兄、十二歳。──兄が私に初めて馬の乗り方を教えて、くれました。──私は馬から、何度も落ちました。──兄は毎回笑いながら私を起こして、くれました」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──兄は馬に乗るのが誰よりも上手、でした。──皇宮の馬丁長が兄の乗馬を見ていつもこう言って、いました。『ヴァレン殿下の乗馬は千年に一人の才能』、と」

 セレネは黙って受け止めた。──兄、ヴァレンの姿を心の中で想像した。──十九歳。──馬に乗るのが、千年に一人の才能。──そして五歳の弟、ヴィスを笑いながら起こす優しい兄。

 しかしその兄が、十九歳で亡くなった。──馬の鞍の細工で、落馬。──そしてヴィスカルトが、目の前で何かを見た可能性。──十二歳のヴィスカルトの目に、深く残った何か。

 セレネは深く息を、吐いた。──ヴィスカルトの十九年の孤独の深さを、ようやく感じる瞬間だった。

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は沈黙した。

 時計の音が、私室の奥で静かに聞こえていた。──午前、十一時半。──セレネの入室から、約一時間半が過ぎていた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「──王女殿下。──お母様の思い出を、少しお話してもよろしいですか」

 セレネは黙って頷いた。

 「殿下。──お聞かせ、ください」

 セレネは、母エリナ前王妃の思い出をゆっくりと語り始めた。

 「──母は王妃として忙しい人、でした。──しかし毎晩必ず私の寝室に来て絵本を読んで、くれました。──母の声は低く温かく私はその声をを聞きながら眠りに、つきました」

 セレネは続けた。

 「──母の好きな、花は忘れな草でした」

 ヴィスカルトの目が、わずかに止まった。

 セレネは続けた。

 「──白い忘れな草。──母は、生前王宮の庭でよく忘れな草を育てていました。──そして生前、私にこう言いました。『セレネ。──私が、いなくなった後も忘れな草を見たら私を思い出してね』」

 セレネの目に、わずかに涙が滲んだ。──しかし流さなかった。

 「──母は私が十一歳の時四十八歳で亡くなり、ました。──公式には心臓発作。──しかし最近、私は母の死の真の原因を知りました。──ハーゲン帝国のトレスト家の毒物による、毒殺でした」

 ヴィスカルトの息が、止まった。

 「──王女殿下。──トレスト家、ですか」

 セレネは深く頷いた。

 「殿下。──そうです。──そして母は亡くなるまで二十年ヴィスカルト皇太子家の傍系の男性フリードリヒ・フォン・ヴァランディン様と密かに文通しており、ました。──二人は千年の計画の内部の改革派の活動を続けて、おりました」

 ヴィスカルトの目が、長くセレネを見つめた。

 「──フリードリヒ・フォン・ヴァランディン。──シモーネ皇妃のいとこ。──私の母方の家系の傍系の男」

 セレネは静かに頷いた。

 ヴィスカルトは長く考えた。

 「──王女殿下。──フリードリヒ殿のことは覚えているわずかに覚えて、いる。──私が十歳頃皇宮を訪れていた、男。──私を優しく見つめていた、目」

 「──フリードリヒ殿は五年前馬車の事故で亡くなったと聞いて、いた。──しかしそれもトレスト家、なのか」

 セレネは無言で頷いた。

 「殿下。──そうです。──馬車の構造の細工。──トレスト家の別のメンバーが実行、しました。──母とフリードリヒ様二人は同じ年にトレスト家に殺されたと稜殿と神崎閣下の調査で判明、しました」

 ヴィスカルトの目が、深く揺れた。

            ─── ─── ───

 長い沈黙が、流れた。

 ヴィスカルトは、机の上で両手を強く握っていた。──指の骨が、白く浮かんでいた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「──王女殿下。──申し訳、ございません」

 セレネの目が、ヴィスカルトを見つめた。

 ヴィスカルトは続けた。

 「──私は過去五年トレスト家との関係を徐々に強めて、いました。──家の闇の仕事の全てを知っていたわけでは、ありません。──しかし私は彼らを、利用していました。──そしてその彼らがあなたの母君と私の母方のいとこを、殺した」

 ヴィスカルトの声は、震えていた。

 「──王女殿下。──私は深く謝罪、いたします」

 セレネは、長くヴィスカルトを見つめた。

 「殿下。──頭を、上げてください」

 ヴィスカルトは深く息を、吸った。──そしてセレネを見た。

 セレネは続けた。

 「殿下。──殿下ご自身が母を殺したわけでは、ありません。──トレスト家の千年の構造の内部に利用されていた可能性があるという、ことです。──殿下ご自身も千年の歪みの被害者の一人」

 ヴィスカルトは、長くセレネを見つめた。

 セレネは続けた。

 「殿下。──私は怒りではなく理解でこの構造に、向き合います。──殿下ご自身に対しても怒りではなく理解で向き合い、ます」

 ヴィスカルトの目からようやく涙が、流れた。──十九年、ぶりの涙の二回目。──しかし今度は、抑えなかった。

 「──王女殿下。──あなたの強さ。──あなたの深さ。──十六歳の王女のご決意の深さ」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は沈黙した。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。──そしてようやく口を開いた。

 「──王女殿下。──あなたは、なぜお手紙で私との政略結婚の可能性を言及されたのですか」

 セレネは深く息を、吸った。

 「殿下。──最初政略結婚は政治的なオプションとして考えて、いました。──しかし今殿下と直接お会いして分かり、ました。──政略結婚ではなく同じ喪失を抱える者としての同盟として私たちは立てるのではない、かと」

 ヴィスカルトは、長くセレネを見つめた。

 長い沈黙が、流れた。

 ヴィスカルトは深く息を、吐いた。

 「──王女殿下。──あなたはまだ十六歳です。──私は三十四歳。──年齢差は、十八歳。──あなたには別の若い幸せな道があるはず、です」

 セレネは黙って頷いた。

 「殿下。──ご配慮ありがとう、ございます。──しかし私は私自身の意志でこの道を、選びます。──誰の道具にもなり、ません」

 セレネの声は、静かだった。──しかし奥に深い決意が、宿っていた。

 「殿下。──十八歳になった時正式に殿下との婚約を決めたいと思って、おります。──それまでの二年間殿下と、お手紙の往復を続けたい」

 ヴィスカルトは、長くセレネを見つめた。

 そして深く頷きを返した。

 「──王女殿下。──あなたの強さに、敬意を表します」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──私も二年間あなたと、お手紙を続けます。──そして二年後あなたがまだ同じご意志をお持ちでありましたら、──私はあなたをお迎え、いたします」

 セレネは深く腰を折った。

 「殿下。──ありがとう、ございます」

            ─── ─── ───

 時計の音が、午後零時を告げた。

 セレネの入室から、約二時間が過ぎていた。──二時間の深い、対話。──十六歳の王女と、三十四歳の皇太子の最初の出会い。

 セレネは、立ち上がった。

 「殿下。──そろそろ、失礼いたします」

 ヴィスカルトも、立ち上がった。

 二人は、扉までゆっくりと歩いた。

 扉の前でセレネは、ヴィスカルトに腰を折った。

 「殿下。──次のお手紙を、楽しみにしております」

 ヴィスカルトはゆっくりと頷いた。

 「王女殿下。──私もです。──次のお手紙を、お待ちしております」

 セレネは、扉を自分の手で開けた。

 扉の外、廊下にヘルマン副宰相が待っていた。──ヘルマンは深く頭を下げた。

 セレネはもう一度振り返った。──ヴィスカルトを、長く見つめた。

 「殿下。──失礼、いたします」

 ヴィスカルトも深く一礼した。

 「王女殿下。──道中、お気をつけて」

 セレネは、廊下に出た。──ヘルマンが、先導した。──二人は、長い廊下をゆっくりと戻り始めた。──歴代皇帝の肖像画の下を、歩く。──白絹のドレスが、大理石の床の上で淡く揺れた。

 ヴィスカルトは、扉の前で長く立っていた。──セレネの後ろ姿が、廊下の奥に徐々に小さくなっていく姿を見つめ続けた。

 扉の奥で、セレネの姿が完全に消えた後ヴィスカルトはゆっくりと扉を閉めた。

            ─── ─── ───

 ヴィスカルトは、一人私室に戻った。

 机の上のセレネの手紙を見た。──四枚の羊皮紙。──最後の頁の裏の一行に、鉛筆の印。──「殿下の兄上のために、祈らせて、ください」。

 ヴィスカルトは、机の上でセレネの手紙を静かに撫でた。

 そして窓辺に立った。

 皇宮の中庭の正午の光。──夏萌月の午前の温かい空気が、徐々に午後の温かさに変わりつつあった。──中庭の若葉が、日光の下で緑色に輝いていた。

 ヴィスカルトの胸の中で、十九年ぶりの温かい何かが動いていた。

 ヴィスカルトは低く呟いた。

 「──セレネ、殿下」

 名前を呼んだ。──セレネ。──十六歳の王女。──白絹のドレス。──首の真珠のネックレス。──そして何より、十六歳の目の深さ。

 「──あなたは、兄の目に似ている」

 ヴィスカルトは続けた。

 「──いや違う。──あなたは、兄の目ではなくあなた自身の目を持っている」

 ヴィスカルトは、机に戻った。──机の引き出しを開けた。──奥から、一枚の古い肖像画を取り出した。

 肖像画には、二人の姿が描かれていた。──十九歳のヴァレン皇太子。──そして十二歳のヴィスカルト。──二人の兄弟。──馬の横で笑っている、姿。──兄が、弟の肩に手を置いている。──十九年前の肖像画。──兄の死の半年、前。

 ヴィスカルトは、肖像画を机の上に置いた。──そしてその横にセレネの手紙を、並べた。

 左に、兄ヴァレンと幼いヴィスの肖像画。──右に、セレネの手紙。──中央に、ヴィスカルトの手。──正午の光が、机を白く照らしていた。

 ヴィスカルトは長く二つを見つめた。

 左、過去。──右、未来。──そして中央、現在のヴィスカルト。

 ヴィスカルトは低く呟いた。

 「──兄上」

 ヴィスカルトの声は、震えていた。

 「──僕、もう一度誰かを愛してもいいのでしょうか」

 長い沈黙が、流れた。

 窓の外で、皇宮の中庭の若葉が午後の風に揺れていた。──鳥の声が、続いていた。

 ヴィスカルトの目に、十九年ぶりの小さな希望の光が宿った。

 彼は、十九年ぶりに窓の外の光を温かく感じた。

 「──セレネ、殿下」

 ヴィスカルトの小さな、しかし確かな希望が正午の光の中で静かに芽吹いた。

 夏萌月十七日目、午後零時半。──皇宮の中庭の若葉が、夏の風に揺れていた。──セレネの手紙の上で、午後の光が淡く揺れていた。──ヴィスカルトの十九年の孤独が、ようやく別の形に変わりつつあった。

セレネとヴィスカルトの最初の対面。

書くのに、一番時間をかけた回かもしれません。

ヴィスカルトの「あなたの手紙を、十九年ぶりに、涙で濡らしました」

忘れな草の花、E61のフィオナとの呼応。

恋愛要素の核心、ここから始まります。

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