鎖の音は、街道で聞こえた
月光の月十四日目の朝。
リリアが南へ去った翌日、俺は一人、青の街道を進んでいた。
街道は徐々に細くなり、両側の葡萄畑は姿を消し、代わりに松の林が増えていった。月影亭まで、あと四日の距離。
馬車の御者は無口なままだった。俺は馬車の後部で、手帳を開いていた。
昨日書いた一行の下に、もう一行。
月光の月十四日目。リリア南下。単独行。
ペンを置いた。
前世の俺なら、こういう旅の空白時間を「非効率」と嫌った。今、俺はその空白を、悪くないと思い始めている。
─── ─── ───
正午過ぎ、街道が大きく西に曲がる手前で、馬車が止まった。
御者が振り返った。
「旦那。前に、護送隊が、通ってます」
俺は馬車を降りた。
街道の先、二百歩ほど。一列の隊列が南へ歩いていた。
先頭に、二人の馬上の兵士。深紅のマント。ハーゲン帝国の紋章。
その後ろに、十五人ほどの男たち。鎖で繋がれていた。
隊列の最後尾に、もう二人の兵士。
徴用された男たちの護送。
広場で王が署名したあの徴用令の、その後の姿。鉱山への道。
俺は街道の脇の、松の幹の陰に、身を寄せた。
御者に目で合図した。御者は頷き、馬車の速度を落とした。
護送隊との距離、二百歩を保ったまま、俺たちは進んだ。
鎖の音が、風に乗って、途切れ途切れに聞こえた。
─── ─── ───
隊列の中の男たちを、俺は観察した。
全員、二十代から四十代の男。肩の骨の浮き方、腕の太さ。
農夫の肩ではなかった。職人の肩でもなかった。
もう一段、特殊な肩だった。
俺は目を細めた。
一人、二人、三人──全員、左の肩のほうが右より高い。
右利きの職人が、繰り返し同じ動作をして左肩が持ち上がった結果の、不均衡。
左肩を持ち上げる動作とは、何か。重い物を、右手で持って左で支える動作。
鍛冶屋の肩。あるいは石工の肩。
つまり、徴用された男たちは、単なる農民ではない。
鍛冶屋と石工ばかりが、選ばれて、送られている。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
(──ハーゲンは、金属加工と石材加工の、専門職人を、選別している)
(──兵として使うなら、体力だけあればいい。職人を選ぶ必要はない)
(──専門職人を送る先は、鉱山ではない)
考えが、一歩進んだ。
鉱山は鍛冶屋や石工の技能を必要としない。鉱山に必要なのは単純労働力。しかし帝国が選別して送っているのは、技能職だ。
ならば、送り先は、別のところだ。
兵器工廠。
帝国の、新しい武器を、作る場所。
それならば説明がつく。帝国が属国から、なぜ「女」まで連れて行こうとするか。女の手が必要な、繊細な組み立て作業が、あるから。
俺は松の幹に背をつけ、息を整えた。
仮説、高確度。しかし確証は、まだ、ない。
─── ─── ───
その時、護送隊の中で、何かが、起きた。
列の後ろから、一人の男が倒れた。
鎖が連鎖的に揺れた。前の男たちが、引きずられた。
隊列が止まった。
兵士が馬から下りて倒れた男を蹴った。男は動かなかった。
兵士がもう一度、強く蹴った。男の首が、不自然な角度に曲がっていた。
……死んでいる。
兵士は舌打ちし、鎖の鍵を開けた。倒れた男を、街道脇の茂みに、蹴り飛ばした。
それから鎖の両端を、繋ぎ直した。
隊列がまた、動き始めた。鎖の音が、鳴った。
街道脇に、男の死体が、残された。
誰も、埋葬しなかった。
─── ─── ───
護送隊が視界から消えてから、俺は馬車を降り、街道脇の茂みに歩いた。
御者が驚いた声を出した。
「旦那、やめときなよ」
「関わったら、帝国に目を付けられる」
「分かってる」
「ただ、顔だけ、見る」
俺は茂みを分けて死体に近づいた。
男は五十代。痩せていた。左肩が、右より、明らかに、高かった。
顔は、土埃で、灰色に染まっていた。しかし目の皺の深さが、笑い皺だった。
笑う人生を、送ってきた男。
それが、街道脇の茂みで、一人、死んでいた。
俺は男の上着の胸ポケットを、確かめた。
小さな、木の欠片。彫刻刀で、削られた、人の形。
妻か、娘か、孫か──誰かの木彫り。
男は鎖に繋がれながら、誰かの木彫りを、握っていた。
俺は木彫りを、男の手の中に戻した。
しかし戻しながら気づいた。
男の左の小指の付け根に、古い入れ墨があった。
小さな、錨の形。
港の船員の入れ墨ではない。
船員が刻むのは、もっと大きな、派手な錨。
これは、小さく、目立たないように刻まれた錨。
俺の記憶が動いた。
アウリオンの港湾区。昨夜、宿で老人が、ぽつりと言った一言。
「港湾区には、鎖の音が、時々、する」
俺はその時、聞き流した。しかし今、思い出した。
港湾区は、徴用された者たちの、積み出し港になっているはずだ。
しかし老人は「鎖の音が、時々する」と言った。
つまり、徴用の日ではない日にも、鎖の音がする。
それは積み出し以外の目的で、鎖の男たちが港湾区に出入りしているということ。
そして今、街道で死んだこの男の小指に、港湾区の隠し印。
線が、繋がった。
(──徴用された者の一部は、鉱山にも兵器工廠にも行っていない)
(──港湾区で、何か別のことに、使われている)
(──そして使われた後、街道で、消されている)
俺は立ち上がった。
御者が不安そうな顔をしていた。
「旦那。もう、戻りましょう」
「ああ」
俺は死体に背を向けた。
木彫りを握った手を、一度だけ見た。
茂みに戻る前、俺は自分の上着のポケットから、銀貨を一枚、取り出した。
男の手に、そっと、握らせた。
冥府への、渡し賃。
前世の日本の風習だった。異世界にも、似た風習があるかは知らない。
しかし銀貨一枚くらいなら、男の次の旅路に、重すぎることはない。
─── ─── ───
馬車に戻った。
御者は何も訊かなかった。
ただ少し震える手で、手綱を握った。
「旦那」
「ん」
「……旦那はあの死体を見に行った、初めての客です」
「十年この街道を走って、何度も街道脇の死体を見てきました」
「誰も、降りなかった」
俺は答えなかった。
御者はそれ以上、訊かなかった。
馬車は、松の林を、南へ進んだ。
鎖の音は、もう、聞こえなかった。
─── ─── ───
その夜、俺は街道沿いの宿で、手帳を開いた。
今日の一行を書いた。
月光の月十四日目。
街道脇に、死体一つ。左小指、錨の隠し印。港湾区との関連、高確度。
徴用の一部は、別目的で、消耗されている。
ペンを置いた。
手帳の革が、今日は、いつもより、冷たかった。
温かくなる日もあれば、冷たくなる日もあると俺は気づき始めていた。
人を救った日は、温かい。
人の死を、見送った日は、冷たい。
高樹さんの一行が蘇った。
「稜、お前は悲しむ力を、まだ、使っていない」
「戦略は、喜ぶ時ではなく、悲しむ時に、使うものだ」
二十年前、師が、飲みながら言った一行。
意味が、今夜少し分かった気がした。
悲しむ力とは、死んだ者の情報を、生きている者のために、使う力のこと。
街道脇の男の小指の錨。
男は死んだ。しかし錨は、俺の手帳に、残った。
俺はその錨を、アウリオンの港湾区で、誰かの命を救うために、使う。
それが今夜、俺が悲しむ力の使い方を覚えた瞬間だった。
─── ─── ───
【同刻、帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎は執務室の壁の前に、立っていた。
壁には、大陸全土の、大きな地図が、貼ってあった。
色の違う印が、何箇所にも打たれていた。
赤い印、鉱山。
青い印、兵器工廠。
黒い印──アウリオンの、港湾区にのみ打たれていた。
副官が神崎の横に立った。
「閣下。アウリオン街道の一件伝令が届きました」
「顧問稜は、護送隊の死体に近づきました」
「小指の錨を、確認した可能性、高し」
神崎は地図から、目を離さなかった。
「……あいつ、早いな」
副官が息を呑んだ。
「閣下、黒い印の件は、皇帝陛下にしか、ご存知ないはずでは」
「稜は気づいた」
「物証は、ない。しかし、線を、繋いだ」
神崎はアウリオンの黒い印を、指で撫でた。
「──副官」
「はい」
「黒い印の業務を、今月、一時、停止せよ」
「稜が月影亭に着く頃までに、港湾区を、綺麗にしておけ」
副官の顔色が、変わった。
「閣下、それは、皇帝陛下の、御業務で……」
「俺が責任を、取る」
「皇帝陛下には、稜の動きを、察知したとご報告申し上げる」
「陛下は、事業の一時停止を、選ばれるはずだ」
神崎は地図の前を、離れた。
「副官」
「はい」
「稜の動きに、俺は振り回されている、と思うか」
副官は沈黙した。
神崎は笑った。
「振り回されている、ではない」
「あいつの動きに、俺が呼応している」
「それは、昔から、そうだった」
「──俺たちは、お互いに、振り付け合っている」
神崎は窓の外を見た。帝都に、月が昇っていた。
十日月。
「一月後まで、あと、十六日、か」
街道脇の死体。
「御者が十年見てきて、誰も降りなかった」
──この一行を書くのが、一番つらかったです。
稜が銀貨を一枚、死体の手に握らせる場面。
冥府への渡し賃。
顔も知らない男の、最後の旅路に、何かを添えたかった。
次話、ロッテが動きます。




