娘が、死ぬかもしれない
月光の月、十三日目。朝の鐘が四つ鳴った。
葉緑村の宿の二階。窓を開けると、朝霧が葡萄畑に薄く落ちていた。
昨夜、薬草畑で出会った女──リリア。
俺は宿の食堂へ降りた。
リリアは既に、朝食の席に座っていた。
茶色のワンピースに、黒のショール。髪は栗色で肩の高さ、三つに編んでいた。昨夜の旅装より少しだけ手入れがされた姿。
しかし目の下の隈は、昨夜より深かった。
「稜殿、おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか」
リリアは微かに笑った。
「……眠れた振りは、商人の基本の芸でございます」
俺は向かいの席に座った。
宿の朝食は黒パン二切れ、薄い麦粥、塩漬けの魚一切れ。旅人の標準。
リリアは麦粥を一口、口に運んだ。そして匙を置いた。
それから、膝の上で、何かを強く握った。
(──リリアは朝一番で、悪い知らせを、受け取っている)
俺はそれに気づいたが、触れなかった。
食事を続けた。
先に聞き出すのは下手だ。相手が自分から話すのを、待つほうがいい。
リリアは三分ほど、沈黙した。
それから薄い笑いを作った。
「稜殿。少し、お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、月影亭で、何をなさるおつもりで」
俺は麦粥を飲み干した。
「ある男と会う。十五年ぶりの、旧知の男」
「旧知、とは」
「前世の知り合い、と言ってもよい」
リリアの眉が、微かに動いた。
「前世」という言葉を俺はここで初めて他人の前で使った。普通なら狂人扱いされる言葉。
しかしリリアは狂人を見る目をしなかった。
むしろ──納得した顔をした。
「……アウリオン広場の契約書が光った話、伝わっております」
「光は、古代の血の継承者の前でのみ、現れる」
「継承者は前世を持つことが多い、と」
俺は少し驚いた。
「商人の耳は、それも知っているのか」
リリアは微かに頬を緩めた。
「商人は、売れる情報しか、頭に入れません」
「古代の光の継承者──これは、売れる情報でございます」
「誰に、いくらで売るかは別の話でございますが」
俺は頷いた。この女情報の値段を知っている。
─── ─── ───
食事の後、宿を出た。
馬車を二台、並べて走らせる形で、街道を南へ進んだ。
俺の馬車とリリアの馬車。御者は別々だが、速度を合わせて走った。
昼過ぎ、街道の中継地の小さな村で、休憩を取った。
馬に水を飲ませる。俺とリリアは村の井戸の横のベンチに座った。
その時、一騎の早馬が、南から駆けてきた。
馬は土埃を上げて止まった。乗っていた若い男──伝令だった。リリア宛の、封書を渡した。
リリアは封を開けた。
読んだ。顔色が、一瞬で変わった。
血の気が引いた。
頬が白くなった。
文字を追う目が左から右へもう一度戻って、また追った。三度同じ行を読んだ。
それから手紙を握りしめた。
指先が震えていた。昨夜、薬草を握り潰しそうだった、あの指と同じ震え。
俺はリリアを見ていた。
訊かなかった。待った。
リリアがしばらくしてから声を出した。
「稜殿」
「少し、失礼いたします」
「どこへ」
「……娘の、薬が、届きませんでした」
「今月分の配給が、止められました」
「理由は、書かれておりません」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
薬の配給。誰が止めた。帝国が止めたに決まっている。
昨夜、俺がリリアに出会った。それを、誰かが見ていた。
そして、俺の動き方を試すために、リリアの娘の薬を止めた。
(──神崎)
俺はその名を、口の中で転がさなかった。しかし、確信した。
あいつの仕掛けだった。
俺が十五年隣で見てきた、あいつの手口。相手の弱みを正確に突いて相手の対応を観察する癖。
─── ─── ───
リリアは馬車に戻ろうとした。
ここから娘のいる町まで、急ぎ馬で三日。
「稜殿。申し訳、ございませんが、先に参ります」
「月影亭で、三日後に、お会いしましょう」
俺は首を振った。
「薬代は、いくらだ」
リリアが振り返った。
「……なぜ」
「いくらだ」
リリアはしばらく、俺を見た。
商人の目で、測った。
「……月、銀貨、三十枚」
「三十枚ないと、エマ──娘の病が進む」
銀貨三十枚。
職人の月給の、十倍。
俺は革の財布を出した。王の契約で、前金として二十五日分、銀貨百二十五枚を受け取っている。
その中から、三十枚を数えた。
リリアに、差し出した。
リリアは手を、出さなかった。
「稜殿。理由が、分かりません」
「昨夜会ったばかりの、旅人の、顧問殿」
「──なぜ知らない女の、娘の薬代を」
俺は手を、差し出したまま言った。
「父を、七歳で、亡くした」
「俺の母は俺を育てるために、二つの仕事を抱えた」
「しかし薬代で困ったことはなかった」
「それは俺の母が、運が、良かっただけだ」
「俺の母が運が悪ければ、俺も死んでいた」
「──今、運を、貸す」
下町の木造アパート。
冬の午後三時。
ランドセルを畳に置いた時の音。
母の背中。鍋の湯気が消えた瞬間。
母の目は、赤くなかった。涙も、出ていなかった。
ただ、指が、震えていた。
その指を、母は隠そうとしなかった。
一瞬前世の母の震える指が、指先を触れて去った。
リリアが受け取った。
指が、やはり、震えていた。
しかしリリアは母と違い、震えを、隠そうとした。
袖の中で、握り込んだ。
「稜殿」
「この銀貨、借用書を、書かせてください」
「要らん」
「要る、のです」
リリアの声が、低くなった。
商人の、芯の、声だった。
「私は、信じる時に、紙を要る」
「夫が死ぬ前に言いました」
「人は嘘をつく。しかし紙に書かれた契約は、嘘をつかない。紙だけを信じろ」
「──十年、守ってきました」
俺は少し、考えた。
それから頷いた。
「──分かった」
「では、書こう」
─── ─── ───
井戸の横のベンチでリリアが革の小さな帳面を出した。
商人の帳面。契約書の様式が刷られていた。
リリアが書いた。
一、貸主:高木稜。借主:リリア。
一、金額:銀貨三十枚。
一、目的:娘エマの月の薬代。
一、返済期限:三ヶ月以内。
一、返済方法:商人ギルドの情報または現金。
俺はそれを読んだ。
「一つ、条項を、追加したい」
「どうぞ」
「返済不能の場合、貸主は貸倒れを受け入れる」
リリアの指が止まった。
「──貸倒れ、とは」
「返さなくて、いい、ということ」
「あんたが娘の治療に銀貨を使い果たして、それでも娘が死んだ場合」
「もしくは、あんたが返す前に、俺が死んだ場合」
「──紙が、借主の首を、絞めない」
リリアは長く、俺を見た。
それから書き加えた。
文字が、濡れた。
リリアの涙が紙に一滴落ちた。
リリアは急いで袖で拭おうとした。しかし、俺は止めた。
「拭かなくていい」
「涙の滲みは、紙に残る」
「──あんたが、今日、これを書いた証だ」
リリアは涙を拭かなかった。
しかし涙の残りはまた袖の中に吸い込まれた。
二人分の署名。
俺が、円の中に、一本の縦線の印章を押した。
リリアが、ギルドの印章を押した。
契約書が一通出来た。
─── ─── ───
リリアが馬車に戻った。三日、飛ばして、娘の元へ帰る。
俺は別れ際に、一言、付け加えた。
「リリア」
「はい」
「月の配給を止めた者は、俺も、追う」
「月影亭であんたが来るまでに、その男の名を掴んでおく」
リリアは俺を見た。
青緑の瞳が、少しだけ広がった。それから微かに笑った。
「……稜殿は娘を救うついでに、帝国を壊すおつもりですか」
「壊しはせん」
「軋ませるだけだ」
リリアは笑った。
今度は、はっきりと声を出して笑った。
涙の跡が、頬に残ったまま笑った。
この女が声を出して笑うのを俺は初めて見た。
「──稜殿」
「先ほどの、貸倒れ条項」
「あの一行で、私、あなたのことを少し信じます」
リリアが馬車に乗った。
三日の旅程。馬を飛ばす。
土埃が上がりリリアの馬車が、南へ消えた。
─── ─── ───
俺は一人、井戸の横のベンチに残った。
手帳を開いた。
今日の一行を書いた。
月光の月、十三日目。
リリアに、銀貨三十枚。契約書、一通。
娘の名、エマ。病名、不詳。十四歳。
ペンを置いた。
手帳の革が温かかった。昨日より少し強く温かい。
(──俺が、銀貨を貸したのは、初めてではない)
(──前世でも何度か、同僚や部下に金を貸した)
(──しかし貸倒れ条項を自分から入れたのは初めてだ)
前世で俺は貸した金を、必ず取り立てた。
取り立てることが、信頼の証だと、思っていた。
──違った。
取り立てる覚悟より、貸倒れを受け入れる覚悟のほうが重い。
後者は、相手の自由を、返す行為。
前者は、相手の義務を、固定する行為。
リリアは俺の覚悟のほうを、読み取った。
だから少し信じた。
高樹さんが、二十五歳の俺に言った一行が蘇った。
「稜、信じるというのは、裏切られる権利を相手に渡すということだ」
二十年前の、師の言葉。
意味が、今日、ようやく、分かった気がした。
─── ─── ───
【同刻、帝都ヴェルデン、皇宮】
神崎は執務机で、一通の報告書を読んでいた。
「アウリオン王国顧問高木稜、本日昼、街道の中継地にて、商人ギルド長リリアに、銀貨三十枚を貸与。貸倒れ条項付き契約書、交換」
神崎は報告書を、読み終わってしばらく沈黙した。
それから笑った。
声を、立てずに笑った。
「貸倒れ条項、か」
副官が首を傾げた。
「……異例の条項でございますが」
「稜が、成長した、ということだ」
神崎は椅子に、背を預けた。
「十五年前、あいつは貸した金を必ず取り立てた」
「今、貸倒れを、自分から、入れた」
「あいつは、相手の自由を、返すことを、覚えた」
神崎は目薬の瓶を、転がした。
差さなかった。
「──副官」
「はい」
「エマという少女の薬を、今月分、届けよ」
「稜が、勝った」
副官が息を呑んだ。
「閣下、これは、帝国の負け、でございますよ」
「違う」
神崎は窓の外を見た。夕陽が帝都の赤い屋根を照らしていた。
「稜が勝ったは、俺も、勝った、ということだ」
「あいつが強くなければ、俺と対峙する資格が、ない」
「弱い相手と対峙しても、盤は、面白くならない」
神崎は少し笑った。
「稜よ」
「お前が、強くなっていけ」
「俺はその強さと、一月後に、向き合う」
神崎は立ち上がった。
執務室を、一人で歩いた。
歩きながら胸ポケットの、円の中の縦線の印章を、指で撫でた。
印章の線が、淡く、青く、光った気がした。
神崎は息を止めた。
光ったかもしれない。光らなかったかもしれない。
一瞬だった。
神崎は印章を胸ポケットに戻した。
そして深く息を吐いた。
「──まだ、だ」
「俺の印章は、まだ、光らない」
「先生、まだ、光らないのです」
窓の外夕陽が、赤く燃えていた。
貸倒れ条項──返さなくていい、と契約書に書く条項。
稜にとっての十一年の贖罪の、一つの答えでした。
前世の母の、震える指。
震えを隠さなかった母の姿は、稜の美学の原点です。
神崎の印章が微かに光る描写、お気づきいただけたでしょうか。
あの男にも、まだ何かが、残っているのかもしれません。
次話もお楽しみに。




